J. D. サリンジャー
ライ麦畑で捕まえるやつ
母に
1
ホンマにおれの話聞きたい言うんやったら,どうせおれがどこで生まれたとか,小さいときどんなカスみたいやったかとか,おれ生まれるまえ親なにしとったとか,そんなデヴィッド・カッパーフィールドみたいなウンコみたいな話から聞きたいんかもしれんけどな,おれそんな話する気ないで,マジで。そもそもそんなんおれおもんないし,せやし,うちのおとんとおかん,もしちょっとでも自分らのこと言われたらひとり二回ずつぐらい出血してまう思うわ。そんなんめちゃくちゃ気にすんねん,とくにおとんが。ええひとらやねんけどな──それぐらい言うてええ思うけど──めちゃめちゃ気にすんねん。せやし,おれアホみたいに自伝とか全部喋る気ないで。おれ,もうあかんようなってここまで来て落ちつくようなるちょっとまえ,去年のクリスマスごろ,きちがいみたいな目遭うててん。そんときの話だけするわ。いっかいD.B.に話したこと全部。D.B.は兄貴。ハリウッド住んどおんねん。こっからあんま遠ないから,たいがい土曜とか日曜わざわざこんなむっさいとこ面会に来てくれんねん。たぶん来月おれ家帰るから,そんとき車で送ってもらうことなってんねん。兄貴,ジャグア乗っとおんねん。時速二百マイルぐらい出るイギリスのちっこいやつ。四千ドルまでいってへんけど,アホみたいにそれぐらいしてんて。金持ちなりよってん,兄貴。前はちゃうかってんけどな。前はふつうの作家やってん,家おったときは。知らんかな,『秘密の金魚』てすごい短編集書いてんねん。その本でいちばんええんは,「秘密の金魚」いう男の子の話やねん。その子だれにも金魚見せへんねんけど,なんでかいうたら,その金魚自分のカネで買うたから言いよんねん。びびったわ。兄貴いまハリウッド行って,売春やっとおるわ。おれ嫌いなもんひとつ言うとしたら映画やな。話聞くのも嫌やわ。
とにかくおれ話したいんのは,ペンシー・プレップ出てきた日からやねん。ペンシーてペンシルヴァニアのエーガーズタウンいうとこある学校やねんけど,名前ぐらい聞いたことないかな。たぶん広告ぐらい見たことある思うわ。雑誌千種類ぐらい広告出しとおんねん。いっつもイキったやつ馬乗って柵跳びこえてる写真載ってんねん。ペンシーではいっつもポロばっかりやってます,みたいな。あのへん馬なんか一頭もおれへんで。ほんで,馬乗ったやつの写真のしたにいっつも「一八八八年以来,男の子たちが,私たちの陶冶によって聡明な青年に変貌しています」て書いたあんねん。アホかっちゅうねん。なんやねん,陶冶って,そんなんペンシーでもほかの学校でもやってるかあ。あっこで聡明な青年なんか見たことなかったわ。二人ぐらいかな。おったとしても。けどそいつらペンシー来るまえからそうやってん。
とにかくあの日土曜で,サクソン・ホールとフットボールの試合あってん。その試合,ペンシーでかなんことなっとってん。去年の最後の試合で,もしペンシー勝てへんかったら自殺かなんかせなあかん雰囲気やってん。覚えてるわ,あの日の昼三時ごろおれトムセン・ヒル登っとってん。アホみたいな独立戦争のキャノン砲かなんかの横立っとってん。そっからフィールド全部見えんねん。両方の選手あっちこっちでぶつかっとったわ。観客席あんま見えへんかったけど,ペンシーの応援席からうおおってごっつい低音の声援聞こえんねん。おれ以外のやつら,ほとんどみんなそっち行っとったからな。サクソン・ホールの声援は,ぱらぱらやったわ。遠征するほう,あんま仰山ひと連れてこられへんやろ。
フットボールの試合て,女あんまおれへんねん。女呼んでええん,四年生だけやねん。嫌な学校やで,どことっても。おれ,女いっぺんに最低二,三人は見えるとこおりたいねん。その女,ぼりぼり腕掻いててもええし,鼻かんでてもええし,なんかのこと馬鹿にして笑ててもええわ。セルマ・サーマーいう校長の娘,よう試合来とってん。けど,うわええ女やあて感じの子ちゃうかってん。まあええやつやねんけど。いっかいエーガーズタウンからのバスで隣座って,ちょっと喋ってん。ええやつやったで。そいつ鼻でかいねん,ほんで爪噛んどおるからぼろぼろで血滲んでるし,アホみたいに乳パッド入れとおるからこうやってぴいんぴいんて尖ってんねん。せやけどなんかかわいそうなやつやってん。おれそいつええやつや思たん,親立派とか馬のウンコみたいな話あんませえへんかったからやねん。あれたぶん親父パチもんの嫌なやつて分かっててんやろな。
おれ試合見に行かんとトムセン・ヒルおったん,フェンシング部のやつらとニュー・ヨークから帰ってきたとこやったからやねん。おれフェンシング部のマネージャーとかやっとってん,アホみたいに。かなんで。おれらあの日マクバーニー高校と試合することなっとって,朝からニュー・ヨーク行っとってん。けど試合中止なってん。おれ,フルーレとか防具とか全部アホの地下鉄に忘れてもうてん。おれのせいちゃうねんで。降りるとこ間違うたらあかんから,なんかあるたび,おれ立って地図見なあかんかってん。せやから,ホンマやったら晩飯のころ帰ってくるはずやってんけど,二時半ごろ帰ってきてん。帰りの汽車でずっとみんなおれのこと陶片追放しとおったわ。ある意味おもろかったけどな。
ペンシー戻ってきたのになんで試合見に行けへんかったいうたら,おれ,歴史の先生のスペンサーに最後の挨拶しに行こ思てん。スペンサー,インフルエンザかかってて,クリスマス休み始まるまでにたぶんもう会うことなかったから。おれが家帰るまえにいっかい会いたいて便箋に書いてきよってん。先生,もうおれペンシー戻ってけえへんて分かってたから。
それ言うの忘れてた。おれ退学なってん。クリスマス休み終わっても,戻ってけえへんことなっててん。四教科落としたし,学校に適応とかしてなかったし。ええかげん適応せえて何回も警告されててんけど──とくに中間テストのごろしょっちゅう言われてて,親呼びだされてサーマーと面談してんけど──けど,おれ言うこと聞けへんかってん。ほんで退学なってん。ペンシーしょっちゅう退学出しよんねん。成績めちゃめちゃ厳しいねん。ホンマ。
とにかく十二月やん。寒いちゅうか冷たいちゅうか,魔女の乳首みたいやってん,おれ丘のいっちゃん高いとこ立っててんから。そんときおれ,リヴァーシブルのコート着てるだけで,手袋もなんもしてへんかってん。その前の週だれかおれの部屋でラクダの毛皮のコート盗みよってん。そのポケットに,ふさふさの毛皮付いてる手袋も入っとってん。ペンシーてパクリばっかりやねん。たいていのやつ,家めちゃめちゃ金持ちやねんけど,それでもみんなひとのもんパクリよんねん。金持ち多い学校ほどパクリ多いで──マジで。とにかくおれ,アホみたいなキャノン砲の横立って試合見とってんけど,寒うてケツちぎれそうやったわ。けど試合あんま見てへんかってん。なんかおれ,最後の気分味わいたかってん。おれそれまで,いつが最後て自分でも分からんまんまなんぼも学校やめたり場所変わったりしとったから。そんなん嫌やねん。べつに悲しいお別れでも嫌なお別れでもええから,この場所はこれがもう最後いうとき,最後て分かっときたいねん。知らんうちに最後なってたら余計嫌やん。
おれ,ついとったわ。いよいよここ出ていくて感じられること思いついてん。十月の中ごろ,おれロバート・ティチェナーとポール・キャンベルと校舎の前でフットボール投げて遊んどってん。そんときそれ思いだしてん。そいつらええやつやねん,とくにティチェナーが。晩飯前でもうかなり暗かってんけど,それでもおれらずっとフットボール投げとってん。だんだん暗なって,もうほとんどボール見えへんかってんけど,おれら止めたなかってん。けど,止めさせられてん。生物教えてるザンベジ先生いうんが,校舎の窓から顔出して,もう晩飯の時間やから寮戻れ言いよってん。そんなことでも,思いだしたらお別れせなあかんときお別れできる気なれんねん──すくなくとも,たいていの場合なれんねん。それ思いだしたら,あとはもう反対向いて,スペンサーの家行こ思て校舎と反対の坂走って降りてん。スペンサー,アンソニー・ウェーン通りいうて,学校の敷地の外住んどってん。
正門までずっと走って,息切れたからちょっと休憩してん。おれすぐ息切れんねん,マジで。おれかなりヘヴィー・スモーカーやし──や,ヘヴィー・スモーカーやってん。ここ来て止めさせられてんけど。それと,おれ去年六インチ半背伸びてん。ほんで,結核なりかけて,アホみたいな検査とかなんかでここ来てん。いまはもう元気やけど。
とにかく息戻ってから二〇四号走って渡ってん。道めちゃめちゃ凍ってて,アホみたいにこけそうなったわ。なんで走ったかていまでも分からんけど,なんか走りたい気分やってんやろな。道渡ったあと,なんか自分が消えていきそうな感じしてん。昼やのにアホみたいに寒いし,日出てへんし,道渡るたびに自分消えていきそうな感じする日やってん。
スペンサーの家着いて,ううわあって思いっきりベル鳴らしたわ。ホンマ凍えてたからな,おれ。耳痛いし指ほとんど動けへんねん。「早よ,早よ」て大きい声で呼んで,もうちょっとで「だれかあ,ドア開けてえ」言お思たら,奥さん開けてくれてん。スペンサーんとこメードおれへんから,自分らでドア開けに出てくんねん。あんま給料貰てへんねやろな。
「ホールデン!」奥さん言いはってん。「まあ,ようお越し!早よお入りいな!あんた,凍え死ぬんとちゃいますか」奥さん,おれ歓迎してくれはった思うわ。奥さん,おれのこと気に入ってはったわ。すくなくともおれはそう思てんねん。
おれ慌てて中入ってん。「こんにちは,お邪魔します」おれ言うてん。「先生の具合いかがですか?」
「コートはこっちでお預かりしますよって」奥さん言わはってん。おれが先生の具合訊いたん,聞こえてへんねん。奥さん,耳遠いねん。
奥さん,玄関のクローゼットにおれのコート吊るしはってん。しゃあないから,おれ片手で髪の毛撫でつけとってん。おれしょっちゅうクルー・カットにしてるから,髪の毛なんか乱れへんねんけど。「お元気ですか」もっかい,こんどは奥さんに聞こえるように大きい声で訊いてみてん。
「おかげさんで,わては平気だすけど」そう言うてクローゼット閉めはってん。「あんさんは大丈夫だっか」奥さんそう言わはったんで,おれ退学なったんスペンサー言いよってんなて分かったわ。
「大丈夫です。スペンサー先生の具合いかがですか。インフルエンザもう治らはりました?」
「おおきに,もうぴんぴんしてまっせ。なにせまあ──奥の部屋にいてまっせ。早よお行きなはれ」
2
先生んとこ夫婦別々の部屋にいてはんねん。ふたりとも七十歳ぐらいかそれ以上やけど,いろんなことおもろがりはんねん──当然くっさいことおもろがんねんけど。そんなん言うたら悪う聞こえるやろけど,べつに悪口ちゃうねん。おれスペンサーのことしょっちゅう考えててん。そんなん考えすぎたら,このおじんなにおもろうて生きてんねやろて思てまうねん。もう腰曲がっとおるし,姿勢も悪いし,授業中黒板書いてるときチョーク落としたら,いっつもいっちゃん前座ってるやつ立ってチョーク拾て渡さなあかんねん。そんなん嫌なんで,おれに言わしたら。けど,スペンサーのことほどほどに考えてな,考えすぎひんかったら,このおっさんしょうもないことおもろがっとおるて分からんねん。たとえば,スペンサー,ココア飲ましてくれる言うから,日曜日に友だちといっしょに家行ってん。ほしたら,夫婦でイェローストーン・パーク行ったときインディアンから買うたぼろぼろのナヴァホの毛布見せてきよんねん。あれ,毛布買うたんスペンサーすごいおもろかってんやろな。そういうことやねん。スペンサーみたいにめちゃめちゃ年とったら,毛布買うだけでおもろいねん。
先生の部屋のドア開いててんけど,いちおう礼儀やからノックとかしてん。そこ座ってんの見えとってんけど。スペンサー,大きい革の椅子座っててんけど,いま言うてた毛布すっぽり被っとってん。おれノックしたら,こっち見て,大きい声で「どなた」言いよんねん。「コールフィールドか? こっちおいで」あいつ,教室の外やと,いっつも声でかいねん。ときどきムカついたわ。
部屋入った瞬間,おれ来たん後悔したわ。あいつ『アトランティック・マンスリー』読んどって,薬あちこち置いたあってんけど,全部ヴィックス鼻ドロップみたいな臭いすんねん。悲しなんで。病人て,おれあんま好きちゃうねん。ほんで,もっと悲しなったん,あいつ,生まれたとっから着とおるような汚いよれよれのバスローブ着とおってん。年寄りがパジャマとかバスローブ着とおんのん,おれあんま見たないねん。肋骨浮いてんのとか見たないねん。それと脚も。海水浴場とか行ったら,年寄りの脚って色白で毛生えてへんやん。「こんにちは」おれ言うてん。「メモ見ました。ありがとうございます」休み入るまえに家寄ってください,挨拶したいから,いうメモ回してきよってん,おれもう戻ってけえへんから。「わざわざホンマすいませんでした。そもそもぼくも,先生にはご挨拶にと思てましたんで」
「まあそこ座りいな,おまえ」スペンサー言いよってん。そこて,ベッドや。
おれ座ったがな。「先生,インフルエンザどうですのん?」
「おまえ,これ以上元気んなったら医者呼ばなあかんがな」スペンサー言いよってん。ほんで,自分でうけとおんねん。ひとりで笑とおんねん,きちがいみたいに。ほんで真面目な顔なって「きみはなんで試合見に行ってへんねん」言いよってん。「今日の試合は大事やなかったか」
「そうです。行ってきました。ただ,ぼく,さっきまでフェンシング部のやつらとニュー・ヨーク行ってたんです」ううわあっ,ベッド,石みたいに固かったわ。
スペンサー,めちゃくちゃ真剣な顔しよってん。いよいよ本題や。「ほんで,きみはもうこの学校に戻ってけえへんねんな」
「はい,そうなる思います」
ほしたら,スペンサー,こうやって肯きだしよってん。あんな肯くやつ,ほかにおらんで。肯く言うたかて,なんか考えとおんのか,ケツと肘の区別がつかんぐらいボケとおんのか,よう分からんねんけど。
「サーマー先生は,どんな話しはった。おまえ,十分話しあいしたんやろ」
「はい,しました。たぶん二時間ぐらい校長室おった思います」
「どんな話しはってん」
「ええと,人生は試合やとか,試合はルール守ってせなあかんとか。丁寧に話してくれはりました。怒鳴られたりとかしませんでした。人生は試合やいう話してはりました。そんな感じです」
「そらそうや,人生は試合やねん,おまえ。人生は,ルールのある試合やねん」
「はい,分かってます。分かってます」
試合やて。えらい試合や。そらイキったやつら揃てるほうおったら試合やろ,そらそうやわ。けど,その相手どうなんねん。ヘタレばっかり集まっとったら,なにが試合やねん。なんやそれ。そんなん試合ちゃうわ。「サーマー先生は,もうご両親に手紙書かはったんか」スペンサー言いよってん。
「月曜日に書く言うてはりました」
「きみは,ご両親に連絡したんか」
「いえ,まだしてません。どうせ家帰ったら水曜に会いますんで,まだ連絡してません」
「ご両親は,このこと聞かはったら,どない思いはるやろ」
「ええと,たぶん相当怒るでしょうね」おれ言うてん。「ホンマ。ぼく,ここ四つめの学校やったんで」おれ,こうやって顔左右に振ってたわ。なんか癖やねん。ほんで「ううわあっ」て言うてん。それ口癖やねん。おれ語彙カスみたいに貧弱やろ,せやしときどき小さい子みたいなことしてまうねん。おれ,あのころ十六で,いま十七やけど,いまだに十三歳みたいなことしてまうねん。ホンマ皮肉やで,おれ身長六フィート二インチ半あって,白髪生えてんのに。ホンマ。頭のこっち側──右側──白髪何百万本も生えてんねん。小さいとっからずっと。せやのに,いまだに十二歳みたいなことしてまうことあんねん。みんなにそう言われるわ,とくにおとんに。そら,そういうときもあるかもしれんけど,いっつもちゃうで。いっかいそんなんあったら,みんな,いっつもそうや思いよんねん。まあおれ,いちいち文句言えへんけど。けど,十七歳らしいせえ言われんのん,おもんないときあんねん。おれ,自分の年齢より上みたいにしてることもあんねん──いやホンマに──せやけどそんなんだれも気つけへんねん。みんな,なんも気つけへんねん。
スペンサー,また肯いとってん。ほんで,鼻クソほじりだしよってん。鼻つまんでるだけのふりしとったけど,親指ぐう穴入っとったわ。部屋おんのおれだけやからかめへん思てんやろな。まあ,おれかめへんかったけど,鼻クソほじってるおっさん見てるん気分良うなかったわ。
ほんで,あいつ言いよってん。「何週間か前にご両親が校長と面談にお見えになったとき,私もお目にかかりました。ご立派なご両親やないかい」
「はい,ええひとらですよ」
立派。ホンマ嫌いな言葉や。パチもんやん。聞くたびにゲエ吐きそうなるわ。
そしたら急にスペンサー椅子んなかで背筋伸ばしてこっち向きよったから,最後になんかええこと言うんかな思てん。けど,ちゃうかってん。あいつ,膝載せたあった『アトランティック・マンスリー』持って,ベッドの,おれの横んとこぽおん放りよってん。けど,失敗しよってん。二インチぐらい足りひんだけやったけど,失敗は失敗やん。しゃあないから,おれ立って拾てベッド置いたがな。急に部屋出ていきたなったわ。そのままおったら,うっとしい話聞かされそうな感じしてん。話だけやったらええねんけど,話聞いてるあいだずっと,ヴィックス鼻ドロップの臭いかいで,パジャマとバスローブ着たスペンサー見てんのん嫌やってん。ホンマ。
けど,話始まったわ。「おまえ,いったい,なにが問題やねん」スペンサー言いよってん。あいつにしては,かなり厳しい口調やったわ。「きみは,今学期,何科目受講しとったんや」
「五科目です」
「五科目。で,そのうちいくつ落第してん」
「四つです」おれ,ベッドでちょっとケツ動かしてん。あんな固いベッド座ったことなかったわ。「英語は合格しました。前にウートンおったとき,『ベオウルフ』とか『ロード・ランダル』とか全部習てたんです。せやから,英語はときどき作文書くだけで,あんまり勉強せんでよかったんで」
あいつ,おれの話聞いとおれへんねん。あいつ,ひとの話ほとんど聞きよれへんねん。
「私が歴史できみを落としたんは,きみがなあんも覚えてへんかったからや」
「分かってます。ううわあっ,ホンマそうです。先生が落としはんのは当たりまえや思います」
「ほんま,なあんも覚えてへん」また言いよんねん。そういうの腹立つわ。おれ始めに,そうです言うて認めてんのに,二回も言わんでええやん。ほんだら,あいつ,また言いよんねん。「けど,なあんも覚えてへんねやぞ。今学期,教科書いっかいでも開けてみたんかい,それすら疑わしい。どないやってん,おまえ。ホンマのこと言うてみ」
「ええと,教科書は最初から最後まで二回ぱらぱらと読みました」おれ言うてん。ホンマのこと言うたって,スペンサーの機嫌悪なるだけやん。あいつ,歴史のことマジやから。
「最後までぱらぱらと読まはったん?」あいつ,皮肉言いよんねん。「私のサイドボードに,きみの,あれ,試験の答案が置いたあんねん。書類のいちばん上や。あれ,持ってきてくれますか」
めちゃくちゃ汚い手使いよるわ。しゃあないから,答案取ってきて,あいつに渡してん──しゃあなかったわ。ほんで,またコンクリートみたいなベッド座ってん。ううわあっ,挨拶なんか来んといたらよかったわ。
あいつ,おれの答案,ウンコ触るみたいに持ちよってん。「授業では,エジプトについて,十一月の四日から十二月の二日まで勉強しました」あいつ言いよってん。「で,きみは,選択式の小論文の試験で,自分でエジプトを選んだわけや。試験で自分がなに書いたか聞きたいか」
「いえ,あんま聞きたないです」おれ言うてん。
せやのに,あいつ,読みよんねん。教師がなんかしようてしたら,だれも止められへんねん。あいつら結局やりよんねん。
エジプト人とは,アフリカ北部に住んでいたコーカソイドの古代人種である。彼らが住んでいたアフリカ大陸は,よく知られているように,東半球で最大の大陸である。
おれ,座って聞いてなしゃあないやん。狡いことしよるわ。
エジプト人は,さまざまな理由で,今日も私たちの関心を集めている。エジプト人は,死者の顔が何千年も腐らないように,秘密の薬品を使って死者を布で包んだが,その薬品の成分がなんであったか,近代科学はいまだに解明していない。これは,興味をそそる謎であり,いまなお二十世紀の近代科学に立ちはだかっている。
あいつ,そこで読むの止めて,答案置きよってん。おれ,だんだんあいつに腹立ってきたわ。「これで,おしまいですわ。これが小論文やて,あんた言わはんねんな」めちゃくちゃ皮肉な声で,あいつ言いよってん。年寄りがあんな皮肉言うの初めて見たわ。「これでおしまいかと思たら,ページの下のとこに,私への伝言が書いたある」
「ええ書きました」おれ,めちゃくちゃ早口で言うてん。そこまで聞かされたないから早よあいつ止めたかってん。けど,止められへんかってん。火点いた爆竹みたいやったわ。
スペンサー先生[結局,読みよってん]。ぼくがエジプト人について知っていることは,これで全部です。ぼくは,エジプト人についてあまり興味が持てなかったようです。先生の授業はとても面白かったのですが。落第にしてもらっても,ぼくはかまいません。英語以外の全教科を落としそうです。
敬具。ホールデン・コールフィールド
あいつ,おれのアホみたいな答案置いて,卓球でおれに勝ったみたいな顔でこっち見よってん。あんなん読んで聞かせたん,おれ一生許せへん思うわ。おれやったら,もしあいつがあんなこと書いてきよっても,声出して読めへん思うわ──ホンマ。そもそも,そのアホみたいな伝言て,あいつがおれ落としてもあんま気にせんでええように書いたっただけやん。
「落第したんは私のせいや思てんのか,おまえ」
「そんなことありません! そんなん思てません」おれ言うてん。おれのこと,「おまえ」言うの,もう止めてほしかったわ。
あいつ,おれの答案読んだあと,またベッドに放りよってん。ほんで,また失敗しよってん。当然。しゃあないから,おれまた立って拾て『アトランティック・マンスリー』のうえ置いてん。そんなん二分に一回すんのん疲れんで。
「もしきみが私の立場やったら,どうしてた。おまえ,言うてみ」
あいつ,おれ落としてホンマ,カスみたいな気持ちなっとった思うわ。せやから,口から出まかせ言うたってん。おれはアホです,とか。おれがもし先生の立場やったとしても,やっぱり同じように落第にする思います,とか,先生いう立場は辛いもんやてみんなあんまり分かってへん,とか。そんなん。バレバレのべんちゃらや。
けど,おもろいんは,そんなん言うてるとき,おれ別のこと思いついてん。おれの家ニュー・ヨークあるから,セントラル・パークの池のこと考えとってん,セントラル・パーク・サウスから入ったとこにある池。家帰ったらあの池もう凍ってんのかなあ,とか,もし凍ってたら鴨どこ行ってんねんやろ,とか。あの池全体氷張ってもうたら,鴨どこ行くんやろ。だれかトラック載せて,動物園かどっか連れていくんか。それか,自分らでどっか飛んでいきよんのか。
それにしても,おれついてるわ。口ではスぺンサーにバレバレのべんちゃら言うとったけど,頭んなかで鴨のこと思いついたとか。おもろいわ。教師と話するときは,あんま頭使わんでええねん。けど,あいつ,べんちゃらも最後まで聞きよれへんかってん。あいつ,いっつもひとの話最後まで聞きよれへんねん。
「こういうことになって,いったいきみはどういう気持ちやねん,おまえ。教えてほしいわ。教えて」
「こういうことて,ぼくがペンシー退学なることですか」て,おれ言うてん。肋骨浮いてんの隠してほしかったわ。ええ眺めやないやろ。
「私の記憶違いやなければ,たしかきみは,ウートンでもエルクトン・ヒルズでもよう勉強に付いていかんかったんとちゃいましたかな」こんどは,皮肉だけやのうて,汚いもんに触るような口調で言いよんねん。
「エルクトン・ヒルズでは勉強付いていってました」おれ言うてん。「あそこは,ぼく,退学になったんやのうて,自分からやめたんです」
「なんでですか」
「なんでって,長い話があるんです。混みいってまして」おれ,そんなん全部言うつもりなかったわ。どうせ言うたかて,あいつ分からんやろし。あいつの分からん話やから。おれがエルクトン・ヒルズやめたいちばんの理由は,あそこ,パチもんばっかりやったからやねん。それだけやねん。アホみたいに窓からいっぱい入ってきよんねん。たとえば,校長のハース先生いうんおってんけど,あんなパチもん見たことないで。サーマーの十倍ぐらいひどかったわ。たとえば日曜日,生徒の親が車乗って学校来るやん。ほしたら,ハース,みんなの親と握手して回りよんねん。めちゃめちゃ愛想ええねん。けどな,ヘンな恰好の親には態度変えよんねん。おれの同室のやつの親来たときそうやってん。生徒のおかんがちょっとデブやったりブサイクやったり,おとんが肩の張ったスーツ着てようある白黒の靴履いてたりしたら,ハース,パチもんの笑顔で握手して,ほんで別の親と三十分ぐらい話しとおんねん。あんなん,おれ我慢でけへんわ。腹立ってしゃあないわ。悲しすぎて腹立ってくんねん。ホンマ,エルクトン・ヒルズ,アホみたいで嫌やったわ。
スペンサーなんか言いよってんけど,なに言うたか聞こえへんかってん。ハースのこと思いだしてたから。「え,なんですか」て,おれ言うてん。
「きみは,ペンシーをやめるにあたって,なにがしかの呵責を感じてへんのか」
「ああ,呵責ですか。ちょっと感じてます,もちろん。そら当然... けど,そんな強くは感じてません。すくなくとも,いまはまだ。まだホンマに堪えてない思うんです。ぼく,そういうの時間かかるんです。いまは,水曜に家帰ることばっかり考えてます。アホなんです,ぼく」
「きみは自分の将来が心配になれへんのか,おまえ」
「そら心配ですよ,もちろん。もちろん,心配です」おれ,将来のことちょっと考えてみてん。「まあけど,あんまり心配してない思います。あんまり心配してない思います」
「そのうち心配するようなんねん」スペンサー言いよったわ。「そのうち心配するようになるんや,おまえ。心配したときには,もう手遅れなってるんや」
そんなん言われたなかったわ。そんなん,もうおれ死んでもたみたいな言いかたやん。悲しなったわ。「そうかもしれません」おれ言うてん。
「私はな,きみの頭んなかに,なにがしかの分別を遺してやりたいんや,おまえ。私は,きみのためを思うてるんや。できることなら,きみの役に立ちたい思てるんや」
それもホンマや思うわ。そら分かんねん。せやけど,スペンサーとおれ反対の極におんねん,それだけやねん。「先生の気持ちは分かってます」おれ言うてん。「ありがとうございます,冗談やのうて。感謝してます,ホンマ」おれ,ベッドから立ちあがってん。ううわあっ,あと十分座ってたら命にかかわってた思うわ。「けど,すいません,ぼく,そろそろ行かなあきませんねん。家持って帰らなあかんもん,まだ体育館にいっぱい残ってるんです,ホンマ」あいつ,おれ見上げて,また肯きだしよってん。こんな,めちゃくちゃ真剣な顔して。急におれ,あいつにめちゃめちゃ悪い気したわ。けど,もうそれ以上そこおんの嫌やってん。スペンサーとおれ反対の極おんの嫌やったし,あいつベッドになんか放るたび失敗しよんの嫌やったし,しょぼいバスローブからあいつの胸見えてんの嫌やったし,ヴィックス鼻ドロップの風邪の臭いぷんぷんしてんの嫌やってん。「先生,ぼくのことは心配せんといてください」おれ言うてん。「ホンマ。たぶん,なんとかなる思います。いまは,ぼく,ひとつの段階を通過してるだけや思うんです。だれでもこうやって段階を通過していくんでしょ」
「私には分からん,おまえ。分からんわ」
そんな言いかたせんといてほしかったわ。「みんな通過していくんですよ,ホンマ」て,おれ言うてん。「ホンマ,ぼくのことは気にせんといてください」おれ,あいつの肩に手載せてん。「先生は気にせんといてください」
「ココアでも飲んでいったらどうや。あっちでもう用意したあるんや──」
「ありがとうございます,ホンマ,ココア飲んでいきたいんですけど,もう行かなあきませんねん。このまま体育館行かなあきませんので。けど,ありがとうございます。ありがとうございました」
それで,おれら握手してん。ウンコみたいやろ。けどめちゃめちゃ淋しかったわ。
「葉書書きます。ほしたら。インフルエンザ,気つけてください」
「ほたらな,おまえ」
おれ部屋のドア閉めてリヴィング・ルーム行こ思たら,あいつでっかい声でおれになんか言いよってん。けど,なに言うてんのかはっきり聞こえへんかってん。たぶん「幸運を!」て言いよってんやろな。せやなかったらええねんけど。ホンマせやないほうがええねんけど。おれ,あんなでっかい声で「幸運を!」なんか,だれにもよう言わんわ。そんなん考えてみたら,気色悪い言葉やん。
3
おれみたいに嘘ばっかりついてるやつ,そうおらん思うで。ホンマひどいわ。もしおれ店に雑誌かなんか買いに行く途中で,どこ行くねん言われたら,オペラ見に行く言うかもしれんわ。ろくでもないやっちゃろ。せやから,体育館にもの取りに行かなあかんてスペンサーに言うたんも,まるっきり嘘やってん。おれ,アホみたいに体育館にものなんか置けへんわ。
おれペンシーおるとき住んどったとこ,新寮のオッセンバーガー記念翼いうねん。そこ,三年生と四年生しかおれへんとこやねん。おれ,三年生やったから。ルームメートが四年生。オッセンバーガーて,ペンシーの卒業生の名前やねん。そいつ,卒業したあと葬儀屋やって,えらいカネ儲けよってん。その葬儀屋,全国いろんなとこあんねんけど,埋葬料,一人五ドルぐらいやねん。だれか,オッセンバーガー見張ってなあかんで。袋詰めて川捨てとおるかもしれんし。そいつがペンシーにどっさり寄付しよったから,学校がおれらおった翼にそいつの名前付けよってん。フットボールの開幕戦に,そいつ,こんなでっかいアホのキャディラック乗ってきよってん。そんとき,おれらみんな,正面スタンドで立って機関車いうのやらされてん──そいつに声援送んねん。ほんで,次の日の朝,礼拝堂でそいつスピーチしよってん。十時間ぐらい。はじめ,おもんないジョーク五十連発ぐらいかましよんねん。自分は普通のやつや言いたかったんやろな。かなんで。ほんでそいつ,苦境に立ったときその場で跪いて神に祈るんを恥ずかしい思たことない言いよんねん。人間はどこおってもいっつも神に祈ってなあかん,神と話せなあかん言いよんねん。イエスを親友や思わなあかんねんて。そいつ,いっつもイエスに話しとおんねんて。車運転してるときでも。びびったわ。あのパチもん,きっと,ギア一速入れながら,もうちょっと死人増やしてくださいてイエスに頼んどおんねんで。そいつスピーチしてるとき,いっこだけおもろかったん,そいつイキりの自慢しとおったとき,おれの前の列座っとったエドガー・マーサラいうやつ,でっかい屁こきよってん。礼拝堂であかんやろいうぐらいでっかい屁で,おもろかったわ。マーサラ,やりよったわ。天井吹きとびそうなアホみたいな屁やったもん。だれも声出して笑えへんかったし,オッセンバーガー聞こえへんふりしとおったけど,演壇の隣座っとった校長のサーマー,聞こえたぞいう顔しよってん。ううわあっ,どんだけ腹立てとったか。そんときはなんも言えへんかったけど,次の日の夜,おれら校舎の居残り学習室呼びだされて,サーマーに説教されてん。礼拝堂乱すやつはペンシーの生徒としてふさわしない言いよんねん。おれら,マーサラに,サーマー説教しとおるあいだにもう一発屁こかそ思てんけど,マーサラ乗ってけえへんかったわ。とにかく,おれそういうとこ住んどってん。オッセンバーガー記念翼,新寮の。
スペンサーとっから部屋帰ってきたら,気持ちよかったわ。みんな試合見に行っとおったし,うってかわって暖房入っとったし。ほっとしたわ。おれ,コート脱いで,ネクタイとシャツの襟のボタン外して,その日の朝ニュー・ヨークで買うた帽子被ってみてん。赤のハンティングで,庇めちゃめちゃ長いねん。地下鉄の駅出て,アホのフルーレとか全部忘れてもうた思てるとき,スポーツ用品店のウィンドーに飾ったあってん。一ドルやってん,安いやろ。それおれ,庇ぐるっと後ろ回して被ってみてん──ださださやけど,それ気に入ってん。似合とってん。ほんで,そんとき読んどった本取って自分の椅子座ってん。椅子,部屋にふたつずつあってん。いっこはおれので,もういっこはルームメートのウォード・ストラドレーターの。腕んとこ,みんな座りよるからしょぼなっとったけど,座り心地ええ椅子やったわ。
そんとき読んどった本,おれ図書館で間違うて借りてきてん。むこが間違いよってんけど,おれも部屋帰るまで気つけへんかってん。アイザック・ディネーセンの『アフリカの日々』いうねんけど。しょうもない本ちゃうか思たけど,ちゃうかってん。めちゃくちゃええ本やったわ。おれ難しい言葉とか知らんけど,本けっこう読んでんねん。おれいっちゃん好きな作家は兄貴のD.B.やけど,その次はリング・ラードナーやねん。兄貴,おれの誕生日にリング・ラードナーの本買うてくれてん,ペンシーに転校するちょっとまえ。その本,めちゃくちゃおもろい戯曲とか載っててんけど,あと,いっつもスピード違反してる美人のこと好きになってまう交通警官の話載っとってん。警官もう結婚してるから,その美人と結婚でけへんねん。せやけど,その美人死んでまうねん,スピード違反で。その話,びびったわ。おれがええ思うんは,やっぱおもろい話やな,すくなくとも部分的にでも。古典とか,『帰郷』とかいろいろ読んでええ思たし,戦争の本とか探偵小説とか,いっぱい読んでみたけど心底ええとは思わんかったわ。心底その本好きんなったら,おれ最後まで読んだあと,その本書いた小説家が友だちで好きなとき電話できたらええのに思うねん。けど,そんな本あんまないわ。アイザック・ディーネセンやったら電話したいな。あと,リング・ラードナーも。ただ,リング・ラードナーはもう死んでるてD.B.言うとったわ。けど,サマセット・モームの『人間の絆』てあるやん。おれ去年の夏読んでん。めちゃくちゃええ本やったけど,サマセット・モームは電話したい思わんかったわ。なんでか知らんけど。なんか,電話かけたなれへん小説家やねん。それやったら,トマス・ハーディーに電話するわ。『帰郷』に出てくるユーステーシア・ヴァイて,おれ好きやわ。
とにかく,おれ,新品の帽子被って,座ってその『アフリカの日々』読んどってん。いっかい読んでてんけど,もっかい読みたなったとこあってん。けど,三ページぐらい読んだとこで,シャワー・カーテンのとっからだれか入ってくる音してん。見やんでも,だれか分かったわ。ロバート・アクリーいう隣の部屋のやつやねん。おれらのおった翼,二部屋のあいだにいっこずつシャワーあって,アクリー,毎日八十五回ぐらいこっち来よんねん。おれ以外寮で試合見に行ってなかったん,あいつだけやった思うわ。あいつ,そんなん,なんも行きよれへんねん。ちょっと変わったやつやねん。四年生で,丸々四年ペンシーおんのに,みんなあいつのこと苗字でしか呼んでへんかってん。ルームメートのハーブ・ゲールも「ボブ」言うてへんかったし,「アク」ですらないねん。あいつ,もし結婚しても,嫁さんに「アクリー」て呼ばれる思うわ。めちゃくちゃ背高い猫背のやつで──六フィート四インチあんねん──歯カスみたいやねん。おれ隣住んでるあいだ,あいつ歯磨いてんの,いっかいも見たことないねん。歯いっつも苔生えてるみたいに汚いねん。食堂で飯食うとき,そいつマッシュト・ポテトとか豆とかぐわあって口詰めこみよんねん。見たらアホみたいに気分悪なんで。それと,そいつ,にきびいっぱいあんねん。ふつうやったら,でことか顎だけやん,にきび。けど,そいつ顔中全部にきびやねん。ほんで,性格悪いねん。ほんで,スケベエやねん。あいつのこと,おれあんま好きちゃうかったわ,マジで。
おれ見てへんかったけど,たぶんあいつ,おれ座ってる椅子の真後ろの,シャワーの段なってるとこで,ストラドレーターおれへんかどうか確かめとおってん。あいつ,ストラドレーターおるときこっち来えへんねん,ストラドレーターの性格嫌とおったから。まあ,だれの性格でも嫌とおってんけど,アホみたいにたいがい。
あいつ,シャワーの段下りて,「おお」言うてこっち入ってきよってん。いっつも,すごいおもんないかすごい眠たそうな声して「おお」言いよんねん。あれ,わざわざ隣の部屋来たて思われたないねんやろな。間違うて来てもうたわてふりしとんねん。アホやわ。
「ちわ」て,おれ言うたけど,本読んだまま顔上げへんかってん。アクリーみたいなやつ来たら,本から顔上げたら餌食にされてまうねん。どっちにしても餌食にされんねんけど,すぐ顔上げへんかったら時間稼げるやん。
あいつ,ゆっくり部屋歩いて回りよってん。いっつもそうや。ほんで,机とかサイドボードにあるひとのもん,勝手に触りよんねん。いっつも,ひとのもん持って,なんやこれ言うて見よんねん。ううわあっ,ときどきホンマ腹立つで。「フェンシングどやってん」あいつ言いよってん。おれが本読んで機嫌良うしとったん,邪魔したかっただけやねん,それ。フェンシングなんか全然興味ないねん。「どっち勝ってん」
「どっちも勝ってません」おれ言うてん。本見たまま。
ほしたら「なんやて」言いよんねん。あいつ,いっつも同じこと二回言わせよんねん。
「どっちも勝ってません」あいつ,おれのサイドボードでなんかいじくっとおったから,ちらっと見てん。ほしたら,おれがニュー・ヨークで付きおうとったサリー・ヘーズいう子の写真見とおんねん。あいつその写真,おれそこ置いてからアホみたいに五千回は手取って見とおったわ。ほんで,いっつも元あったとことちゃうとこ置きよんねん。あれ,わざとやで。たぶん。
「どっちも勝ってへん」あいつ言いよってん。「なんでや」
「フルーレとかのアホみたいな道具,おれ全部地下鉄に忘れてもうたんです」おれ,まだあいつのこと見てなかってん。
「地下鉄! おまえ,なくしたんか」
「おれら,地下鉄乗りまちがえましてん。ほんで,おれずっと壁の地図アホみたいに見てなあきませんでしてん」
あいつ,わざわざこっち来て電気の前立ちよんねん。「ちょっと」おれ言うてん。「さっきからおれ同じ文,二十回ぐらい読んでんですけど」
アホみたいにそんなん言うたら,だれでも意味分かるやろ。けど,アクリーには通じひんねん。「おまえ弁償させられんのん?」言いよんねん。
「知りませんて。そんなんどっちでもええすわ。アクリーちゃん,ちょっと座ってくださいよ。そこ立ってたら,こっちアホみたいに暗いんですわ」そいつ,「アクリーちゃん」言われんの嫌いやねん。おれ十六歳であいつ十八歳やったから,子どもなんはおまえのほうじゃアホて,いっつも言うとったわ。おれが「アクリーちゃん」言うたら怒りよんねん。
あいつ,どきよれへんかってん。暗いからどいて言うたらどけへんやつやねん。結局はどきよんねんけど,どいて言うたら余計時間かかんねん。「おまえなに読んでんねん」言いよんねん。
「アホな本ですわ」
あいつ,おれの本ぐう持ちあげて題名見よってん。「おもろいか」
「さっきから同じ文ばっかり読んでますねん。これ名文ちゃいますか」おれもその気なったら,けっこう皮肉言えんねん。けど,通じひんかったわ。そいつ,また部屋うろうろして,おれとかストラドレーターのもんいじくりだしよってん。とうとう,おれ本床置いたわ。アクリーみたいなやつそばおったら,本なんか読まれへんて。無理や。
おれ,ケツ前ずらして椅子凭れて,アクリーなにしとおるかじっと見とってん。おれ,ニュー・ヨーク行ってちょっと眠たかったから,欠伸出てきてん。せやから,ちょっとちょけてみてん。おれ,おもんないなあ思たら,ようちょけたんねん。そんときは,ハンティング帽の庇前戻して,目に被せてん。ほしたら,アホみたいになんも見えへんやん。「目見えへん」おれ苦しそうに言うてん。「おかあちゃあん,暗いよお」
「アホ。おまえホンマ,アホやろ」
「おかあちゃあん,助けてえ。助けてえ」
「ボケ,子どもか,おまえ」
おれ座ったまま,目見えへんみたいに,空中,手探りしてん。ほんで,「おかあちゃあん,助けてえ」てずっと言うとってん。ちょけてただけやねんけど,当然。そういうの,たまにおもろいねん。せやし,そんなんしとったら,アクリーうっとしがりよるやろ。あいつとおったら,おれサディストの面目覚めんねん。おれ,あいつには,けっこうサディスティックなことやったわ。けど結局やめてん。また庇後ろ回して,椅子凭れてん。
「これだれのや」アクリー言いよってん。ストラドレーターの膝のサポーター持って,こっち見せよんねん。あいつ,ホンマなんでも触りよんねん。金玉守るサポーターでも触りよんねん。ストラドレーターの,言うたら,あいつそれストラドレーターのベッドにぽおん放りよんねん。スタラドレーターのサイドボードから取って,ベッドに放りよんねん。
あいつ,こっち来て,ストラドレーターの椅子の腕んとこ座りよってん。まともに椅子座りよれへんねん。いっつも腕座りよんねん。「おまえその帽子どこで買うてん」
「ニュー・ヨーク」
「なんぼや」
「一ドル」
「ぼられたな」あいつ,マッチの軸でアホみたいに爪掃除しだしよってん。あいつ,爪の掃除ばっかりしとおんねん。ある意味,おもろかったわ。歯は苔生えてるみたいやし,耳もめちゃめちゃ汚いのに,いっつも爪掃除しとおんねん。そうしといたら,めちゃくちゃすっきりした人間なれる思とおってんやろな。ほんで,爪掃除しながら,またおれの帽子見よってん。「うっとこのほうやと,そういう帽子,鹿撃ちに行くとき被んねん」あいつ言いよってん。「それ鹿撃ち帽やろ」
「違います」おれ帽子脱いで,よう見てみてん。ほんで片目つむって,帽子に狙いつけるみたいにしてみてん。「これ人間撃ち帽ですわ」おれ言うてん。「おれこれ被って人間撃ちに行きますねん」
「おまえの親おまえ退学なったんもう知ってんのか」
「いや」
「そらそうとストラドレーターどこ行きよってん」
「試合見に行ってますわ。女呼んでましたから」おれ欠伸してん。そんとき欠伸出てしゃあなかったわ。部屋アホみたいに暑かったいうんもあったわ。あんなん眠たなんで。ペンシーおったら,凍死するか暑うて死ぬかどっちかやねん。
「華麗なるストラドレーターやのお」アクリー言いよってん。「おいちょっと鋏貸してくれや。そのへんないんか」
「ありません。もう荷物に詰めてもうたんです。戸棚のいっちゃん上んとこに」
「ちょっと取ってくれや」アクリー言いよんねん。「ここささくれ出来て切りたいねん」
あいつ,ひとが荷物詰めて戸棚の上の段置いてても,そんなん関係ないやつやねん。しゃあないから取りに行ったわ。ほしたら,そんときおれもうちょっとで死にかけてん。戸棚開けたら,ストラドレーターのテニス・ラケット──木のプレス嵌めたあってん──おれの頭にどっしいん落ちてきてん。すっごい音して,めちゃめちゃ痛かったわ。アクリー,それ見てアホみたいに笑いやがんねん。笑い声,裏声なっとおんねん。おれスーツケース下ろして鋏出すあいだ,ずっと笑とったわ。アクリー,そんなん──だれかの頭に石ぶつかるとか──見たら,腹抱えてとことん笑いよんねん。「アクリーちゃん,アホみたいに笑いのセンスありますわ」おれ言うてん。「思いません?」おれ鋏渡してん。「おれ,マネージャーしましょか。ラジオのアホみたいな番組取ってきますわ」おれまた椅子座って,あいつでっかい硬そうな爪切りだしよってん。「テーブルかなんか使てくださいよ」おれ言うてん。「テーブルの上で切ってくれません? 今晩裸足でその硬い爪踏むの嫌ですもん」けど,あいつ,ずっと床の上で爪切っとおんねん。あいつ,カスみたいなことばっかりしよんねん。ホンマ。
「ストラドレーター,どこの女呼びよってん」あいつ,ストラドレーターだれと付きおうてるか,いっつも気にしとおんねん。ストラドレーターの性格嫌いやのに。
「知りませんよ。なんでですか」
「べつに。くそ,あのボケ気に入らんわ。あのボケ,ホンマ腹立つねん」
「ストラドレーターはアクリーちゃんのこと好きですよ。あのボケ王子様みたいやなあ言うてましたもん」おれ言うてん。おれ,ひとおちょくるとき,よう「王子様」言うねん。ほしたら,おもんないときでも,おもろなるやん。
「あいついつもひとのことアホみたいに見下しとおるやろ」アクリー言いよってん。「あのボケ我慢でけへんわ。おまえ,あいつのこと──」
「ちょお,テーブルの上で切ってくださいよ」おれ言うてん。「もう五十回ぐらい言うて──」
「あいついつもひとのことめちゃくちゃ見下しとおるやろ」アクリー言いよってん。「あのボケ,自分のこと頭ええ思とおんねん。アホかちゅうねん。あいつ自分がいっちゃん──」
「アクリーさん! お願いやから,爪切るんやったら,テーブルの上で切ってくださいよ。もう五十回言うてますやん」
ほしたら,あいつ,テーブルの上で爪切りだしよってん。あいつになんかしてもらおう思たら,でっかい声で言うしかないねん。
おれ,しばらくあいつのこと見とってん。ほんで言うたってん。「ストラドレーターさんのこと腹立つんは,たまには歯磨けとか言わはったからでしょ。あれ,馬鹿にして言わはったんちゃいますやん,まあでっかい声で言わはりましたけど。本心が伝わる言いかたやなかったかもしれませんけど,なんも馬鹿にして言わはったんちゃいますよ。歯はときどき磨いたほうが,見た目もええし気分もええ言わはっただけですやん」
「おれかて歯ぐらい磨いてるわ。うっさいねん」
「磨いてませんて。おれが見た範囲では磨いてませんて」おれ言うてん。けど,なるべく追いつめへん言いかたしてん。ある意味,おれもアクリーのことかわいそや思とってん。当たりまえやけど,だれかて,ひとから歯磨け言われたらええ気分せえへんやん。「ストラドレーターさんは,そんなひとちゃいますよ。そんな悪いひとやないですて」おれ言うてん。「ストラドレーターさんのこと知らんからそう思うだけですて,問題はそこでしょ」
「いや,あのボケ,イキっとおんねん。イキっとおんねん,あのボケ」
「たしかにイキってますけど,めちゃくちゃ気のええとこもありますやん。ホンマに」おれ言うてん。「たとえば,ストラドレーターさんのしてるネクタイ,だれか気に入ったとしますやん。だれかストラドレーターさんのネクタイめちゃくちゃええなあ言うたとしましょ──こらひとつの例ですけどね。ほしたら,あのひとどうする思います。たぶん,その場でネクタイ外して,そいつにあげる思いますよ。ホンマ。それか,あとでそいつのベッドに置いてくるか。どっちにしても,あのひと,そんなん言われたらアホみたいにそのネクタイあげますよ。そんなんできるひとめったに──」
「アホか」アクリー言いよってん。「おれかて,あいつぐらいカネ持ってたらネクタイぐらいやるわ」
「いや,あげへん思いますよ」おれ左右に顔振ってん。「アクリーちゃんは,あげへん思いますよ。もしカネ持ってても,アクリーちゃんは──」
「ちゃん付けすんな,ボケ。おれ,おまえの親父でもおかしないぐらい年上やねんぞ」
「おかしいですよ,そんなん」ううわあっ,あいつときどきホンマむかつくこと言うてきよんねん。おまえは十六でおれは十八や言いくるめるチャンスあったら,ぜったい逃せへんねん。「そもそも,おれの家族に入れたげません」おれ言うてん。
「アホ,とにかくおれのこと──」
そんとき急にドア開いて,ストラドレーター大慌てで入ってきよってん。あいつ,いっつも大慌てしとおんねん。なんでも大事やねん。あいつ,おれんとこ来て,おれの頬っぺた遊びでぴしぴして往復ビンタしよってん──あれもたまにうっとしかったわ。「なあ」あいつ言いよってん。「おまえ今晩どっか行く予定あるか」
「さあ。行くかもしれませんけど。外どうなってるんですか──雪ですか」あいつのコートに雪付いとってん。
「おお雪や。なあ,今晩どっか行く予定なかったら,おまえのあのチェックの上着貸してくれへんかな」
「試合,どっち勝ちましたん」
「まだハーフ・タイムや。おれら,これからちょっと抜けるから」ストラドレーター言いよってん。「なあ頼むわ,あのチェックの上着,今晩着るんか。おれ,グレーのフランネルの上着にものこぼしてもてん」
「着ませんけど,肩幅アホみたいにちゃいますから,上着伸びるんちゃいますか」おれ言うてん。おれら,身長ほとんど同じやったけど,体重はむこがおれの二倍ぐらいあってん。あいつ,肩幅めちゃめちゃ広いねん。
「伸びひん,伸びひん」あいつ,そう言うて大慌てでクローゼットのほう行きよってん。「アクリー,おっす」アクリーに言いよってん。ストラドレーター,すくなくとも気さくなやつやねん。まあパチもんの気さくさいうとこもあんねんけど,すくなくともいつでもアクリーに挨拶しよんねん。
アクリー,「おっす」言われて,ぼそっとなんか言いよったわ。返事したなかったんやろけど,完全に無視できるほど根性ないねん。ほんで,おれに言いよんねん。「おれそろそろ行くわ。ほなな」
「はい」て,おれ言うてん。あいつ,部屋帰る言うても,全然名残惜しなかったわ。
ストラドレーター,コート脱いでネクタイ外しとってん。ほんで「さっとヒゲ剃らなあかんな」言いよってん。あいつ,ヒゲ濃いねん。ホンマ。
「女の子,どこいてますのん」
「別館で待たしてる」そう言うて,洗面道具とタオル抱えて部屋出て行きよってん。シャツもなんも着んと。あいつ,いっつも裸で歩きまわっとおってん。アホみたいにええ体してる思とってんやろな。実際,ええ体しとったわ。たしかに,そら認めるわ。
4
おれなんもすることなかったから,あいつ洗面所でヒゲ剃んのん付いてって喋っとってん。洗面所,おれらのほかだれもおらんかったわ。まだ試合やっとったから。めちゃめちゃ暑うて,窓全部湯気で曇っとってん。洗面台,壁に一列に十個ぐらい並んでんねん。ストラドレーター,まんなかの使いよったから,おれ隣の洗面台座って,冷たい水出したり止めたりしとってん──なんか苛々してるみたいやけど癖やねん,それ。ストラドレーター,ヒゲ剃ってるあいだ,ずっと口笛で「インドの歌」吹いとおってん。あいつの口笛,めちゃくちゃ高い音出んねんけど,だいたい音程合うてへんねん。せやのに,「インドの歌」とか「十番街の殺人」とか,口笛上手いやつでも難しい曲ばっかりやりよんねん。曲ぶちこわしにしよんねん,ホンマ。
さっき,アクリーが身の回り,だらしない言うてたん覚えてる? ストラドレーターもだらしないねん。アクリーとちゃうとこでやけど。ストラドレーターだらしないん,ひとに分からんねん。見た目いっつもきれいにしとおるから。けど,いっかいあいつのヒゲ剃りとか見てほしいわ。刃めちゃめちゃ錆びてるし,石鹸とか毛とか付いてんねん。そんなん全然洗いよれへんねん。あいつ仕度したらいっつも見た目きれいねんけど,おれみたいに近くで見とったら,ひとに見えへんとこでだらしないねん。なんで見た目きれいにしとおるかて,あいつアホみたいに自分のこと好きやねん。自分のこと,西半球でいっちゃんかっこええ思とおんねん。たしかに,かなりかっこええけど──そら認めるわ。けど,それ,親が生徒年鑑の写真見てまっさきに「この子だれ」て訊くかっこよさやねん。ペンシーでストラドレーターよりかっこええておれ思たやついっぱいおったけど,そいつら年鑑で見たらたぶんかっこよないねん。なんか,鼻でかいか耳突きでてるみたいに見えんねん。そんなん,しょっちゅうあったわ。
とにかくおれ,ストラドレーター,ヒゲ剃ってる横の洗面台座って,水出したり止めたりしとってん。そんときも赤のハンティング帽被って,庇後ろ回しとってん。帽子そうやってんの,ホンマおもろかってん。
「なあ」ストラドレーター言いよってん。「ちょっと頼まれてくれるかな」
「なんですのん」おれ言うてん。あんまやる気なさそうに。あいつ,いっつもひとにもの頼みよんねん。かっこええやつとかイキっとおるやつとか,いっつもひとにもの頼みよんねん。そいつら,自分のこと好きやから,周りのやつもそいつらのこと好きで好きで死ぬほどもの頼まれたがってる思とおんねん。ある意味,おもろいわ。
「おまえ今晩どっか行くんか」
「さあ。どうしましょ。分かりませんわ。なんでですか」
「おれ月曜に歴史あるから,百ページぐらい読んどかなあかんもんあんねん」あいつ言いよってん。「おれの代わりに英語の作文書いてくれへんかな。月曜にそのアホみたいなん出せへんかったらやばいねん。頼むわ。どや」
めちゃくちゃ皮肉な話やで。ホンマ。
「そんな,おれここ退学なる人間やのに,せやのにアホみたいに作文書け言いますのん」おれ言うてん。
「ああ,そらそやけどな。けど,作文出さな,おれやばいねん。頼むわ。ホンマ頼むわ。なあ」
おれ返事せんと,ちょっとじらしたってん。ストラドレーターみたいなやつは,そういう沈黙効くねん。
「なに書きますのん?」おれ言うてん。
「なんでもええ。言葉で描写できるもんやったら,なんでもええねん。部屋とか。家とか。前住んどったとことか──そんなもん,なんでもええねん。描写できるもんやったら,なんでもええわ」そう言いながら,あいつでっかい欠伸しよんねん。そんなんケツからぶりぶりて出したなんで。ひとにアホみたいにもの頼んでるさいちゅう欠伸しよんの。「あんま本気出さんでかめへんで」あいつ言いよってん。「ハーツェル,おまえのこと英語できる思とおるし,おれのルームメートやて分かってるからな。せやから,コンマ打つ場所とか,ときどきわざと間違うといて」
それもまたケツからぶりぶりて出したなったわ。作文得意な人間の前でコンマの話するか。ストラドレーター,そんなことばっかり言いよんねん。あいつ,自分が作文カスみたいに苦手なん,コンマ打つ位置間違うてるだけや言いたかってんで。その点,アクリーに似てるわ。おれ前,バスケットボールの試合アクリーと見にいってん。ペンシーにハウィー・コイルいうすごい選手おって,そいつフロアのまんなかからでもシュート決めよんねん。しかも,バックボードに当てんと。アクリー,コイルの体は完璧にバスケットやる向きに出来てんねんとか,アホみたいに試合のあいだずっと言うとったわ。そんなん,おれホンマ嫌いやねん。
しばらくしたら洗面台座ってんのおもんのうなってきて,ちょっと後ろ立ってなんとなくタップ・ダンス始めてん。だれに見せるつもりでもなかってんけど。おれタップ・ダンスとかちゃんとできるわけちゃうけど,その洗面所の床石やったからええ音してん。おれ映画のマネしてん。ミュージカル映画の。映画は嫌いやけど,マネすんのはおもろいやん。ストラドレーター,ヒゲ剃りながら鏡でおれのこと見とってん。観客おんねやったら,やったろ思うねん。おれ目立ちやから。「おれ知事の息子ですねん」おれ言うてん。乗ってきたわ。タップ・ダンスしながら洗面所のなか動きまわってん。「父はぼくをトップ・ダンサーにしたないんです。オックスフォード行かせたいんです。けど,ぼくの体には,アホみたいなタップ・ダンスの血が流れてるんです」ストラドレーター,笑とったわ。あいつ,笑いのセンスあんま悪ないねん。「いよいよ『ジーグフェルド・フォーリーズ』の初日」おれ,息切れかけとったわ。すぐ息切れんねん。「主役のダンサーが舞台に上がれんようになりました。アホみたいに酒に酔うてもて。代役を務めるのはだれ。それはぼくです。この知事のアホ息子です」
「おまえ,その帽子どこで買うてきてん」ストラドレーター言いよってん。おれのハンティング帽。それまで見たことなかったから。
おれもう息切れとったから,ダンス止めてん。帽子脱いで,また帽子見てん。その日,九十回目ぐらいやったわ。「今朝ニュー・ヨークで買いましてん。これ一ドル。ええでしょ」
ストラドレーター肯きよったわ。ほんで「かっこええやん」言いよってん。けど,それべんちゃらやったわ。すぐ「なあ,作文書いてくれんのか。どっちやねん」言いよってん。
「時間あったら書きますけど,なかったら書きませんわ」おれ言うてん。ほんでまた,あいつの隣の洗面台座ってん。「今日の相手だれですのん」おれ訊いてん。「フィッツジェラルドさん?」
「アホ,やめてくれ! 言うたやろ,あんな豚もう別れたわ」
「ううわあっ,せやったらおれに譲ってくださいよ。ホンマ。おれ,あの子タイプですわ」
「好きにせえや... けど,あいつ年上すぎて,おまえには無理やろ」
そんとき急に──ストラドレーターおちょくったろいう以外ホンマたいした理由なかってんけど──おれ洗面台からストラドレーターに跳びかかってハーフ・ネルソンかけたなってん。ハーフ・ネルソン知らんかな。レスリングの技やねんけど,相手の首つかまえて,その気なったら相手窒息死させられんねん。それおれやってん。アホみたいに豹なったつもりでストラドレーターに襲いかかってん。
「アホ,やめとけホールデン,あかん」ストラドレーター言いよってん。あいつ,乗ってけえへんかったわ。ヒゲ剃っとったからな。「アホおまえ,そんなんしたら,ボケ,首切れるやんけ」
けどおれ,放せへんかってん。ハーフ・ネルソン,ばっちし決まっとったわ。「おまえの力でこの万力のような拘束を解いてみろ」
「もう,しょうもないこと」あいつ,剃刀置いて,思いっきり腕上げて,おれのハーフ・ネルソン破りよってん。あいつ,めちゃくちゃ力あるわ。おれ,めちゃくちゃ力なかったわ。「もう,アホなことすな,おまえ」ほんで,あいつまた,顔中剃りだしよってん。あいついっつもヒゲ二回剃りよんねん。かっこええ思われたいねん。ぼろぼろの剃刀で。
「フィッツジェラルドさんやなかったら,今日の相手ていったいだれですのん」おれ言うてん。おれまた,あいつの横の洗面台座っとったわ。「あのフィリス・スミスいう子?」
「いや。そのはずやってんけど,来られへんようなってん。せやから,バッド・ソーの彼女のルームメートに来てもうてん... そや。忘れとったわ。そいつ,おまえのこと知っとったぞ」
「だれが」おれ言うてん。
「今日来た子」
「マジで?」おれ言うてん。「なんて名前ですか」おれ,身乗りだしたわ。
「なんやっけ... そう,ジーン・ギャラガー」
ううわあっ,それ聞いたとき,死ぬか思たわ。
「それジェーンちゃいますのん」おれ言うてん。ジェーンの名前聞いて,おれ洗面台から立ってもうたわ。おれアホみたいに死ぬか思たわ。「そらアホみたいに知ってますわ。それ,おととしの夏,うちの家のホンマすぐ隣住んでた子ですわ。でっかいドーベルマン飼うてましてん。その犬しょっちゅう家来て──」
「ちょっとおまえ邪魔や,暗いねん,ホールデン」ストラドレーター言いよってん。「もうちょい,どっちか寄ってくれへんか」
ううわあっ,おれどんだけ興奮しとったか。ホンマ。
「いまどこいてますのん」おれ言うてん。「おれ挨拶してこなあきませんわ。どこいてますのん。別館ですか」
「おう」
「なんで,おれの話なったんですか。あの子いま,ブリン・マー行ってるんですか。ブリン・マー行くかもしれん言うてましたから。シプリー行くかもとかも言うてましたけど。おれ,シプリー行ってるんちゃうか思てたんですけど。なんで,おれの話なったんですか」おれかなり興奮しとったわ。ホンマ。
「なんでかて,おれは知らんわ。ちょっとおまえ,ケツどけてくれ。おれのタオルのうえ座ってる」ストラドレーター言いよってん。おれ,あいつのタオルのうえ座っとってん。
「ジェーン・ギャラガーかあ」おれまだ言うとったわ。「驚き桃の木ですわ」
ストラドレーター,髪にヴァイタリス付けとってん。おれのヴァイタリスやけど。
「あの子,バレエ習てたんですよ」おれ言うてん。「毎日二時間練習してましたよ,いっちゃん暑い時期に。練習しすぎたら脚太なるんちゃうかて心配してましたけど。おれいっつも,あの子とチェッカーやってましてん」
「うん,いっつもなにやってたて?」
「チェッカー」
「チェッカーかい!」
「そうですよ。あの子,キングんなった駒,全然動かしませんねん。いっつも,駒がキングんなったら使いませんねん。いっちゃん後ろの列置いときよるんですわ。キングんなった駒,全部いっちゃん後ろに並べますねん。ほんで,全然使いませんねん。キングいっちゃん後ろの列並んでんのん好きなんですわ」
ストラドレーターなんも言いよれへんかったわ。あんまみんな,そういうこと,おもしろい思えへんねん。
「あそこのお母さん,うちと同じゴルフ・クラブ入っとったんです」おれ言うてん。「おれときどきバイトでキャディーやってましてん。二回ぐらい,あそこのお母さんのキャディーやりましてん。九ホール百七十ぐらいで回ってましたわ」
ストラドレーター,おれの言うこと聞いとおれへんかってん。櫛で髪の毛梳いとおってん。
「おれ挨拶だけでもしに行かなあきませんわ」
「おう,行ってこいや」
「もうちょっとしたら行きますわ」
あいつ,髪の毛分けなおしだしよってん。あいつ,髪の毛分けんのん一時間ぐらいかかんねん。
「あそこのお母さん,離婚してますねん。ほんで大酒飲みと再婚しよったんですわ」おれ言うてん。「ガリガリで脚毛むくじゃらですねん,新しいお父さん。おれよう覚えてますわ。いっつもパンツ一丁の恰好しとおるんですわ。脚本家かなんかアホなことやってるてジェーン言うてましたけど,おれの見るかぎり,いっつも酒飲んで,ラジオの探偵ドラマ,アホみたいに全部聞いとおるんですよ。ほんで,アホみたいに家んなか裸で走りまわりよるんです。そばにジェーンとかおんのに」
「へえ」ストラドレーター言いよってん。あいつ,そういう話は聞いとおんねん。酒飲みが家んなか裸で走りまわって,そばにジェーンおるいう話は。あいつ,めちゃめちゃスケベエやねん。
「あの子,子ども時代カスみたいやったんです。マジで」
けど,そういう話ストラドレーター聞いとおれへんねん。スケベエな話しか聞いとおれへんねん。
「ジェーン・ギャラガーか。まいったな」おれ,ジェーンのことばっかり思いだしとったわ。止まれへんかってん。「挨拶ぐらいしてこなあきませんわ」
「そんなこと言うてんと早よ行ってきたらどやねん」ストラドレーター言いよってん。
おれ,窓んとこまで行ったけど,外見えへんかったわ。洗面所暑かったから曇っとってん。「いま,なんか気分乗ってませんねん」おれ言うてん。ホンマ乗ってへんかってん。そんなん,気分乗らな行かれへんやん。「あの子,シプリー行ってる思とったんですよ,おれ。せや,絶対シプリーやわ」おれ,しばらく洗面所のなかうろうろしとってん。ほかにすることなかったし。「あの子,試合見て喜んでました?」おれ言うてん。
「ああ,せやったんちゃうか。知らんけど」
「おれといっつもチェッカーやってたとか言うてませんでした?」
「知らんがな,そんなん。アホかおまえ。おれまだ会うたばっかりやで」
ストラドレーター言いよってん。ちょうどアホみたいな髪梳きおわって,汚い洗面道具片付けとってん。
「あの。よろしゅう言うといてください」
「分かった」ストラドレーター言いよってん。けど,そんなんたぶん言いよれへんねん。分かってんねん。ストラドレーターみたいなやつ,ひとの伝言とか絶対伝えよれへんねん。
あいつ部屋戻っていってんけど,おれしばらく洗面所でジェーンのこと思いだしとってん。ほんで,おれも部屋戻ってん。
部屋入ったら,あいつ鏡の前立ってネクタイ結んどってん。あいつ人生の半分ぐらいアホみたいに鏡の前立っとおんねん。おれ,椅子座って,しばらくあいつのこと見とってん。
「あの」おれ言うてん。「あの子に,おれ退学なったて言わんといてください」
「分かった」
それはストラドレーターのええとこやねん。細かいアホみたいなことごちゃごちゃ言わんでええねん,アクリーやったらそうはいけへんけど。あれ,興味ないねやろな,ストラドレーターは。そうや思うわ。アクリーはちゃうねん。あいつ,なんでも根掘り葉掘り訊きよんねん。
ストラドレーター,おれのチェックの上着着よってん。
「ホンマそれ,あちこち伸ばさんといてくださいよ」おれ言うてん。おれその上着まだ二回ぐらいしか着てへんかってん。
「伸びひんて。おれ,煙草どこやったっけ」
「机のうえですわ」あいつ,自分がものどこ置いたかなんも覚えてへんねん。「マフラーに隠れてますわ」あいつそれ上着のポケット入れよってん──おれの上着の。
おれ,ハンティング帽の庇,急に前回してん。気持ち入れなおそ思て。おれ急に,なんか心配なってきてん。おれ,めちゃめちゃ気弱いねん。「デート,どこ行きますのん」おれ言うてん。「もう決まってますのん?」
「さあ,どうしよ。時間あったらニュー・ヨーク行きたいねんけどな。むこう,九時半までしか外出許可取っとおれへんねん。アホかっちゅうに」
ジェーンのことアホ言われて,おれちょっと嫌やってん。「そんなん,先輩がどんだけかっこええか,ええ人間か知らんかったからでしょ。もしあの子がそれ知ってたら,明日の朝の九時半まで外出許可取ってますって」
「ホンマやで,ボケ」ストラドレーター言いよんねん。悩みっちゅうもんがあれへんねん。自信満々や。「なあ。作文ホンマ頼むで」あいつ言いよってん。コート着て,やっと行く準備しよってん。「おまえ,本気出さんでええからな。そんなもん,描写するだけでええねん。頼むで」
おれ返事せえへんかってん。返事したなかってん。「あの子に,キングなった駒まだいっちゃん後ろ並べてんのか,訊いといてください」おれ言うてん。
「分かった」ストラドレーター言いよってん。けど,そんなん訊きよれへんわ。「まかしとけ」あいつ,バンてドア閉めて出ていきよってん。
あいつ出てったあと,おれ三十分ぐらいそのまま座っとってん。なあんもせんと,椅子座っとってん。ずうっとジェーンのこと考えてて,ストラドレーター,デートでどんなとこ連れていくねやろて考えとってん。おれ気になって気になって気狂いそうなったわ。ストラドレーターのアホどんだけスケベエか,さっきも言うたやろ。
そしたら急に,アクリーまた部屋入ってきよってん,アホみたいにシャワー・カーテンからいつもどおり。おれ生まれて初めて,アクリー来たん嬉しかったわ。あいつ来たら,ほかのこと考えてられへんもん。
あいつ,晩飯まで部屋おって,ペンシーでだれのこと嫌いか言うとおってん。ほんで,顎のでっかいニキビ潰しよってん。ハンカチも使わんと。あいつ,ハンカチなんか一枚も持ってなかった思うわ,マジで。すくなくとも,おれ,あいつがハンカチ使てるとこ,いっかいも見たことなかったわ。
5
ペンシーの土曜の晩飯て,メニューいっつも同じやねん。大事やねん,ステーキ出るから。なんでステーキかて,おれ千ドル賭けてもええけど,あれ日曜,生徒の親いっぱい来よるからやで。おかん息子に「昨日の晩なに食べたん」て訊きよるやん。ほしたら「ステーキ」いうことなるやん。たぶんサーマー考えよってんやろけど,せこい騙しやで。どんなステーキか,いっかい見てほしいわ。ちっこい固いパサパサのステーキで,ナイフで切んのも苦労すんねん。ステーキ出るとき,こんなごつごつの不細工なマッシュト・ポテト付いてくんねん。ほんで,デザート,リンゴのプディングて決まってんねん。そんなん,だれも食えへんて。食うとしたら,うまいもん知らん下級生のやつら──ほんで,アクリーみたいになんでも食うやつだけやん。
せやけど,おれら食堂から出てきたら,ええことあってん。雪降っとってん。地面に三インチほど積もっとってんけど,まだきちがいみたいに降ってきとってん。めちゃめちゃきれいやったわ。おれら,そこら中で雪合戦してん。子どもみたいやけどな,みんなホンマ嬉しそうやったわ。
おれデートの相手とかおれへんかったから,おれと,レスリング部のマル・ブロサードいう友だちで,バスでエーガーズタウン行ってハンバーガー食うてカスみたいな映画でも見よかいうことなってん。おれらふたりとも,その夜じっとしてんの嫌やってん。おれ,マルに,アクリー誘たらあかんかなあてきいてみてん。アクリー,土曜の夜て,なんもすることないねん。部屋おって,ニキビ潰すとかしとおるだけやねん。あかんことないけどあんまり気乗りせんなあてマル言いよってん。あいつ,アクリーのことあんま好きちゃうかってん。とにかく,おれら仕度しに部屋戻って,おれ自分の部屋でオーヴァーシューズ穿きながら,アクリーに,映画見に行きませんかあてでっかい声で訊いてみてん。シャワー・カーテンあっても十分おれの声聞こえてるはずやねんけど,あいつすぐ返事せえへんねん。すぐ返事すんの嫌やねん。しばらくしたらカーテンのとっからアホみたいにこっち来て,シャワーの段とこで,ほかだれ行くねん言いよんねん。あいついっつも,だれ行くねんて訊きよんねん。たぶんあいつ,どっかで難破してアホみたいに救命ボートに助けてもらうときでも,このボートだれ漕いでんねん言いよんで。マル・ブロサードておれ言うてん。ほしたら「あいつか... まあええやろ。ちょっと待っといて」言いよんねん。頼まれたらしゃあないわ言いたかってんやろな。
あいつ仕度すんの五時間ぐらいかかんねん。待ってるあいだ,おれ窓んとこ行って,窓開けて,素手で雪のボール作ってん。雪,すっごい固まりやすかったわ。けど,どっこも投げへんかってん。投げかけてんけど。道の向こう駐まってる車に。けど,やっぱり止めてん。車,白うて綺麗かってん。ほんで消火栓に投げよか思てんけど,消火栓も白うて綺麗かってん。結局どっこも投げへんかってん。しゃあないから窓閉めて,部屋んなかうろうろしながら,ボールがちがちに固めとってん。あとで,おれとブロサードとアクリーでバス乗るときも,おれそのボール持っとってん。ほたら,バスの運転手,ドア開けて,外にボール捨ててくれ言いよんねん。だれにもぶつけませんておれ言うてんけど,運転手,おれの言うこと信じよれへんねん。だれも,ひとの言うこと信じよれへんねん。
そんときやってた映画,ブロサードとアクリー見たことあるやつやってん。せやから,おれらハンバーガー二個食うて,ちょっとピンボールやってから,またバス乗ってペンシー帰ってん。おれ,その映画見やんでもよかってん。ケーリー・グラント出ててコメディーや言うとったけど。せやしおれ,前にブロサードとアクリーといっしょに映画見たことあってん。あいつらふたりともハイエナみたいに笑いよんねん,いっこもおもんないとこで。映画館であいつらの隣の席座ってるだけで,おもんなかったわ。
おれら寮戻ったん,まだ八時四十五分ぐらいやったわ。ブロサード,ブリッジ好きやから,どっかでだれかブリッジやってないか見に行きよってん。アクリー,自分の部屋戻らんと,おれんとこ来よってん。あいつこんど,ストラドレーターの椅子の腕やのうて,おれのベッド寝よってん。おれの枕に顔つけて。ほんで,ぶつぶつ言いながら,ニキビ潰しよんねん。おれ千回ぐらい分かるように嫌味言うてんけど,どきよれへんねん。あいつ,夏にセックスしたいう女の話ぶつぶつ言いよんねん。その話,おれもう百回ぐらい聞かされとったわ。聞くたびに話変わんねん。いとこのビュイックでやった言うとったんが,いつのまにか,海辺の遊歩道のしたでやったことなってんねん。ほんで,当然ウンコみたいなことばっかり言いよんねん。おれの知りあいでだれ童貞いうたら,まずアクリーやて。ちゅうか,あいつ,女触ったこともないんちゃうか。しばらくしてしゃあないから,おれストラドレーターの作文書かなあきませんねん,集中でけへんから出ていってもらえますか,てはっきり言うてん。あいつ,いつもどおりのろのろしよったけど,結局出ていきよったわ。ほんでおれ,パジャマとバスローブに着替えて,ハンティング帽被って,作文書きだしてん。
けど,ストラドレーター書かなあかん言うとった部屋とか家とかって,なに書いてええか思いつけへんかってん。おれ,部屋とか家とかのこと書くん好きちゃうねん。しゃあないから,弟のアリー使とった野球のミットのこと書いてん。それやったら描写しやすかったから。ホンマ。弟のアリー,こんな左利き用のミット持っとってん。あいつ左利きやったから。なんでそれ描写しやすかったかいうたら,あいつ,ミットに詩書いとってん,指んとことかポケットのとことか全部。緑のインクで。あいつ,守備就いてだれも打席入ってへんとき,それ読も思とってん。死んでもうてんけどな。白血病なって,おれらメーン州おったとき死んでもうてん,一九四六年七月十八日。ええやつやってん。おれよりふたつ下やねんけど,おれの五十倍頭良かったわ。めちゃくちゃ頭良かってん。アリーの担任なった先生,みんないっつもおかんに手紙書いてきとったわ,アリーみたいな子教えんの楽しいとか言うて。それ,お世辞ちゃうねんで。マジでそう言うとってん。せやけど,あいつ,うちでいっちゃん頭ええいうだけちゃうかってん。人も良かってん,いろんな意味で。あいつ,だれにも腹立てたことなかってん。赤毛のやつてすぐ怒る言うやん,けどアリーはちゃうかってん,めちゃくちゃ赤毛やってんけど。どんな赤毛やったか教えたろか。おれ初めてゴルフやったん,まだ十歳のときやってんけど,いっぺん十二ぐらいのときの夏,ティー・ショット打ったとき,いま振りかえったらアリーおんのちゃうかて予感してん。ほんで見たら,案の定フェンスの外で自転車座っとってん──コースの外ずうっとフェンスあってんけど──百五十ヤードぐらい後ろんとこ座って,おれがティー・ショット打つの見とおってん。そんな赤毛やねん。けど,ええやつやってん。みんなで晩飯食うてるとき,自分で思いついたことおもろがってハハハハいうて笑いすぎて,よう椅子から落ちかけとったわ。おれまだ十三やってんけど,精神分析とか受けさせられそうなってん,ガレージの窓全部割ってもうて。そら精神分析もしゃあなかった思うわ,ホンマ。アリー死んだ日の夜,おれガレージで寝て,拳骨でアホみたいに窓全部割ってもうてん,なんでそんなことやったか分からんけど。その夏買うたばっかりのステーション・ワゴンの窓も割ろとしてんけど,そんときもうおれの手の骨折れとったから,割られへんかってん。アホなことした言われるし,たしかにせやねんけど,やってるさいちゅう,おれ自分でそんなことしてるて意識あんまなかったし,せやしみんなアリーのこと知らんやん。いまでも雨降ったりしたら,ときどき手痛なるし,おれもうちゃんとした拳骨でけへんねん──堅い拳骨は──けど,そんなんどうでもええわ。どっちみち外科医とかヴァイオリニストとかそんなアホみたいなんなるつもりないし。
とにかく,そのことストラドレーターの作文に書いてん。アリーの野球のミットのこと。おれ,そのミット,たまたまスーツケース入れて持っとったから,それ出してきてそこに書いたある詩写してん。アリーの名前だけしゃあないから変えてんけど。だれかが,おれの弟やん,ストラドレーターの弟ちゃうやんて気ついたらあかんから。べつにそれどうしても書きたいわけちゃうかってんけど,描写できるもんて,ほかなんも思いつけへんかってん。せやし,それ書いてよかった思たわ。書くの,一時間ぐらいかかってんけど。ストラドレーターのカスみたいなタイプライター使わなあかんかったから。あれ,すぐひっかかんねん。おれ,自分のタイプライター,同じ階の部屋のやつに貸しとったから。
それ完成したん,十時半ぐらいやった思うわ。まだ眠たなかったから,しばらく窓の外見とってん。そんときもう雪降ってなかったけど,ときどき,どっかで車発進でけへん音聞こえとったわ。アクリーの鼾も聞こえとってん。シャワー・カーテン通しても,アホみたいに鼾聞こえんねん。鼻の奥悪いから,寝てるときちゃんと息でけへんねん,あいつ。なんでも揃てるやつやで。鼻の奥悪い,ニキビ,歯汚い,口臭い,爪ぼろぼろ。ちょっと気の毒なるわ。
6
思いだされへんことかてあんねん。いま,ストラドレーター,ジェーンとデートして帰ってきたときのこと思いだそてしとってんけど。あいつのアホみたいな足音聞こえてきたとき,おれなにしとったかあんま覚えてへんねん。たぶん窓の外見とった思うけど,ホンマ覚えてへんねん。おれアホみたいに心配やってん,それでやわ。おれ,ホンマ心配なったら,ほかのことでけへんようなんねん。心配なったら,すぐ便所行きとなんねん。けど行かれへんねん。心配すぎて,動かれへんようなんねん。心配してんの途切れんのが嫌やねん。もしストラドレーターのこと知ってたら,だれかて心配なんで。おれ,あいつと二回ダブルデートしたことあってんけど,なんやっけ,あいつ信義則に反してんねん。いや,ホンマ。
とにかく,廊下全部リノリウム張りやから,あいつのアホみたいな足音近づいてくんの聞こえんねん。あいつ部屋入ってきたとき,おれどこ座っとったかも覚えてへんわ──窓んとこか,自分の椅子か,あいつの椅子か。ホンマ思いだされへんねん。
あいつ,外どんだけ寒いねんとか文句言いながら,入ってきよってん。ほんで「みんなどこ行きよってん。アホかおまえ,このへん霊安室みたいやんけ」言いよってん。おれ返事する気せんかったわ。土曜なんか,みんな外行ってるか寝てるか土日で家帰ってるかに決まってるやん。そんなんも分からんアホに教えたってもしゃあないやん。あいつ,服脱ぎだしよってん。ジェーンのこと,あのボケなんも言いよれへんかったわ。ひとことも。おれも,なんも言えへんかってん。ただ,あいつのことじいっと睨んだってん。これチェックの上着ありがとうな,言いよっただけや。ほんでハンガー掛けてクローゼットにしまいよってん。
ほんで,ネクタイ外しながら,作文書いてくれたかあ言いよったから,出来たやつベッドに置いたあります言うてん。あいつ,ベッドんとこ行って,シャツのボタン外しながら読みよってん。まっすぐ立って,それ読みながら,自分の裸の胸とか腹触って,アホみたいな顔しとおってん。あいつ,いっつも胸とか腹触っとおんねん。自分好きやねん。
ほんで急に言いよってん。「たのむで,ホールデン。これなんやねんボケ,野球のグローヴのこと書いたあるやんけ」
「それがなんですのん」おれ言うてん。めちゃめちゃ冷たい感じで。
「それがなんですのんって,どういうこっちゃ。アホ,おれ,部屋とか家とかそういうもん書いといてくれ言うたやろ」
「描写できるもんやったらなんでもええ言うてはりましたやん。なんであきませんのん,野球のグローヴやと」
「ボケ」あいつ,めちゃめちゃ苛つきよってん。ほんま,すぐ怒りよんねん。「しょうもないチョカばっかりさらしやがって」おれのこと睨んで「そら,おまえ落ちんのしゃあないわ」言いよってん。「おまえ,やれ言われたことアホみたいにいっこもせえへんやろ。せやろ。ホンマいっこも,アホみたいに」
「分かりました,ほな返してください」おれ言うて,あいつの手から原稿取ってアホみたいに破ったってん。
「おまえ,なんでそんなんばっかりしてんねん」
おれ,返事せんと,破った原稿ゴミ箱捨てて,ベッド寝転んでん。ふたりとも,しばらく黙っとってん。あいつ服脱いでパンツ一丁で,おれベッド寝転んで煙草火点けて。ホンマは寮で吸うたあかんねんけど,夜みんな寝とって臭いかぐやつおれへんかったら吸えんねん。それと,ストラドレーター苛つかせたろ思てん。あいつ,だれか規則破ったら怒りよんねん。あいつ,寮で吸うたこといっかいもなかったわ。おれだけやったわ。
ほんでも,あいつ,ジェーンのこと,ひとことも全然言いよれへんねん。しゃあないから,おれから訊いてん。「ジェーン帰んの九時半言うてはったのに,アホみたいに遅かったですやん。ジェーンに門限破らせはったんですか」
それ訊いたとき,あいつ,自分のベッドの端っこでアホみたいに足の爪切っとおってん。「二,三分な」あいつ言いよってん。「土曜の夜に九時半に帰るて,そんなアホふつうおるか」どんだけムカつくか。
「ニュー・ヨーク行ってはったんですか」おれ言うてん。
「アホ,九時半までに帰らなあかんかった言うてるやんけ。ニュー・ヨークなんかどうやって行けんねんボケ」
「きついですね」
あいつ,こっち見て「おい」言いよってん。「おまえ,部屋で吸うんやったら,便所行って吸うてくれへんか。おまえもうここ出ていくかもしれんけど,おれ卒業まで長いことおらなあかんねん」
無視したったわ。マジ無視して,きちがいみたいにスパスパ吸うたってん。で,ごろん寝返りして,あいつアホみたいに爪切んの見とってん。えらい学校やで。いっつもだれかアホみたいに爪切っとおんのとか,ニキビ潰しとおんの見てなあかんねん。
「おれがよろしゅう言うといてください言うたん,言うてくれましたか」おれ訊いてん。
「おお」
絶対言うてへんわ,あのアホ。
「なんて言うてました」おれ言うてん。「まだキングいっちゃん後ろ置いてるかどうか訊いてくれました?」
「そんなん訊くわけないやろ。おまえ,おれら今晩なにしとった思てんねん。チェッカーしてた思てんのかボケ」
おれ,なんも言えへんかったわ。どんだけムカついたか。
「ニュー・ヨーク行かはらへんかったんやったら,どこ行ってはったんですか」しばらくして,おれ訊いてん。声震えんの抑えんの必死やったわ。ううわあっ,どんだけ心配なっとったか。なんか笑てまうような気分やったわ。
あいつアホみたいな爪切って,ベッドから立って,アホみたいなパンツ一丁でアホみたいにおちょくってきよってん。おれのベッドんとこ来て,おれにかぶさって遊びで肩グーで殴ってきよんねん。「やめてくださいよ」おれ言うてん。「どこ行ってきはったんですか,ニュー・ヨークやなかったら」
「どこも行ってへん。アホみたいにずっと車んなかおった」あいつまた,おれの肩グーで一発殴ってきよってん。
「ほんま,やめてくださいよ」おれ言うてん。「車て,だれのんですか」
「エド・バンキー」
エド・バンキーて,ペンシーのバスケ部の監督やねん。ストラドレーター,センターやから贔屓されとって,車借りたいときいつでも貸してもうとってん。生徒が教職員の車借りんのん,ほんまはあかんねんけど,運動部のやつらてみんなグルやねん。おれ行った学校どこも,運動部のやつらみんなグルやったわ。
ストラドレーター,まだおれの背中にシャドー・パンチしてきよってん,手に持っとった歯ブラシ,口んなか入れて。「なにしてはったんですか」おれ言うてん。「エド・バンキーの車でやったんですか」声,完全に震えとったわ。
「なんちゅうこと言うねん。石鹸で口んなか洗たろか」
「やったんですか」
「守秘義務や,言われへん」
その次のこと,あんま覚えてへんねん。いま覚えてるんは,おれ便所行くふりしてベッドから起きあがって,あいつの歯ブラシ全力で殴ったろ思てん。あのアホの喉まっぷたつにしたるつもりやってん。けど,外してもうてん。命中せえへんかってん。頭の横んとこに当たってもうてん。ちょっとは痛かった思うけど,おれがやったろ思てたほどちゃうかったわ。ほんまやったらもうちょっと痛かったんやろうけど,おれ右手でちゃんと拳骨握られへんねん。前怪我したん言うたやろ。
とにかく,その次覚えてんの,おれアホみたいに床倒れてて,あいつおれの胸んとこ乗っててん。あいつ,顔真赤やったわ。両方の膝,アホみたいにおれの胸んとこ乗せとおってん。一トンぐらい重たかってん。それに,おれ,手首,両方とも掴まれとってん。そうやなかったら,おれ,あいつのこと殺しとったわ。
「おまえ,なにが問題やねん」あいつ,そればっかり言うて,アホな顔どんどん赤なったわ。
「そのカスみたいな膝どけてくださいよ」おれ言うてん。かなりでかい声出しとったわ。「聞こえたんか,どけよアホ」
けど,あいつ,どきよれへんねん。おれ,手首,両方とも床抑えつけられたまま,アホ,ボケて十時間ぐらい言うとってん。なに言うたか全部は覚えてへんけど,おまえ,やろ思た女だれでもやれる思てんねやろとか,その子キングいっちゃん後ろに置いたままにしてるかどうかなんかどうでもええねやろとか,おまえがそういうこと気になれへんのはおまえがマジで頭悪いからじゃボケとか。あいつ,頭悪い言われんの嫌やねん。頭悪いやつて,みんな,頭悪い言われんの嫌がりよんねん。
「黙れ,ホールデン」アホみたいな赤い顔で言いよってん。「ちょう,いっかい黙れや」
「おまえ,相手の子の名前がジェーンかジーンかも分かってへん,頭悪いんじゃこら」
「ええから,いっかい黙れて。ホールデン,ええか,警告やぞ」あいつ言いよってん。なに言うんかな思てたら「黙れへんかったらな,おまえ,ホンマいてまうぞ」言いよんねん。
「くっさい膝どけろや」
「おまえ,この膝どけたったら立って黙るか」
おれ,無視したってん。
ほな,また言いよんねん。「ホールデン,おまえ,この膝どけたったら立って黙るか」
「わあった」
ほんで,あいつ立って,おれも立ってん。あいつの膝のせいで胸めちゃくちゃ痛かってん。せやから,「おまえ,くっさい,頭悪い,おかんパンパン」言うたってん。
ほんで,あいつ正味怒りよってん。おれの顔,指差して言いよってん。「おまえな,よう聞けホールデン,こっちは警告したってんねんぞ。もう最後や。おまえ,これで黙れへんかったら──」
「なんで黙んなあかんねんボケ」おれ言うてん。思いっきりでかい声で言うとったわ。「頭悪いやつ,これやから困んねん。おまえら,議論ちゅうもんがでけへんやろ。せやから,頭悪いのんバレバレやねん。おまえら知的なことは──」
ほんで,一発かましてきよって,おれまたアホみたいに床倒れとってん。一発で気絶したかどうかは覚えてへんけど,してへん思うわ。アホな映画ちゃうねんから,そう簡単に気絶なんかせえへんやろ。けど,鼻血すんごい出とってん。上見たら,ストラドレーター,おれのほとんど真上立っとおってん。ほんで,旅行行くときのアホみたいな救急袋持っとってん。「おまえ,おれ黙れ言うてんのに,なんで黙れへんねんな」言いよんねん。ちょっと焦っとったわ。おれが床倒れたとき頭蓋骨陥没かなんかしたんちゃうか思て,怖なったんやろな。ホンマ陥没しとったらよかったわ。「おまえのせいやからな,ええか」言いよんねん。ううわあっ,どんだけびびっとおんねん。
おれもう立つんめんどくさかったから,しばらく床寝転んだまま,おまえ頭悪いんじゃボケ言うとってん。ホンマ腹立っとったから,思いっきりでかい声出しとったわ。
「おい,顔洗てこいや」ストラドレーター言いよってん。「聞いてるか」
おまえの頭悪い顔のほうこそ洗てこいて,おれ言うてん。子どもの喧嘩みたいやけど,めちゃめちゃ腹立っとってん。便所行ってこい,ほんで途中でシュミットの嫁はんとやってこい言うたってん。シュミットて,寮の用務員のおっさんおってん。嫁さん,六十五歳ぐらい。
おれずっと床座っとったら,ストラドレーター,ドア閉めて廊下歩いて便所のほう行きよってん。足音で分かんねん。せやから,おれ立って,帽子どこ行ってんやろ思てアホみたいに探したら,ベッドの下入っとんてん。おれ,それ被って,庇後ろ回してん。気に入っとってん,それ。ほんで鏡んとこ行って,顔どうなってんのか見てみてん。あんな血出てんの見たことない思うで。口とか顎とかな,パジャマとかバス・ローブまで血だらけやってん。ちょっと怖かったけど,ちょっとええなあ思たわ。血とか飛んでたら,なんか強なったように見えてん。おれそれまでに喧嘩て二回しかしたことなかってん。二回とも負けてん。あんま強ないねん。おれ平和主義者やねん,マジで。
アクリー,この騒ぎずっと聞いとって起きてんちゃうかなあ思てん。せやからシャワー・カーテンくぐって,アクリーなにしてんのか部屋見に行ってん。おれのほうから行くて,めったになかってんけど。あいつの部屋いっつもヘンな臭いすんねん,あいつ,だらしないから。
7
おれらの部屋のほうからシャワー・カーテン越しにちょっと灯り入っとったから,あいつベッド入ってんの見えてん。ぱちーん目覚めてんのアホみたいにすぐ分かったわ。「アクリー」おれ言うてん。「起きてます?」
「おお」
暗かったから,床に置いたあるだれかの靴踏んで,頭から倒れそうなったわ。アクリー,ベッドで起きあがって,体斜めにして片手で支えとおんねん。顔にいっぱい,なんか白いもん塗っとおんねん,ニキビの薬かなんか。暗いとこで見たら,お化けみたいやで。「なにしてはりますのん」て,おれ言うてん。
「なにしてるて,どういうこっちゃ。こっちが寝よ思てたら,おまえらが騒ぎだしたんやんけ。なんの喧嘩しとってん」
「電気どこですか」おれ,電気見つけられへんかってん。壁中に手這わしててんけど。
「なんで電気要んねん... おまえの手のすぐ横や」
やっとスイッチ見つけて電気点けたわ。アクリー,眩しいから,手で遮りよってん。
「どないしてん」あいつ言いよってん。「なにあってん」血のこと言うとおんねん。
「ストラドレーターとアホみたいなことでちょっとあって」おれ言うて,床座ってん。あいつらの部屋,椅子なかってん。椅子どないしよってんやろ,分からんわ。「ちょっと」おれ言うてん,「カナスタしませんか」あいつカナスタ好きやねん。
「おまえ,まだ血出てるやんけ。それ,なんか塗っといたほうがええぞ」
「こんなんそのうち止まりますて。カナスタやりませんか」
「カナスタて,おまえ,いま何時か分かってんのか」
「そんな遅ないですよ,まだ十一時か,十一時半ぐらいですやん」
「まだて,おまえな」アクリー言いよってん。「おい,おれ明日,朝起きてミサ行かなあかんねん。せやのに,おまえらこんな真夜中にバタバタして喧嘩始めやがって,ボケ──ほんで,なに喧嘩しとってん」
「長い話なりますよ。そんなん,退屈してもうたら申しわけありませんやん。ぼく,アクリーさんのこと思て言うてるんです」おれ言うてん。そんな込みいったこと,アクリーに言うたことなかったわ。だいたいあいつ,ストラドレーターよりアホやもん。アクリーといっしょにおったら,ストラドレーターなんか,あのボケ天才やで。「あの」おれ言うてん,「おれ今晩イーライのベッド寝てかまいませんか。どうせ明日の夜まで帰ってけえへんでしょ」それアホみたいにはっきり分かっとってん。イーライ,毎週アホみたいに家帰っとおったから。
「あいついつ帰るか,おれは知らんわ」アクリー言いよってん。
ううわあっ,どんだけうっとおしいか。「イーライいつ帰ってくるか知りはれへんて,どういう意味ですか。いっつも日曜の夜まで帰ってきませんやん」
「いつもはな。けど,あいつのベッドで寝てええかどうか,おれには分からんわボケ」
マジびびったわ。おれ,床座ったまま手伸ばして,アホみたいにあいつの肩叩いてん。「アクリーちゃん,かっこええ」おれ言うてん。「そう思てはるでしょ」
「アホ,あのな,あいつのベッドで寝てええかどうかやなんて,おれには」
「ホンマかっこええ思いますよ。紳士的やし学者みたいなとこあるし」おれ言うてん。それは,ほんまのとこもあってん。「煙草持ってはりませんか。ない言うてみてください,然らずんば,おれバタン倒れて死にますから」
「ないわ,持ってへんわ,すまんの。ほんで,さっきの喧嘩なんやってん」
おれ黙っとってん。ほんで,立って,窓んとこ行って外見てん。急に,おれおるとこなくなった気してん。もう死んでもええ思うとこやったわ。
「なあ,喧嘩,なんやってんな」アクリー,五十回ぐらい訊きよんねん。そのへん,たしかにおもんないやつやねん。
「アクリーさんのことですやん」
「おれのこと。なんやそれ」
「そうですよ,おれ,アホみたいにアクリーさんの肩持ったんですよ。ストラドレーターさんが,アクリーさんのことカスみたいな性格してる言いはったんで,そらちゃいます言うてもうたんですよ」
アクリー,乗ってきよってん。「マジか。ホンマに。あいつ,そんなん言いよったんか」
嘘ですよ言うて,おれイーライのベッドんとこ行って,ごろん転がってん。ううわあっ,もうおれあかん思たわ。アホみたいにひとりなった気してん。
「この部屋,臭いですよ」おれ言うてん。「あちこちから靴下の臭いしますよ。洗濯したことありますのん」
「気に入らんかったら,どうしたらええか考えろや」アクリー言いよってん。案外ひねったこと言うやっちゃ。「電気消したらどやボケ」
けど,おれ消せへんかってん。イーライのベッドで横なって,ジェーンのこととか考えとってん。ジェーンとストラドレーターどっかにエド・バンキーのケツでっかい車駐めてんの想像したら,目の焦点合うてへんきちがいみたいなってもうたわ。それ想像するたび,窓から跳びだしたなってん。それ,ストラドレーター知らんかったら,分からんねん。おれ知ってたからな。ペンシーのやつらて,たいてい,女とやったとか言うとおるだけやねん,アクリーみたいに。けどストラドレーターはホンマにやっとってん。おれがホンマに知ってる子だけでも,二人とやっとおったもん。ホンマ。
「アクリーちゃんの,おもろい話してくださいよ」おれ言うてん。
「電気消せやボケ。おれ,朝ミサ行かなあかんねん」
アクリー苛つくの嫌やったから,おれ起きて電気消しに行ってん。ほんでまたイーライのベッド寝てん。
「おまえ,どうするつもりや。イーライのベッドで寝んのか」アクリー言いよってん。おもてなしの心あるやっちゃ。
「寝よかな。やめとこかな。まあ心配せんといてください」
「心配なんかしてへんけど,ただイーライ急に帰ってきて自分のベッドだれか寝てんの見たら──」
「気にせんでかまいませんて。おれ,ここで寝ませんて。これ以上アクリーさんにアホみたいにおもてなししてもうたら,申しわけありませんわ」
二,三分したら,あいつ,きちがいみたいに鼾かいとってん。けどおれ,真っ暗んなか寝転んで,エド・バンキーのアホみたいな車乗ってるジェーンとストラドレーターのこと考えんようにしとってん。けど,そんなん無理やったわ。おれ,ストラドレーターのテクニック知っとったからな。せやから,余計気になってん。いっかいエド・バンキーの車でおれらダブルデートしたとき,ストラドレーター女の子と後ろ座って,ほんでおれ別の子と前おってん。こいつのテクニックすごい思たわ。おとなしい,真面目な声で嘘ばっかり言いだしよんねん。ただの顔ええだけのやつやのうて,性格ええ,真面目なやつのふりしよんねん。あいつの話聞いてたら,ゲエ出そうなったわ。相手の女の子「いや,やめて,お願い,やめて」言うとおんねん。けどストラドレーター,エイブラハム・リンカーンみたいな真面目な声でずっと嘘ばっかり言うとおってんけど,急に後ろの席,静かなってん。ホンマ焦ったわ。そんとき,あいつ,やってへん思うけど,あと一歩のとこまでアホみたいに行きよってん。あと一歩やで,アホ。
おれ,なんも考えんとこ思てベッドで横なっとったら,便所からストラドレーター帰ってきて部屋入ったん聞こえてん。救急セット片付けて,窓開けよってん。あいつ,すぐ風当たりたがりよんねん。ほんで,しばらくして電気消しよってん。おれがどこおるかとか全然気にしてへんかったわ。
通りのようすとか,悲しかったわ。もう車通る音も聞こえへんかってん。おれもうあかんいう気なって,アクリー起こしたろ思てん。
「ちょっと,アクリー」カーテンからストラドレーターに聞こえへんように,小さい声で言うてん。
けど,アクリー起きよれへん。
「ちょっと,アクリー!」
まだ起きよれへん。石みたいに寝とおんねん。
「ちょっと,アクリー!」
やっと起きよってん。
「なんやねん,おまえ」あいつ言いよってん。「おれ寝とってんぞ」
「ちょっとだけ訊きたいんですけど。修道院入んのんて,どうしたらええんですか」おれ,修道院でも入ろかな思とってん。「カトリックやなかったら入れませんか」
「あたりまえやんけ,カトリックしか入れるか。ボケ,おまえ,それ訊くのに,おれ起こし──」
「分かりました,もう寝てください。どうせおれ修道院入りませんから。おれの持ってる運やと,ヘンな修道士ばっかりおるとこ入りそうなんで。嫌なアホばっかりんとことか。せやなかったら,ただ嫌なやつばっかりんとことか」
そう言うたら,アクリー,ベッドんなかで起きあがりよってん。「あのな」あいつ言いよってん。「そら,おれのことはなに言うてもええで,けどカトリックのこと言うんやったらなボケ──」
「落ちついてくださいよ」おれ言うてん。「だれもアクリーさんの宗教のこと言うてませんやん」おれ,イーライのベッドから出て,ドアのほう行きかけてん。もうこんなアホな空気のとこでうろうろしてんの止めよ思てん。けど思いなおして,アクリーの手握って,アホみたいにでっかい握手してん。あいつ,手引きよったわ。「なんやねん」あいつ言いよってん。
「なんもありませんて。こんな王子様でいてくれてありがとうございますて言いたかったんです,それだけです」おれ言うてん。すんごい真面目な声で。「アクリーちゃん,エースですわ」おれ言うてん。「分かってますか」
「口減らんやつやのう。いつかだれかおまえの──」
おれもうめんどくさいから,聞かんと,ドア閉めてアホみたいに廊下出てん。
みんな,寝てるか,どっか行ってるか,土日で家帰ってるかやったから,廊下,めちゃくちゃ,めちゃくちゃ静かで悲しなったわ。リーヒーとホフマンの部屋の戸んとこにコリノスの歯磨きの空の箱落ちとって,階段のほう歩きながら,おれ履いてた羊の毛のスリッパでそれずっと蹴っとってん。なにしようかな思て,下行ってマル・ブロサードなにしとおるか見てこうか思てんけど,やっぱりやめよ思てん。急に決めてんけど,もうペンシー出たろ思てん──その夜のうちに。水曜まで待ってんと。なんもすることないのに,おってもしゃあないやん思て。悲しいし,取りのこされた気分なるし。せやから,ニュー・ヨークのホテル泊まって──どっか安いホテルな──水曜までゆっくりしてよ思てん。ほんで,のんびり休んで気分晴らしてから水曜に家帰ろ思てん。おれ退学なったいうサーマーの手紙,親読むん,たぶん火曜か水曜なってからやろ思てん。それ読んでもうて,なにもかも納得してもうてからやないと,家帰る気せえへんかってん。おとん,おかんがその手紙初めて読むとき,近くにおりたなかってん。おかん,そういうとき,めちゃくちゃ怒るから。納得したあとやったら,まあええねんけど。せやし,ちょっと休み要る思てん。神経ずたずたやったから。ホンマ。
とにかくそうしよ思てん。せやから部屋戻って電気点けて荷物まとめてん。もうだいたい詰めとってんけどな。ストラドレーター,ずっと寝とったわ。煙草点けて,服着て,ここにも持ってきたグラッドストーンのカバンふたつに荷物詰めてん。二分で終わったわ。おれ,荷物詰めんの早いねん。
荷物まとめてるとき,いっこちょっと悲しなったことあったわ。ホンマちょうど二日前におかん送ってきた新品のスケート入れなあかんかってん。悲しなったわ。スポールディング行って,わけ分からんこと店員に百万回訊いてんの,目に浮かんだわ──ほんでまたおれ退学やん。悲しなったわ。おかん,靴の種類間違うとってんけど──おれ,スピード・スケートのやつ欲しかったのに,ホッケーのやつ送ってきよってん──それでも悲しなんねん。だれかにプレゼント貰たら,結局,悲しなんねん。
荷物詰めたら,カネ数えてみてん。なんぼ持ってたかはっきり覚えてないけど,けっこうあってん。一週間ほど前に,おばんが束で送ってくれとったから。うちのおばん,気前ええねん。ちょっとボケてきてて──めちゃくちゃ年とってるからな──おれの誕生日のお祝いいうて年に四回ぐらいカネ送ってくれんねん。せやけど,そんだけ持ってても,いざとなったらもっと要るかもしれんわ思てん。なにあるか分からんやん。ほんで,同じ階のフレデリック・ウドラフ起こしてん,そいつにタイプライター貸しとったから。タイプライターなんぼで買うてくれる,ておれ訊いてん。カネ持ちやったからな。そいつ,知らん,言いよんねん。あんまり買いたない言いよってん。けど,結局買うてくれよったわ。もともと九十ドルぐらいしたやつやけど,そいつ二十ドルしか出しよれへんかってん。おれ起こしたから機嫌悪かってんな。
出ていく準備できて,カバン持ったとき,しばらく階段の横立って,最後にアホみたいな廊下端から端まで見てん。泣きそうなったわ。なんでかいまも分からんけど。赤のハンティング帽被って,庇後ろ回して。それ気に入っとってん。ほんでおれのいちばんでかいアホみたいな声で言うたってん。「よう寝ろよ,このアホども!」あの階の全員起こしたった思うわ。ほんで,おれ出ていってん。どっかのアホが階段中にピーナッツの殻捨てとおったから,もうちょっとでアホみたいに首折るとこやったわ。
8
もうタクシーとか呼ばれへん時間やったから,おれ駅までずっと歩いてん。あんま遠なかったけど,めちゃめちゃ寒かったし,雪で歩きにくいし,グラッドストーンずっとばんばん脚当たんねん。けど,外の空気吸うて気持ちよかったわ。寒いんで鼻痛かったけど。あと上唇の裏んとこ。ストラドレーターに殴られたとこ。あいつ,歯あたるとこ殴りよったから,けっこう傷できとってん。耳は大丈夫,ぬくかったわ。買うた帽子に耳あて付いてて,それしとったから──見た目なんかどうでもよかってん。どうせ,だれとも会えへんし。みんな寝とおったから。
駅着いたら,めちゃくちゃ運良かってん,十分待ったら汽車来たから。待ってるあいだ,おれ雪掴かんで,それで顔拭いてん。まだ,けっこう血付いとったわ。
ふつうやったら,おれ汽車乗んの好きやねん,とくに夜とか,電気点いてて窓まっくらで,通路にコーヒーとかサンドウィッチとか雑誌とか売りに来るやん。ふつうやったら,おれハム・サンドウィッチと雑誌四冊ぐらい買うねん。夜に汽車乗ったら,ふつうやったら,雑誌に載ってるしょうもない短編小説読んでもゲエ出そうなれへんねん。分かるやろ。デヴィッドとかいう名前の,顎すっとしたパチもんのやつらいっぱい出てきて,リンダとかマーシャとかいうアホな女いっぱい出てきて,そいつらいっつもアホみたいにデヴィッドとかのパイプに火点けとおるやつ。そんなカスみたいな短編小説でも,おれ夜に汽車乗っとったら読めんねん,ふつうやったら。せやけど,そんときは,そんな気なれへんかったわ。座って,なんもせえへんかってん。ハンティング帽脱いでポケットに仕舞て,それだけ。
ほしたら急に,トレントンで,上品なおばさん乗ってきて,おれの横座ってん。かなり夜遅かったから,ホンマがらがらやってんけど,空いてる席座らんと,おれの隣座ってん。そのおばさん,こんなでっかいカバン持ってて,おれ,いっちゃん前の席座ってたから。おばさん,そのカバン,通路のどまんなかにでーん置きよんねん。車掌とかほかの客躓くかもしれんのに。蘭の花付けとったわ,でっかいパーティーかなんかの帰りやってんやろな。四十か,四十五ぐらいやった思うわ,けどすごいきれいやってん。女って,びびるわ。ホンマに。べつにおれ,そんなスケベエちゃうねんけど──まあ,けっこうスケベエやけど。おれ,女て好きやねん。女ていっつも,カバン,アホみたいに通路のまんなか置きよるやろ。
とにかく,おばさんとおれ並んで座ってたら,おばさん急に言いよってん。「ごめんなさい,あれ,ひょっとしたらペンシー高校のステッカーやないかしら」おばさん,網棚のうえの,おれのスーツケース見上げとってん。
「はい,そうです」おれ言うてん。そのとおりやってん。おれ,グラッドストーンの片方にアホみたいにペンシーのステッカー貼っとってん。めちゃくちゃパチもんやわ,認めるわ。
「まあ,ペンシー行ってはるの」おばさん言いよってん。感じええ声やったわ。電話に出たら感じええ声。アホみたいに電話持ちあるいとったらよかったのに。
「はい,そうです」おれ言うてん。
「まあ,素敵! そしたら,うちの息子,アーネスト・モローご存じありませんか。ペンシーに行ってるんですよ」
「はい,知ってます。同じクラスです」
その息子って,いままでペンシーに入学したやつのなかで,いちばん嫌なやつやねん,あの学校の全歴史のなかで。そいついっつも,シャワー浴びて階段降りるとき,滴ぼたぼた落ちてる濡れタオルでみんなのケツぱしーんしばいていきよんねん。ホンマそういうやつやねん。
「まあ,うれしいわ!」おばさん言いよってん。ほんまそう思てるみたいやったわ。ほんまに感じよかってん。「こうやってお会いしたこと,アーネストに言うとかなあきませんね」おばさん言いよってん。「お名前,お伺いしてよろしいですか」
「ルドルフ・シュミットです」おれ言うてん。おれ,それまでの人生,おばさんに語る気せえへんかったから。ルドルフ・シュミットて,おれらの寮の用務員のおっさんや。
「ペンシーは気に入ってはる?」おばさん訊いてきてん。
「ペンシーですか。悪いとこやないですよ。天国とか,そういうとことはちゃいますけど,ほかのだいたいの学校と同じぐらいええとこです。先生のなかには,すごい良心的なひとがいてはります」
「そこがええいうて,アーネストも言うてるんです」
「そうや思います」おれ言うてん。ほんで,ウンコみたいなこと言いだしてん。「アーネストくんは,いろんなことに適応してます。ホンマに。適応のしかたがホンマよう分かってる思います」
「そんなふうに見てくれてはるんですか」おばさん言うてん。めちゃくちゃ興味ありそうな感じやったわ。
「アーネストくんでしょ。ホンマですよ」おれ言うてん。そんとき,おばさん,手袋外してん。ううわあっ,宝石だらけやったわ。
「爪が割れてしもうたんですよ,さっきタクシー降りるときに」おばさん言うてん。おばさん,顔上げて,おれ見て,にこって笑いはってん。すごいええ顔やったわ。ホンマに。だいたいみんな笑顔なんかなれへんし,なったとしてもカスみたいなやつやん。「アーネストの父親とわたしは,心配になることがあるんです」おばさん言うてん。「あの子,人づきあいがあんまり上手やないんやないかと思うんです」
「どういうとこですか」
「うん,あの子,ちょっとしたことを気にしすぎるでしょ。せやから,いままで,学校のみなさんとホンマうまいことやっていかれへんかったんです。あの年齢にしては,なんでもちょっと深刻に考えすぎるんやないかと思うんです」
ちょっとしたことを気にしすぎる,て。めちゃくちゃびびったわ。モローがちょっとしたこと気にする言うんやったら,トイレの便座かてそう言うたらなあかんわ。
おれ,おばさんの顔じっと見てん。おれが見るかぎり,アホな顔してへんかってん。どんだけ嫌なやつの母親か,自分でアホみたいによう分かってる顔しててん。けど,分からんもんやな,おかんて。どこのおかんも,みんなちょっと狂てんねん。けど,おれ,モローのお母さん,気に入ってん。感じよかってん。「煙草吸わはりますか」おれ訊いてん。
おばさん,まわり見て「ここは喫煙車やないと思いますけど,ルドルフくん」言うてん。ルドルフくんやて。めちゃくちゃびびったわ。
「かまいませんて。やいやい言われるまで吸うててええんですよ」おれ言うてん。おばさん,おれの煙草一本取って,おれが火点けてん。
おばさん,ええ感じに煙草吸うねん。煙吸うねんけど,ぐうって吸いこめへんねん。ああいう年齢のおばはんて,だいたいぐうって思いきり吸いこむやん。ずっと見てたなるおばさんやったわ。けっこうセックス・アピールもあったわ,マジな話。
おばさん,おれのこと見て,なんか不思議がっとってん。「勘違いやったらごめんなさい,けど鼻のとこ血出てんのとちゃいますか」おばさん急に言うてん。
はい,て肯いて,おれハンカチ出してん。「さっき雪合戦の玉当たったんです」おれ言うてん。「すごい氷のかたまりみたいなやつが」ホンマのこと言おかなとも思てんけど,話長なるやん。けど,おれ,おばさんのこと好きなってたから,ルドルフ・シュミットて名乗ったん後悔しとったわ。「アーニーくんですけど」おれ言うてん。「ペンシーでいちばん人望あるんです。知ってはりますか」
「いいええ,そんなこと」
そうです,て,おれ肯いてん。「みんな,アーニーくんのことちゃんと分かんの,けっこう時間かかったんですよ。アーニーくん,おもしろいんですけど,ちょっと変わってるんです──いろんな意味で。分からはりますよね。ぼくも,初めて会うたときはそうでした。初めてアーニーくんに会うたとき,なんか気取ったひとかなあて思たんです。思ただけですよ。ホンマはちゃうかったんです。アーニーくんは,ちゃんと分かんのにちょっと時間がかかる,めちゃくちゃ独特な性格なんですよ」
モローのお母さん,なんも言えへんかったけど,ううわあっ,見てほしかったわ。汽車の席で釘付けなっとってん。だれかのおかんて,聞きたいんは結局,息子がどんだけすごいかいうことやねん。
ほんで,おれ,ホンマにウンコみたいなこと言いだしてん。「アーニーくん,選挙のこと,お母さんに話しました?」おれ訊いてん。「クラス選挙のこと」
いいえ,て,おばさん首振ってん。おばさん,おれの話に魅入られとったわ,ホンマ。
「ぼくら,アーニーくんにクラスの委員長になってもらいたかったんですよ。全員一致で。委員長なんかできんの,ホンマ,アーニーくんしかおれへんかったんです」おれ言うてん──ううわあっ,どんだけ口から出まかせか。「けど,結局ほかのやつ,ハリー・フェンサーが委員長なったんです。そいつが選ばれた理由は,単純明白な理由やったんですけど,アーニーがぼくらに推薦させてくれへんかったからなんです。アーニーくん,めちゃくちゃ内気で謙虚やから。固辞したんですよ... ううわあっ,ホンマ内気ですよ。お母さん,あれ,アーニーくんに克服させてあげたほうがええ思いますよ」おれ,おばさんの顔見てん。「アーニーくん,その話してませんか」
「いいええ,聞いたことありません」
おれ肯いてん。「やっぱり,アーニーらしいですわ。そら,そんなん言いませんわ。それがアーニーくんの唯一の欠点なんです──内気で謙虚なとこ。ホンマ,時々は羽根伸ばさせてあげなあかん思います」
そんとき,車掌がモローのお母さんの切符見に来て,おれやっと出まかせ言うの止められてん。けど,あれ言うてよかった思うわ。モローみたいな,いっつもタオルでひとのケツしばいとおるやつ──マジで怪我させたろ思てやっとおんねんで──あんなやつ,うっとおしいん,子どものときだけちゃうで。あんなやつ,一生うっとおしいねん。けど,あんだけ出まかせ言うたから,モローのお母さん,いまでも息子のこと,おれらにクラス委員の推薦させへんめちゃくちゃ内気で謙虚なやつや思てる思うわ。たぶん。分からんけどな。母親って,そういうとこ鈍いやろ。
「カクテル飲みに行きませんか」おれ言うてん。おれ飲みたい気分やってん。「食堂車行ったら飲めますよ。どうですか」
「まあ,お酒なんか頼まはってええんですか」おばさん,言うてん。けど,頭ごなしにあかん言う感じちゃうかったわ。魅力とかありすぎて,そんな感じせえへんねん。
「いえ,ホンマはあかんのですけど,ぼく,背高いから,だいたい出してもらえるんです」おれ言うてん。「せやし,めちゃくちゃ白髪生えてますし」おれ,横向いて,おばさんに白髪見せてん。おばさん,じいっと見とったわ。「ほな行きましょか,どうしはります」おれ言うてん。いっしょに行きたかってん。
「ここは行かんほうがええと思います。けど,お誘いいただいて,どうもありがとう」おばさん言うてん。「そやし,食堂車はたぶんもう閉まってる思いますよ。こんな時間やから」そのとおりやったわ。おれ,何時か忘れとってん。
ほしたら,おばさん,おれの顔見て,訊かれんのちゃうかなあ思てたこと訊いてきてん。「アーネストは手紙で,水曜に帰るいうて,水曜からクリスマス休みいうて書いてきてましたけど」おばさん言うてん。「ご家族のどなたかがご病気で急にお見舞いに行かはるとかやなければええのやけれど」おばさん,ホンマにそんな心配してる感じやったわ。ただ詮索してきただけちゃう思うわ。
「いえ,家族はみんな元気です」おれ言うてん。「ぼくなんです。ぼくが手術受けなあきませんねん」
「まあ,ごめんなさい」おばさん言うてん。ホンマ気の毒そうやったわ。おれ,そんとき,そんなこと言うたん申しわけのう思たけど,手遅れやったわ。
「そんな深刻なんとちゃうんですよ。脳に小さい腫瘍があるんです」
「まあ」おばさん,片手上げて口抑えてん。
「いえ,たぶん大丈夫なんです。外のほうの近くやから。せやし,めちゃくちゃ小さいんです。手術したら二分ぐらいで取れるみたいです」
ほんで,おれ,ポケットの時刻表出して読みだしてん。嘘つくの止めよ思て。おれ,いっかい嘘つきだしたら,その気なったら,何時間も続けられんねん。マジで。何時間も。
そのあと,おばさんとあんまり話せえへんかってん。おばさん,持ってた『ヴォーグ』読んでたし,おれしばらく窓の外見とってん。おばさん,ニュー・アークで降りはったわ。手術が成功しますように祈ってますよ,言うてくれはってん。ずっと,ルドルフくん言うてはったわ。ほんで,夏休みにマサチューッセッツのグロスターにあるアーニーの家遊びに来てくださいね,言いはってん。家ホンマに砂浜に建ってて,テニス・コートとかあんねんて。けど,おれ,夏は祖母と南アメリカに行くことなってます言うて,お礼言うて断ってん。ホンマめちゃくちゃやわ,うちのおばん,家の外もめったに出えへんのに。たまにアホみたいなマティネーとか見に行くだけやのに。けど,おれ,どんだけヤケんなっても,世界中のカネ全部やる言われても,あんなモローみたいなやつのとこ行けへんわ。
9
ペン・ステーション出て,まず電話ボックス入ってん。だれかに電話したかってん。カバン見張ってられるように電話ボックスの外置いて中入ってんけど,ほしたら電話する相手ぜんぜん思いつけへんねん。兄貴のD.B.はハリウッドやん。妹のフィービーは九時頃寝るから──フィービーにかけられへんやん。起こしても文句言えへんかった思うけど,電話出んの,たぶんフィービーちゃうやん。出んの親やろ。せやから,それもあかんかってん。ジェーン・ギャラガーのお母さんに電話して,ジェーンいつから休みか訊こかな思てんけど,なんかそんな気せえへんかってん。せやし,電話するにはかなり時間遅かったし。ほんで,昔からしょっちゅう遊んどったサリー・ヘーズいう子に電話しよ思てん。そいつの休み,もう始まってんの知ってたから。こんな長い,パチもんの手紙送ってきて,クリスマス・イヴにクリスマス・トゥリー飾るの手伝いに来て,て書いたあってん。けど,電話出んの,むこうのおばちゃんちゃうか思てん。あのおばちゃん,うちのおかん知ってるから,大慌てでアホみたいに脚の骨折ってでも,おかんに電話して,おれがニュー・ヨークおる言うわ思てん。せやし,おれ,あそこのおばちゃんとあんま電話で喋りたなかってん。おばちゃん,まえにサリーに,おれのこと,はぐれ者や言いよってん。おれのこと,はぐれ者で,人生の方向定まってへん,て。せやから,ウートン高校行ってたとき先輩やったカール・ルースいうやつに電話しょうか思てんけど,おれ,そいつのことあんま好きちゃうかってん。せやから,結局だれにも電話せえへんかってん。二十分ぐらい電話ボックスおって,ほんで外出てカバン持って,タクシー停まってるトンネルんとこまで歩いてってタクシー乗ってん。
おれ,うっかりしとったから,アホみたいに運転手に家の住所言うてもうてん,いつもの癖で──二,三日ホテル泊まって休み始まるまで家帰れへんつもりやったん完全に忘れとってん。公園の途中まで行って,おれ,やっと気ついてん。ほんで言うてん,「すんません,Uターンできるとこあったら曲がってもらえませんか。住所間違うてたんで。ダウンタウン戻ってください」
運転手,ある意味かしこいやつやったわ。「ここはUターンでけへんねん,お兄さん。ここらは一方通行やさかい。このままずっと九十丁目まで行かんならんわ」
おれ,言いあいとかしとなかってん。「ほなそうして」言うてん。ほんで,ふと思てん。「なあ,運転手さん」おれ言うてん。「セントラル・パーク・サウスのすぐ近くの池に,鴨いっぱいいてますやん。あのちっこい池。あの鴨て,池凍ったらどこ行くんか知りません? ひょっとして,なんか知ってます?」百万分の一の確率しかないて分かってたけどな。
運転手,振りかえって,きちがい乗ってきよったみたいな目で,おれ見よってん。「なに言いたいの,兄さん」運転手,言いよってん。「わしのこと,おちょくってまんのん?」
「いや,ちょっと知りたかっただけですやん,それだけですやん」
運転手,もうなんも言えへんかったから,おれも黙っとってん。ほんで九十丁目で公園出てん。ほしたら,運転手,言いよってん。「ほた,兄さん,それでどこ行きまんのん」
「えーと,イースト・サイドのホテルは泊まりたないねんな,だれか知りあいに会うかもしれんから。おれここおれへんことなってんねん,いまお忍びの旅やねん」おれ言うてん。「お忍びの旅」とかパチもんみたいなこと言うの嫌やねんけど,パチもんといっしょにおったら,おれもいっつもパチもんなってまうねん。「タフトかニュー・ヨーカーに今夜だれのバンド出てるか知りません?」
「知らんわ」
「うーん,ほしたらエドモント行って」おれ言うてん。「途中でどっか寄ってカクテル付きおうてもらえませんか。おれのおごりで。カネはあるんで」
「そらあきませんわ,兄さん,すんまへんな」いっしょにおってホンマ楽しいやつやったわ。すごい性格や。
エドモント・ホテル着いて,チェック・インしてん。おれ,タクシーんなかで赤いハンティング帽被っとってん,たいした意味なしに。けどチェック・インする前にそれ脱いでん。ヘンなやつや思われたらあかん思て。ホンマ皮肉やわ。おれ,そんとき,あのボケのホテル,変態とかアホばっかりやて,まだ知らんかってん。ヘンなやつだらけやってん。
しょぼい部屋やったわ。窓から見えんの,ホテルの反対側だけで。まあ,どうでもよかってん。悲しすぎて,景色なんか気になれへんかったから。部屋まで案内してくれたベルボーイ,六十五ぐらいのおじんやってん。そのおじん,部屋より悲しかったわ。髪の毛全部,こっちから櫛で伸ばしてハゲ隠しとおるおじんやってん。おれやったら,あんなんせんと,ハゲのままでええわ。せやけど,六十五ぐらいなって,羨ましい仕事やで。ひとのスーツケース運んで,ティップ貰うの待って。おじん,あんまり頭良さそうちゃうかったけど,ぞっとしたわ。
おじん出てったあと,おれ,しばらく窓の外見とってん,コートとか着たまま。なんもすることなかったし。ほしたら,あんなんびっくりすんで,ホテルの反対側のやつらやっとおったこと見たら。あいつら,シェードぐらい下げとけや。白髪のおっさん,それもけっこう品良さそうなおっさん,パンツ一丁で,おれが言うても信じてもらわれへんようなことしてんの見えてん。まずスーツケース,ベッド置いて,女もんの服出して着よんねん。マジで女もんの服──絹のストッキングとかハイヒールとかブラジャーとか紐付いたコルセットとか。ほんで,おっさん,めちゃくちゃ細身の黒いイヴニング・ドレス着よってん。ホンマに。ほんで,部屋んなか,あっち行ったりこっち来たりしよんねん,女みたいに一歩一歩ちょっとずつ。ほんで煙草吸うて鏡見よんねん。ひとりでやで。トイレにだれかおったかもしれんけど──そこまでは見えへんかったから。ほんで,そのおっさんのだいたい真上の窓で,男と女が口から水吹いて,おたがいにかけおうとおってん。たぶん水やのうてハイボールやったかもしれんけど。グラスになに入ってるかまでは分からんかったわ。とにかく,まず男がグラス一息で空けて,それ女の体中に吹きかけて,こんどは女が同じこと男にしよんねん──何回も順番にやりよんねん,かなんで。あれ見てほしかったわ。そいつら,それが世界中でいっちゃんおもろいことみたいに,ずっと発作起こしたみたいに興奮しとおってん。嘘ちゃうで,あのホテル,変態だらけのカスみたいなとこやってん。たぶんあのホテル中で正常やったん,おれだけやわ──言いすぎちゃうで。もうちょっとでアホみたいにストラドレーターに電報打って,朝一の汽車でニュー・ヨーク来い,言うとこやったわ。あいつやったら,あのホテルの王様なれたのに。
問題は,そういうクズみたいなやつらて,見だしたらずっと見てまうことやねん,そんなつもりのうても。たとえば,顔中に水吹きかけられてる女,けっこうかわいかってん。問題は,おれやねん。おれの頭んなか,だれも見たことないぐらい,めちゃくちゃセックスのことばっかりやねん。おれかて,できるもんやったらやってみたいクズみたいなこと考えることあんねん。ああいうクズみたいなこと,二人とも酔うてたらめちゃくちゃおもろいやろて分かんねん,女とおたがいの顔に水とか吹きあうのん。けど,おれ,そんなこと考えんの嫌やねん。よう考えたら,ひどいやん。その女のことホンマは好きちゃうんやったら,その子とそんなんしたらあかん思うし,ホンマにその子のこと好きやったら,ほしたらその子の顔も好きやねんから,その子の顔好きやったら,顔中に水吹きかけるとかカスみたいなことやろて思わんやろ。そんなカスみたいなことがけっこうおもろいこともあるいうんが,ホンマかなんわ。カスみたいなことあんませんとこ思てても,ホンマに好きなもんはグチャグチャにせんとこ思てても,女のほうが台無しにしてまうことあんねん。二,三年前,おれよりカスの女おったわ。ううわあっ,そいつどんだけカスやったか。けど,しばらくは,おれらカスみたいにしてて,おもろかってん。セックスてどうなってんのか,おれよう分からんわ。おれの立ち位置が分からんねん。おれ,セックスのルール,自分で決めてんねんけど,すぐ破ってまうねん。去年,ケツからぶりぶりて出したろ思た女と,もう付きあうの止めよて決めてんけど,それ決めた同じ週に破ってもうたわ──同じ週ちゃう,それ決めた夜のうちにやわ,ホンマ。ほんでアン・ルイーズ・シャーマンいうすんごいパチもんの女と一晩中ペッティングしてん。セックスって,よう分からんわ。ホンマ分からんねん。
おれ,そこ立ってて,いまジェーンに電話したらどうなんねやろて考えてん──おばさんに電話していつ家帰ってくるか訊くんやのうて,ジェーン行ってるB.M.に長距離電話かけたらどうなんねやろ,て。生徒に夜遅う電話したらあかんねんけど,どうなるか想像してみてん。電話出たひとに,ジェーンの叔父ですけどて,おれ言うねん。ジェーンの叔母が交通事故で死んだんで,ジェーンにいますぐ話したいんです言うねん。もしやってみたら,うまいこといった思うわ。けど,そんな気分ちゃうかってん。そんな気分ちゃうかったら,そんなことちゃんとでけへんやろ。
しばらくして,おれ椅子座って煙草二本ほど吸うてん。かなりスケベエな気分なってたわ。認めるわ。ほんで急に思いだして,財布出して,夏にパーティーで会うたやつ,プリンストン行ってるやつくれた住所探してん。やっと見つけたら,財布んなかでヘンな色なっとったけど,なんとか読めたわ。だれにでもやらしてくれるわけちゃうけど,時々やったらかめへんいう女の住所やってん。そいつ,その女プリンストンのダンス・パーティー連れてったら,追いだされかけた言うとったわ。バーレスクでストリッパーかなんかやっててんて。とにかく,おれ電話んとこ行って,電話してん。名前はフェース・キャヴェンディッシュ,ブロードウェー六十五丁目のスタンフォード・アームズ・ホテルいうとこ住んどってん。ボロいとこやろ,どうせ。
しばらく留守かなんかかな思てん。だれも出えへんかったから。そしたら,やっとだれか出てん。
「もしもし」おれ言うてん。年齢とかばれんように,めちゃくちゃ低い声で。おれ,もともと声低いねんけど。
「もしもし」その女の声聞こえてん。愛想のかけらもなかったわ。
「フェース・キャヴェンディッシュさんですか」
「だれ」そいつ言うてん。「こんな時間に気狂てんで,あんた」
おれ,ちょっと怖なってん。「まあ時間がかなり遅いのは分かってるんですけど」おれ,めちゃくちゃ大人っぽい声で言うてん。「まことに恐縮ですけど,ぜひいちどお目にかかりたいんです」めちゃめちゃ丁寧に言うてん。ホンマに。
「あんた,だれやねん」
「ええ,わたしのことはご存じないと思いますけど,エディー・バーゼルの友人です。バーゼルから聞きました。ニュー・ヨーク行くことあったらキャヴェンディッシュさんとカクテル飲みに行ったらええで,て」
「だれやて。だれの友だち」ううわあっ,電話のむこうに虎おるみたいやったわ。アホみたいに吠える寸前の虎やったわ。
「エドマンド・バーゼル。エディー・バーゼルです」おれ言うてん。そいつの名前,エドマンドかエドワードか覚えてなかってんけど。アホみたいなパーティーで一回会うただけやから。
「そんな名前のひと知らんわ。あんた,こんな時間にうちのこと叩きおこしといて──」
「ほら,エディー・バーゼルですやん。ほら,プリンストンの」おれ言うてん。
その女,必死で名前思いだそてしてるみたいやったわ。
「バーゼル,バーゼル... プリンストン... プリンストン大学か?」
「そうです」おれ言うてん。
「あんた,プリンストン大学なん?」
「まあ,だいたい」
「そらまた... エディーは元気にしてる?」その女,言いよってん。「けど,ひとに電話かけるんにはヘンな時間やで。ホンマ」
「元気にしてますよ。キャヴェンディッシュさんによろしゅう言うてました」
「あ,そう,ありがとう。うちからも,よろしゅう言うといて」その女,言いよってん。「気持ちのええひとや。あのひと,いまなにしてんのん?」その女,急にめちゃめちゃ親しげに言いよんねん。
「まあ,ご存じのとおり,あいかわらずです」おれ言うてん。そいついまなにやってるて,なんでおれ知ってんねん。そいつ自体のこともほとんど知らんのに。まだプリンストンおんのかどうかも知らんちゅうねん。「ところで」おれ言うてん。「どっかでお会いしてカクテル飲みに行くとか,どうですか」
「もしかして,いま何時か分かってはりますか」その女,言いよってん。「それより,お名前なんていわはりますの」急に言葉ちゃんとしよってん。「お声から察するに,お若いかたですか」
おれ,笑てん。「若いやなんて,お世辞がお上手ですな」おれ言うてん──めちゃめちゃ丁寧に。「ホールデン・コールフィールドと申します」偽名使てもよかってんけど,思いつけへんかってん。
「あんな,コーフルさん,うち,夜更けてからひとに会う約束してませんねん。仕事あんねんから」
「明日,日曜ですやん」おれ言うてん。
「とにかく,美容のために寝なあきませんねん。それ分からはるでしょ」
「カクテル一杯ぐらい飲めるか思たんですよ。まだそんな夜遅ないし」
「まあ,あんたはええひとやわ」その女,言うてん。「どっから電話してはんのん。いま,どこにいてはんの」
「おれ? いま電話ボックス」
「ああ,そう」その女,言うてん。ほんで,しばらく黙っとってん。「またいつかかならずお会いしましょ,コーフルさん。声聞いてたら会いたなったわ。すごい会いたなる声してはるわ。けど,今日はもう遅い」
「なんなら,そっちまで行きましょか」
「まあ,いつもやったら,すぐ来て言うんやけど。いつもやったら,うち来てもろてカクテルでもお出ししたいとこやねんけど,いまルームメートが病気ですねん。今夜ずっと横になってたのに寝られんと,さっきようやく眠りについたとこですわ。そういうことなんです」
「それはお大事に」
「どこ泊まってはんの。明日やったらカクテル飲みに行けるかもしれませんわ」
「明日はあかんねん」おれ言うてん。「今夜しかあかんかってん」おれアホやったわ。そんなん言わんといたらよかったわ。
「ああ,そらホンマごめんなさい」
「ほなエディーによろしゅう言うとくわ」
「よろしゅう。ニュー・ヨーク楽しんでください。ええとこやから」
「知ってる。ありがとう。おやすみ」おれ言うてん。ほんで電話切ってん。
ううわあっ,ホンマ失敗やったわ。カクテルぐらい約束しといたらよかったわ。
10
まだけっこう時間早かってん。何時やったかはっきり分からんけど,遅すぎいうことなかったわ。おれ,眠たないのにベッド入んの嫌やねん。せやから,スーツケース開けて,きれいなシャツ出して,バスルームで顔洗て着替えてん。なにするつもりて,下の階行って,ラヴェンダー・ルームでなにやってるか見に行こ思て。ホテルに,ラヴェンダー・ルームいうナイト・クラブあってん。
けど,シャツ着替えてるとき,もうちょっとでアホみたいに妹のフィービーに電話しそうなったわ。電話で話したかってん。だれかまともな人間と。けど,結局せえへんかってん。妹まだ小さいから起きてへんかったやろし,電話の近くおるかどうか分からんかったし。もし親出たら電話切ろかな思てんけど,たぶんそれもあかんねん。おれてばれてまうねん。おかん,いっつもおれやて分かんねん。超能力者やで。けど,フィービーとしばらくしょうもない話したかったわ。
いっかいフィービーに会うてほしいわ。あんな,かわいい,かしこい子,人生で見たことない思うで。ホンマ,かしこいねん。学校通うようなってから,全部Aやねん。実際,うちの一家で頭悪いの,おれだけやねん。兄貴のD.B.作家とかやってるし,前に話した,死んだ弟のアリー天才やってん。ホンマおれだけ頭悪いねん。けど,フィービーに会うたらええ思うわ。こんな感じの赤毛やねん,ちょっとアリーみたいな。ほんで夏は髪めちゃくちゃ短いねん。夏は,髪の毛,両耳の後ろでくくってんねん。耳,小さいし,かわいいねん。けど,冬はけっこう長いねん。おかんが,編んだりほどいたりしよんねん。けど,ホンマ感じええねん。まだ十歳やねんけど。けっこうガリガリやねんけど,おれみたいに。けどええ感じのガリガリやねん。ローラー・スケート似合う感じの。おれ,いっかい,フィービー五番街渡って公園行くん窓から見てたことあんねんけど,それやねん,ローラー・スケート似合うガリガリやねん。もし会うたら好きなる思うわ。フィービー,なに言うても,なんの話かちゃんと分かってんねん。どこ連れてってもええねん。たとえば,カスみたいな映画連れてったら,フィービー,それカスみたいな映画て分かんねん。けっこうええ映画連れてったら,けっこうええ映画て分かんねん。D.B.とおれ,『パン屋の妻』いうフランス映画連れてったことあんねんけど,レミュの出てるやつ,あれ,フィービー,びびっとったわ。けど,フィービーいっちゃん好きなん,『三十九夜』やねん,ロバート・ドーナット出てるやつ。フィービー,そのアホみたいな映画,暗記しとんねん,おれ十回ぐらい連れてったから。たとえば,ドーナット,警察から逃げてスコットランドの農家辿りついたとき,フィービー言いよんねん──スコットランドのおっさん言うんと同時に──「そのニシン食えっか」て。フィービー,台詞全部覚えとおんねん。ほんで映画の教授,ホンマはドイツのスパイやねんけど,まんなかの関節んとこちょっと無くなった小指立ててロバート・ドーナットに見せるとき,フィービーそれ先にやりよんねん──暗いなか,おれの顔のまえに小指立ててきよんねん。それ上手いねん。好きなる思うわ。問題は,ときどき愛情がありすぎるとこやな。気持ち溢れてきたら抑えられへんようなんねん,子どもにしては。あと,いっつも本書いてんねん。ぜんぜん完成せえへんねんけど。その本みんなヘーゼル・ウェザーフィールドいう子の話やねん──フィービー「ヘーズル」て書いてんねんけど。ヘーズル・ウェザーフィールドて少女探偵やねん。たぶん孤児やねんけど,いっつも子分みたいな男出てくんねん。その男て,いっつも「二十歳ぐらいの,背の高い魅力的な紳士」やねん。めちゃくちゃびびるわ。フィービー,ホンマ,会うたら好きなんで。めちゃくちゃ小さいときから頭良かってん。めちゃくちゃ小さかったとき,おれとアリーでフィービーよう公園連れてってん,日曜とか。アリーこんなヨット持っとって日曜によう遊んどったから,いっしょにフィービーよう連れてってん。よう白い手袋しとったわ。ほんで,おれらのあいだ立って歩きよんねん,レディーみたいに。ほんで,アリーとおれ,なんか話してたら,フィービーじっとそれ聞いとおんねん。おんの忘れてまうこともあったわ,小さい子どもやったから。せやけど,わたしいてるで言うてきよんねん。いっつも話入ってきよんねん。アリーかおれ突いて,「だれが。だれがそう言うたん。ボビー,それか女のひと?」とか言うてきよんねん。だれ言うた言うたったら,「分かった」言うて,また話ずっと聞いとおんねん。アリーもびびってたわ。アリーも,フィービーのこと好きやってん。もういま十歳やから,そんな小さい子どもちゃうけど,せやけど,いまでもみんなびびるわ──まともな人間やったら,みんな。
とにかく,フィービーていつでも電話したなるやつやねん。けど,親電話出て,おれニュー・ヨークおってペンシー退学なったとかばれんの嫌やってん。せやからおれ,シャツ着てん。ほんで仕度して,エレヴェーター乗って,ロビーのようす見に行ってん。
ポン引きみたいなやつら二,三人,売春婦っぽい金髪二,三人おったけど,それ以外ロビーだれもおれへんかってん。けど,ラヴェンダー・ルームでバンド演奏してんの聞こえたから,おれ入ってってん。あんまり混んでへんかったのに,カスみたいな席案内しよんねん──ずっと後ろのほうの。ヘッド・ウェーターの鼻のしたで一ドルひらひらさせたらよかったわ。ううわあっ,ニュー・ヨークはホンマ,カネがもの言うねん──嘘ちゃうで。
バンド腐っとったわ。バディー・シンガーのバンドやってん。めちゃくちゃ金管鳴ってたけど,ええ金管ちゃうねん──パチもんやったわ。せやし,そこ,おれぐらいの年齢のやつ,ほとんどおれへんかってん。だれもおれへんかってん,ホンマ。ほとんど年寄りで,贅沢してんの見せびらかしたがってるやつらで,女連れてきとおんねん。おれのすぐ隣のテーブルはちゃうかってんけど。おれのすぐ隣のテーブル,三十ぐらいの女三人座っとってん。三人ともすごいブスで,見ただけでホンマ,ニュー・ヨークの人間ちゃうて分かる帽子被っとってんけど,そのうちひとりだけ,金髪の女そんな悪なかってん。ちょっときれいやってん,その金髪。ほんでちょっと目線送っとったら,ウェーター注文取りに来てん。スコッチのソーダ割り,かきまぜんと──めちゃめちゃ早口で言うてん。そこで口ごもったら,二十一歳未満て思われて酒出してもらわれへんやん。けど,結局うまいこといけへんかったわ。「恐れいります」ウェーター言いよってん。「お客様のお年齢が分かるもの,なにかお持ちやございませんでしょうか。運転免許証などございましたら結構でございますが」
おれ,ウェーターのこと,めちゃくちゃ冷たい目で睨んだってん。おれのこと侮辱しよったな,みたいな顔で。ほんで言うてん。「わたしが二十一歳未満に見えますか」
「申しわけございませんが,私ども──」
「分かった分かった」おれ言うてん。そのあとの話,想像ついたから。「ほなコーラ持ってきて」ウェーター行きかけよったから,おれ後ろから言うてん。「それラムかなんか入れてくれへんかなあ」感じええように頼んでんで。「こんなとこで素面で座ってられんわ。ラムかなんか入れてくれへん?」
「申しわけございません...」ウェーター,それだけ言うて行ってまいよってん。おれもう呼びとめへんかってん。あいつら,未成年に酒出したらクビなるからな。おれアホみたいに未成年やから。
おれ,ほんでまた,隣のテーブルの三魔女に目で合図してん。金髪狙とってんけど,ほかのふたりにも目くばせしてん。飢えとったからや思うわ。けど,露骨にやったんちゃうで。三人みんなのことこうやって静かに見てただけやねん。ほしたら,そいつら三人とも,おれが見てんの見てアホみたいにクスクス笑いよんねん。おれ若いから,ひとりずつに目線送ってんの,おもろい思いよってんやろな。おれ,どないしょ思たわ──なんか,おれがそいつらに結婚してください言うたんちゃうかとか思われるやん。クスクス笑とおるから,おれ,ギー睨みつけたろか思けど,おれそんときホンマ踊りたかってん。おれダンス好きやねん。時々踊りたなんねん。そんときがそうやってん。せやからおれ,さっと前乗りだして言うてん。「どなたか踊りませんか」下品に言うてへんで,実際めちゃくちゃ丁寧に言うてん。けどムカつくわ,そいつら,うけとおんねん。ほんでまたクスクス笑いよってん。マジで。あいつら三人ともホンマ,アホやってん。「なあ」おれ言うてん。「ひとりずつ踊ろうや。どう,ええやろ,なあ」おれホンマ踊りたかってん。
とうとう金髪踊るつもりなって立ちよってん。おれホンマに話しかけとったん,そいつやったからや思うわ。ほんで,ふたりでダンス・フロア行ってん。あとのふたりの女,おれらダンス・フロア行ったとき,発作起こしたみたいに笑とったわ。あんなやつらのひとりでも相手したったん,おれたしかにめちゃくちゃ飢えてた思うわ。
けど,あえてそうしてよかったわ。その金髪,踊れてん。それまでいっしょに踊ったなかで,いっちゃん上手いほうやってん。マジで。めちゃくちゃアホな女でも,ダンス・フロア出たらホンマすごいやつおんねん。ホンマに頭ええ子連れてったら,ダンス・フロアで半分ぐらい男のことリードしよて思いよんねん。それかカスみたいに下手くそでテーブルでいっしょに酒飲んでるほうがええわ,いうことなんねん。
「ホンマ,ダンス上手いですね」おれ,金髪に言うてん。「プロなったらええのに。ホンマに。おれいっかいプロと踊ったことあるけど,その二倍上手いわ。マーコとミランダって聞いたことある?」
「なに?」女,言うてん。おれの言うこと聞いてへんねん。ずっと,まわり見とおんねん。
「マーコとミランダて,名前聞いたことありますか」
「知らん。聞いたことない。知らん」
「ダンサーやねん。ミランダいうダンサーおんねんけど,そんなすごないねん。そらやるべきことは全部やるけど,とにかくそんなすごないねん。女がホンマすごいダンス上手いて分かんの,どんなときか知ってる?」
「なに,言いよるん」女,言いよってん。やっぱり,おれの言うこと聞いてへんねん。気持ちあちこち行てもうてんねん。
「女がホンマすごいダンス上手いて分かんの,どんなときか知ってますか」
「はあ」
「あんな──男が女の背中にこうやって手置くやろ,ほんでその手のしたになんもない思たら──ケツも脚も足の裏もない思たら──その子ホンマ,ダンス上手いねん」
けど,その女,おれの話聞いてへんねん。せやから,しばらく無視したってん。踊ってただけ。けど,そのアホ女,どんだけ踊りよったか。バディー・シンガーとくっさいバンドが「ジャスト・ワン・オヴ・ゾーズ・シングズ」やっとったけど,さすがに,あいつらが寄ってたかっても,あれええ曲やったわ。気持ち高まんねん。踊ってるとき,おれあんま目立つことせえへんねん──ダンス・フロアで,ほら見たかみたいな踊りいっぱいするやつ,おれ嫌いやねん──けど,おれ,その女くるくる回したってん。ほしたら,付いてきよんねん。女も踊りに集中してんのか思てたら,急にめちゃくちゃもっさいこと言いよってん。「うちとあの子ら,昨日の夜,ピーター・ローレ見たんよ」女,言いよってん。「映画俳優の。ひとりじゃった。新聞買いよったんじゃ。かっこええのう」
「そら運良かったな」おれ言うてん。「ホンマ運ええわ。分かってる?」女,ホンマ,アホやってん。けど,踊り上手いねん。せやから,おれ,そいつのでこのてっぺんにキスとかすんの我慢でけへんかってん──分かるやろ──そこ。ほしたら,女,機嫌悪なりよってん。
「ちょっと,なにしよるんね」
「なんもしてへんやん。分からん。ホンマ踊り上手いなあ」おれ言うてん。「おれ,いま四年生の妹おんねん。その妹と同じぐらい上手いわ。妹,いま生きてる人間も死んだ人間も全員含めて,そんなかでいっちゃん踊り上手いねん」
「そげんものの言いかたせんほうがええ思うよ,失礼じゃけど」
ううわあっ,なんちゅうレディーや。女王様気取りやで,ムカつくわ。
「どっから来たん」おれ訊いてん。
けど,女,答えよれへんねん。ピーター・ローレ来えへんかどうか探すのん忙しかったんや思うわ。
「どっから来たん」おれ,また訊いてん。
「なに?」女,言いよってん。
「どっから来たん。言いたなかったら言わんでええで。無理してまで教えてほしいわけちゃうから」
「ワシントン州シアトル」女,言いよってん。好意ふりしぼってくれよったわ。
「こうやって会話してんの楽しいわ」おれ言うてん。「分かってる?」
「なに?」
おれ,もう放っといてん。どっちにしても,女,返事でけへんやろ。「こんど曲早なったら,ジルバやってめえへん? パチもんのジルバやのうて,ジャンプとかせんと──ええ感じに,気楽に。曲早なったら,みんな席着いて,残んのん年寄りとデブだけやから,かなり場所空くねん。かめへん?」
「みやすいわ」女,言いよってん。「ねえ,ところで,あんた,いくつね」
こら困ったわ。「うわ,ばれてもた」おれ言うてん。「そら,おれは十二歳や。年齢にしてはでかいねん」
「さっきも言うたじゃろ。そげん言いかた,うち好かん」女,言いよってん。「そげんことばっか言いよるんじゃったら,うち,あの子らと座っとるけん」
おれ,きちがいみたいに女に謝ってん。早い曲始まったから,女,ジルバ踊りよってん,おれといっしょに。すごいええ感じやったわ,力まんと。パチもんちゃうかったわ。ホンマ上手かったわ。おれ,触ってるだけやったもん。そいつ,くるっと回ったら,ケツくいっとしよんねん。やられたわ。ホンマ,席戻るごろ,おれもう半分ホレとったわ。女てそうやねん。なんかかわいいことしたら,見た目たいしたことのうても,アホみたいなやつでも,半分ホレてまうねん。ほしたら,自分の立ち位置分からんようなんねん。女てムカつくわ,ホンマ,頭おかしなんで。ホンマ。
その女,おれのこと,自分らのテーブル来てて誘いよれへんかってん──たぶんいちばんの理由は,それが礼儀やて知らんかったからや思うわ──けど,おれ,そっちのテーブル座ったってん。おれ踊った女,バーニスなんとか──クラブズかクレブズか。あとのブスふたりは,マーティーとラヴァーン。おれ,ジム・スティールいいます言うてん。たいした意味なしに。ほんで,ちょっと頭ええ会話でもしよかな思てんけど,たいがい無理やったわ。そいつら喋らそ思たら,腕捩じあげなあかんねんもん。三人のうち,だれがいっちゃんアホやったかも分からんわ。三人ともずっとそこら中アホみたいにきょろきょろ見とおんねん。いつアホみたいに映画スターの一行来るかわからん,みたいに。そいつら,映画スター,ニュー・ヨークおるとき,いっつもラヴェンダー・ルームとか来る思とおんねん,ストーク・クラブとかエル・モロッコやのうて。とにかく,そいつらシアトルでなんの仕事してんのか訊くだけで三十分ぐらいかかってん。三人とも,いっしょの保険会社で働いててん。仕事好き,とか訊いてんけど,あいつらアホやから頭ええ返事とかでけへんねん。おれ,ブスのふたり,マーティーとラヴァーンて姉妹ちゃうかな思てんけど,それ訊いたら,ふたりとも怒っとったわ。どっちも相手に似てるて思われたなかってんやろし,それはどっちも悪ないわ。けど,おもろかったわ,あれ。
おれ,三人と踊ってん──その三人全員と──ひとり一回ずつ。ブスのうちラヴァーンのほうは踊りあんま下手ちゃうかったけど,もうひとりのマーティー壊滅的やってん。ダンス・フロアでおれ,自由の女神引きずってるんちゃうか思たもん。その女引きずりまわしてるとき,おもろいことないかな思て,いまゲーリー・クーパーおったで,映画スターの,フロアの向こうに,言うてみてん。
「どこね」女,言いよってん。めちゃくちゃ興奮しとったわ。「どこね」
「ああ,いま行ってもた。ちょうどいま出てったわ。おれ言うたとき,すぐ見たらよかったのに」
その女,踊りそっちのけで,みんなの頭越しにゲーリー・クーパー見えへんか探しだしよってん。「うわ,もう殺して」女,言いよってん。悲痛にさせてもてん──ホンマに。おちょくってめちゃめちゃ悪かった思たわ。おちょくられて当然でも,おちょくったらあかんやつておんねん。
けど,そのあと,めちゃくちゃおもろかってん。テーブル戻ったとき,マーティー,あとのふたりに,いまゲーリー・クーパー出ていった言いよってん。ううわあっ,ラヴァーンとバーニス,それ聞いてもうちょっとで自殺するとこやったわ。ふたりとも上ずって,ゲーリー・クーパー見たんねてマーティーに訊きよってん。ほしたらマーティー,ちょっとだけ見えた言いよってん。めちゃくちゃびびったわ。
バーそろそろ閉める準備しだしたんで,店閉まるまえに,おれ,そいつらにひとり二杯ずつ酒頼んで,自分のぶんコーラ二杯注文してん。テーブル,アホみたいにグラスだらけでごじゃごじゃやったわ。ブスのラヴァーン,おれコーラしか飲んでないのん,ずっと笑とおんねん。驚くべきユーモアの持ちぬしやわ。そいつとマーティー,トム・コリンズ飲んどおんねんで──十二月のさなかに。アホかいうねん。それよりええ酒知らんねん。金髪のバーニス,バーボンの水割り飲んどったけど,ホンマごくごく飲んどったわ。そいつら,ずっと映画スター探しとおんねん。ほとんど喋りよれへんねん──その三人のあいだでも。そんなかでマーティーがいっちゃん喋ったかな。めちゃくちゃおもんないことばっかり言うとったわ。ケツのこと「女の子の部屋」言うたり,バディー・シンガーのバンドの頼んないよれよれのクラリネット奏者,立ちあがって二回ほどくっさい即興しよったとき,その女,ホンマにすごい思たみたいやねん。その女,クラリネットのこと「リコリス・スティック」言うとったわ。どんだけパチもんやねん。もうひとりのブスのラヴァーン,自分のこと,おもろいこと言える思とったわ。ずっとおれに,お父さんに電話して,いまなにしてるか訊いて,言うてきよんねん。お父さん,だれかと付きあいよるんね,とか。四回も同じこと言いよんねん──めちゃくちゃおもろいわ。金髪のバーニス,あんまなんも言えへんかったわ。おれがなに訊いても,「なに?」言いよんねん。そんなん続いたらムカつくで。
そいつら,飲むだけ飲んだら,急に立ちあがって,もう寝なあかん言いよってん。アホみたいにレーディオ・シティー・ミュージック・ホールで昼のショー見るから,早よ起きなあかん,て。もうちょっとおってえや言うてみてんけど,あかんかってん。せやから,ほなな,言うて,いつかシアトル会いに行くわ,もし行くことあったら,言うてんけど,それはないやろな。シアトル行っても,会いには行けへんわ。
煙草とか全部あわせて,勘定十三ドルぐらいやってん。あいつら,せめて,おれ来るまでに自分らで飲んでた分だけでも払います言わなあかんやろ──そら当然,おれ払います言うねんけど,あいつら,払いますて言うだけは言わなあかんやろ。けど,そんなんもう気になれへんかったわ。あいつら,もの知らんねん。ほんで,あんな悲しい,どこでも流行ってない帽子とか被っとおんねん。せやし,レーディオ・シティー・ミュージック・ホールの昼のショー見るから早よ起きるとか聞いて,悲しなったわ。もしだれか,ヘンな帽子被った女が,たとえば──ワシントン州シアトルから,くそムカつくわ──はるばるニュー・ヨークまで来て,結局レーディオ・シティー・ミュージック・ホールの朝一のショー見るのに早よ起きるとかしたら,そんなんおれ,すごい悲しいし耐えられへんわ。そんな話聞けへんかったら,おれ三人に酒百杯奢ってもよかったのに。
その三人帰ったあと,おれもすぐラヴェンダー・ルーム出てん。どうせもう閉店しかけとったし,バンドの演奏けっこう前に終わっとったし,そもそもそんなとこ,だれかいっしょに踊るやつおらな,あんまおりたないとこやん。それか,ウェーターが,コーラやのうて,ホンマの酒出してくれるとかやないと。すくなくとも酒飲めて酔えるとこやないと,長いこと座ってられるナイト・クラブなんか世界中にない思うで。それか,ホンマにいかれてまうぐらいの女といっしょやないと。
11
ロビー戻る途中,急にまたジェーン・ギャラガーのこと頭浮かんでん。いっかい浮かんだら,自分で抑えられへんねん。おれ,ロビーのゲエ吐きそうな椅子座って,ジェーンとストラドレーター,アホみたいにエド・バンキーの車座ってんの想像してん。絶対ストラドレーターやってへんておれアホみたいにはっきり思とったけど──おれ,ジェーンのことよう知ってるから──ジェーンのこと頭から離れへんかってん。おれジェーンのことよう知っとったから。ホンマ。チェッカー以外にも,スポーツなんでも好きやねん。おれら知りおうてから,夏のあいだ中,午前中いっしょにテニスして,昼からいっつもゴルフしとってん。おれホンマ,ジェーンのこと親密に知ってんねん。べつに肉体的とか,そういうんちゃうで──それはないねんけど──けど,おれらずっと会うとったから。べつにスケベエなことせんでも,女のこと分かることあんねん。
なんで知りおうたかいうたら,ジェーンとこで飼うとったドーベルマン・ピンシャー,よううち来て,うちの芝生で小便しとってん。ほんで,おかん怒りよってん。おかん,ジェーンのお母さんに電話して,めちゃくちゃ文句言いよってん。おかん,そんなことやったら,めちゃくちゃねちねち文句言うことあんねん。ほしたら二,三日して,クラブで,プールの側でジェーンうつぶせで寝とったから,おれ声かけてん。隣の子いうんは知ってたけど,それまで喋ったことなかってん。おれ声かけたとき,ジェーン凍りついとったわ。ジェーンとこの犬どこで小便したとしてもおれはぜんぜんかめへんて納得してもらうまで,めちゃくちゃ時間かかったわ。なんやったらリヴィング・ルームで小便してもかめへんわ。とにかく,そっからジェーンと仲良なってん。その日の昼から,いっしょにゴルフしてん。覚えてるわ,あんときジェーン,ボール八個失くしよってん。八個やで。スウィングするときせめて目開けとかなあかんやろ,いうとこまで,めちゃくちゃ時間かかってん。けど,おれのおかげで,ジェーンかなり上手なったで。おれ,めちゃくちゃゴルフ上手いねん。いくつぐらいで回る言うても信じてもらわれへん思うわ。おれいっかいもうちょっとでニュース映画出るとこやってん。最後の最後でやっぱり止めてんけど。おれみたいに映画嫌いな人間がニュース映画出てたらおかしいやろ思て。
ジェーン,おもろい子やってん。厳密に言うたら美人やないねんけど,おれ,いかれてもうてん。ちょっと口でかいねん。喋ってるうちに熱中してきたら,口,五十ぐらいの方向向いてんねん。めちゃくちゃびびったわ。ほんで,いっつも口,ホンマ閉じてへんねん。いっつもちょっと開いてんねん,とくにゴルフのスタンス取るときとか,本読んでるときとか。いつも本ばっかり読んでんねん。それもめちゃくちゃええ本。詩とかいっぱい読んでんねん。おれ,家族以外でアリーの野球のミット見せたことあんの,ジェーンだけやねん。ミット中に詩書いたあるやつ。ジェーン,アリーに会うたことないねんけど。メーン州来たん,その夏が初めてやったから──その前はケープ・コッド行っててんて──けど,おれ,アリーのこといろいろ話してん。ジェーン,そういうの興味持ってくれてん。
うちのおかん,ジェーンのことあんま好きちゃうかったわ。ジェーンとおばさん,おかんに挨拶せえへんかったら,おかん無視された言うていっつも怒っとったわ。おかん,村でしょっちゅうジェーンとおばさんに会うたらしいねん。むこも,ラサール・コンヴァーティブル乗って買いもん来とったから。おかん,ジェーンのこと,あんまかわいい思てなかってん。おれ,思てたけど。おれ,あの子のあるがままが好きやってん,それだけやねん。
いっかい,昼過ぎやってんけど。おれ一回だけペッティングしそうなったことあってん,ジェーンと。土曜で,外めちゃくちゃ雨降っとって,おれ,ジェーンとこ行ってポーチおってん──網戸付いたポーチで,おれらチェッカーやっとってん。ジェーンが,王様,後ろの列から動かせへんから,おれときどきそれ揶揄うとってん。けど,あんま言うてへんで。ジェーンて,あんま揶揄いたなれへんねん。おれ,できるんやったら,手加減なしでとことん女おちょくんの好きやけど,それはおもろいからやねん。おれがいっちゃん好きな子は,ぜんぜんおちょくりたなれへんような子やねん。おちょくったほうが喜んでくれるんかな思うこともあるけど──実際あんねんけど──長いこと知りあいで,それまでいっかいもおちょくったことなかったら,そんなんなかなかでけへんやん。とにかく,ジェーンとおれ,あの日の昼過ぎペッティングしそうなってん。めちゃくちゃ雨降ってて,おれらポーチおって,急に,むこうのおばさんと結婚した酒飲みのおっさんポーチ出てきて,家に煙草あるかどうか知らんかてジェーンに訊きよってん。おれ,そのおっさんよう知らんかったけど,なんか欲しいもんあるとき以外あんま話するような感じちゃうかったわ。カスみたいな性格やわ。とにかく,煙草どこあるか知らんかておっさんに訊かれたとき,ジェーン返事せえへんかってん。せやから,おっさんもっかい訊きよってんけど,それでもジェーン返事せえへんかってん。ずっとボード見てて,目も上げへんねん。おっさん,やっと中入りよってん。ほんで,おれ,おっさん中入ってから,どうしたんてジェーンに訊いてん。ほしたら,ジェーン,おれにも返事せえへんねん。ゲームの次の手考えて集中してるふりしとおんねん。ほしたら急に,涙ぽたっとチェッカーボードに落ちてん。赤い枡んとこに──ううわあっ,いまでも目に浮かぶわ。ジェーン,それ指でこすってボードに染みこませよってん。なんでか分からんけど,おれ,めちゃくちゃ苦しなってん。せやから,おれ,ジェーンのほう行って,ポーチにあった揺り椅子にジェーン座らせて,おれ,その隣座ろ思てん──ほしたら膝のうえ座ってもてん。ほしたら,ジェーン,ホンマに泣きだして,その次覚えてるんは,おれジェーンのあちこちにキスしとってん──どこにでも──目とか鼻とかでことか眉毛とか。ほんで耳も──顔中全部,口以外の。口は,キスさせてくれへんかったわ。とにかくそれが,おれらがペッティングしかけた瞬間やってん。しばらくして,ジェーン立ちあがって,部屋入ってって,赤と白のこんなセーター着て出てきよってん。おれ,いかれてもうたわ。ほんで,ふたりでアホみたいに映画見に行ってん。その途中で,おれ,ジェーンに,いままでカダヒーさんに──その酒飲みのおっさんな──なんか嫌なことされそうなったことあんの,て訊いてみてん。ジェーン,まだ幼いけど,すごい体型ええから,カダヒーのおっさんやったらやりかねへん思てん。けど,ジェーン,そんなんない,言いよってん。なにが問題なんかぜんぜん分からんかったわ。なにが問題なんかホンマぜんぜん分からん子ておんねん。
おれらペッティングしてへんとか,じゃれてへんからいうて,ジェーンのこと氷みたいな女て思わんといてな。ちゃうねん。たとえば,おれらいっつも手つないでてん。たいしたことない思うやろけど,ジェーン,手つなぐだけですごいねん。たいていの女て,手つないだら,その手死んでるやろ,それかずっと動かしとかなあかん思てるか,飽きられたらあかんて心配してるみたいに。ジェーンちゃうかってん。おれら,アホな映画とか行って手つないだら,映画終わるまで手離せへんねん。手の位置変えるとか,手つないだままなんかするとか,そういうのなしに。ジェーンとやったら,自分の手に汗かいてるかどうかとか気になれへんねん。ジェーンと手つないどったら,幸せやねん。ホンマ幸せやねん。
もひとつ,いま思いだしたわ。いっかい映画見てるとき,おれ,ジェーンにいかれてもうてん。ニュース映像かなんかやってるとき,急におれの首のうしろに手回ってきてん。それ,ジェーンの手やってん。おもろかったわ。ジェーンてまだ若いやん。だれかの首のうしろに手載せる女て,たいがい二十五か三十ぐらいやし,相手は旦那とか自分の子どもやん──たとえば,おれがときどきフィービーにやるみたいに。けど,若い子がそんなんやってきたら,かわいすぎてびびるやん。
とにかく,おれ,ロビーのゲエみたいな色の椅子座って,そんなこと考えとってん。ジェーンのこと。ジェーン,エド・バンキーのアホみたいな車でストラドレーターとどっか行ったこと思いだしたら,そのたび,おれ気狂いそうなったわ。ジェーン,ストラドレーターに一塁も踏ませへんかったやろ思てたけど,それでも気狂いそうやったわ。いまでもその話あんましたないねん,マジで。
ロビー,もうほとんどだれもおれへんかってん。売春婦みたいなブロンドも,みんなおれへんかってん。ほしたら,おれ急にそっから出ていきたなってん。悲しなってん。せやし眠たなかってん。せやから,部屋上がってコート着てん。窓の外ちょっと見て,あの変態のやつらまだなんかやっとおるか思て見てんけど,灯り全部消えとったわ。おれまたエレヴェーター乗って,タクシー拾て,運転手に,アーニーズ行って言うてん。兄貴のD.B.がハリウッド行って売春やるようなるまえ,しょっちゅうそのアーニーズいう,グレニッチ・ヴィレッジのナイト・クラブ行っとってん。おれもときどき連れてってもうてん。主人のアーニーて,ピアノ弾く,でっかいデブの黒人やねん。けっこう嫌なやつで,すごい威張ってるか有名人とかやないと挨拶にも来よれへんねんけど,ホンマ,ピアノ上手いねん。実際,上手すぎて,パチもんに聞こえねん。なに言うてるか自分でも分からんけど,そうやねん。たしかに,おれ,アーニーのピアノ聞くの好きやねんけど,ときどきあのアホみたいなピアノ引っくりかえしたろか思うねん。威張ってるやつやないと挨拶にも来えへんようなやつの音してることあるからや思うわ。
12
そんとき乗ったタクシー,ホンマぼろぼろで,さっきだれかゲエ吐きよったみたいな臭いしとってん。夜遅なってからどっか行こ思たら,おれいっつもそんなゲエ出そうなタクシー乗ってまうねん。せやし,外しーんとしてて,ひとの気配のうて,土曜の夜やのに,ほとんどだれも歩いてへんかってん。ときどき,男と女おたがいの腰とかに手回して道渡っとったり,ちんぴらみたいなやつら集団で女連れてハイエナみたいに笑とったけど,あんなんなんもおもんないことで笑とったんや思うわ。ニュー・ヨークて,夜遅なってから道でだれか笑とったら怖いねん。何マイル離れてても聞こえんねん。どないしょて心配なるし,悲しなんで。おれずっと,家帰ってフィービーとちょっと話でけへんかなて考えとってん。けどしばらく乗ってるうちに,運転手とおれ,話しとってん。ホーウィッツいう運転手やったわ。その前に乗ったタクシーの運転手より,ずっとええやつやったわ。とにかく,この運転手やったらあの鴨のことなんか知ってんのちゃうか思てん。
「すいません,運転手さん」おれ言うてん。「セントラル・パークの池,通ったことあります? セントラル・パーク・サウスのとこの」
「なんですか」
「池。ちっこい池みたいな,あそこにある。鴨おるとこ。分かるでしょ」
「はい,なんですか」
「えーと,池で泳ぐ鴨,分かります? 春とかに。あの鴨,冬なったらどこ行くんか,もしかして知りませんか」
「だれがどこに行きますか」
「鴨。もしかしてなんか知りませんか。だれかトラックかなんかで来てどっか連れていくとか,鴨が自分らでどっか飛んでいく──南のほうへ,とか」
ホーウィッツ,わざわざおれのほう振りむいて,おれの顔見よってん。めちゃくちゃ気短いタイプのやつやったわ。悪いやつちゃうかってんけど。「なんでわたしがそんなことを知っていないといけませんか」そいつ,言いよってん。「なんでわたしがそんなアホらしいことを知っていないといけませんか」
「まあ,機嫌直してえな」おれ言うてん。そいつ,なんかに傷ついてるみたいやってん。
「だれの機嫌が悪いですか。だれの機嫌も悪くありません」
そいつそんなんでアホみたいに神経質なるんやったら,おれ喋んのん止めとこ思とってん。せやのに,そいつまた自分で言いだしよってん。またわざわざおれのほう向いて言いよってん。「魚はどこにも行きません。魚はずっとそこにいます。アホみたいに池のなかに」
「魚は──違う。魚は違う。鴨のこと言うてんねん」おれ言うてん。
「なにが違いますか。なにも違いません」ホーウィッツ言いよってん。なんかずっと傷ついてるみたいな口調やったわ。「魚のほうがきついです,冬は,鴨のほうより,アホンダラ。頭を使いなさい,アホンダラ」
おれ,一分ぐらい黙っとってん。ほんで言うてん。「分かった。ほしたら冬に魚はなにしてるんですか,あの小さい池がまるごと氷のかたまりなって,みんなが上でスケートとかしてるとき」
ホーウィッツ,また振りむきよってん。「魚はなにをしているは,どういう意味ですか」怒鳴ってきよってん。「魚はずっとそこにいます,アホンダラ」
「けど魚かて,氷ないふりはでけへんやん。氷は無視でけへんやん」
「だれが氷を無視しますか。だれも氷を無視しません!」ホーウィッツ言いよってん。アホみたいにカッカしとったから,街灯かなんかにタクシーぶつけよんのちゃうかて心配なったわ。「魚はアホみたいに氷のなかで生きています。それが魚の本性です,アホンダラ。冬のあいだずっと魚は氷のなかの一か所で凍っています」
「そうなん? ほしたら,なに食うてんのん。カチコチに凍ってるんやったら,餌探すん泳いでいかれへんやん」
「体があります,アホンダラ──なにが問題ですか。魚の体は栄養を取りいれます。アホみたいに氷のなかにある水草やウンコから。魚は毛穴をずっと開けています。それが魚の本性です,アホンダラ。わたしが言っていることが分かりますか」ほんで,また振りかえって,おれの顔見よってん。
「ああ」おれ言うてん。もう放っといてん。タクシー,アホみたいにどっかぶつけるんちゃうかて心配やったし。せやし,そいつめちゃくちゃ神経質なやつやから,議論する喜びいうもんがなかってん。「どっかで降りて,いっしょに一杯やっていきましょか」おれ言うてん。
けど,返事せえへんかってん。いま思たら,ずっと考えとおった思うわ。ほんで,もっかい訊いてみてん。運転手,かなりええやつやったわ。かなり,おもろかったわ。
「一杯やってる暇なんかない」そいつ言いよってん。「ぼんぼん,いくつ? いま時分なんで家で寝てへんの?」
「眠たないねん」
アーニーズの前着いて運賃払たら,ホーウィッツまた魚のこと言うてきよってん。たぶんずっと考えとったんやわ。「あんな」ホーウィッツ言いよってん。「かりに,ぼんぼんが魚やとしょ。ほた,母なる自然は,ぼんぼん守ってくれるわ。せやろ。ほな,魚かて,冬なったからて死なんわ」
「そらそうやけど──」
「せやろ,死なんわ」ホーウィッツ言うて,地獄から飛びたつ蝙蝠みたいに発進していきよってん。あいつ,おれがいままで見たなかで,いっちゃん神経質な人間やったわ。なに言うても傷つきよんねん。
けっこう遅かったのに,アーニーズ満杯やってん。だいたいプレップ・スクールのアホか大学のアホ来とったわ。世界中のたいがいの学校のクリスマス休みて,おれ行ってる学校よりアホみたいに早よ始まんねん。もうちょっとでコートも預けられへんぐらい混んどってん。せやのにめちゃくちゃ静かやってん,ちょうどアーニー,ピアノ弾いとったから。アーニー,ピアノの前座ったら,なんか神聖なもんみたいにみんな見とおんねん,ムカつくわ。それほどすごいやつ,だれもおらんて。おれのほか三組ぐらいテーブル案内してもらうん待ってるやつらおってんけど,そいつらみんな,アーニーの演奏見よ思て,ほかの客押しわけたり爪先で立ったりしとおんねん。アーニーのピアノの前,アホみたいなでっかい鏡置いたあって,でっかいスポットライト,アーニーに当たって,演奏してるときみんなに顔見えるようなっとってん。指は見えへんねん──あのでっかい顔だけやねん。かなんで。おれが店入ったとき歌とった曲なんやったかよう分からんけど,なんやったとしても,ホンマくっさい歌なってたわ。高い音符にいちいち,くっさい,これ見よがしの震え入れてきよるし,ケツからぶりぶりて出したなる飛び道具どんどん出してきよんねん。けど,歌終わったときの客見てほしかったわ。ゲエ吐きそうなんで。客,熱狂しとおんねん。あいつら,映画でおもんないことハイエナみたいに笑とおるやつらと,ホンマ同じアホやねん。もしおれピアニストか俳優かなんかで,あんなアホらがおれのことすごい言うんやったら,おれ絶対嫌やわ。おれやったら,あんなやつらに拍手してほしないわ。みんなが拍手する相手て,いっつも間違うてんねん。もしおれがピアノ弾くんやったら,アホみたいにクローゼットで弾くわ。とにかく,演奏終わって,みんな手ちぎれるぐらい拍手してたら,アーニー,椅子回して,パチもんの,うやうやしいお辞儀しよってん。ピアノ上手いだけちゃうんです,そもそも礼儀正しいんです,みたいに。そんなんめちゃくちゃパチもんやん──あんなんすごい嫌なやつやん。けど曲終わって,おれアーニーのこと気の毒なってん,ヘンな意味で。あんなんやったら,アーニー,どの日の演奏が良かったかもう自分で分からんようなってる思うわ。それ,全部が全部アーニーのせいちゃうねん。一部は,頭ちぎれるぐらい拍手しとったあのアホらのせいや思うわ──あいつら,なんかあったら,だれのことも台無しにしてまいよんねん。とにかくおれ,また悲しなって,カスみたいな気分なって,もうちょっとでアホみたいにコート取ってホテル帰ろか思てんけど,まだ早かったし,ずっとひとりでおんの嫌やってん。
やっと,くっさいテーブル案内されてん。壁際の,アホみたいに柱の陰なってなんも見えへんとこ。小さいテーブルやったから,隣のやつらいっかい立って通してくれへんかったら──そんなんだれもしよれへんねんけど──体ねじって椅子んとこまで行かなあかんねん。おれ,スコッチのソーダ割り注文してん。好きやねん,まあいっちゃん好きなんはフローズン・ダイキリやけど。アーニーズやったら,六歳ぐらいでも酒飲めんねん。店んなか暗いし,客がいくつとかだれも気にしてへんねん。客が麻薬中毒患者でもだれも気にせえへんねん。
おれのまわり,四方八方アホばっかりやってん。嘘ちゃうで。おれのすぐ左,ほとんど頭らへんに,もひとつ小さいテーブルあって,おもろい顔した男とおもろい顔した女おってん。おれと同じぐらいの年齢か,ちょっと上か。おもろかったわ。そいつら,はじめに頼んだミニマムの酒なるべく早よ飲まんように,めちゃくちゃ気つけとおんねん。おれ,しばらくそいつらの話聞いとってん。ほかにすることなかったから。男が女に,その日見たプロ・フットボールのこと話しとおんねん。試合のプレーひとつずつアホみたいに説明しとおんねん──嘘ちゃうで。そいつ,おれいままで話聞いたなかで,いっちゃんおもんないやつやったわ。女かてそんなアホみたいな試合,興味なかった思うけど,その女,男よりおもろい顔しとったから,その話聞いてなしゃあなかったんや思うわ。ホンマ,ブスの子,ようあんなん我慢してるわ。おれ,ときどき気の毒なんねん。あの子らのこと見てられへんことあんで,とくにアホな男フットボールの試合アホみたいにまるごと全部説明しとったりしたら。けど,右のテーブルの会話,もっとえげつなかってん。おれの右に,イェールのジョーみたいな恰好の男おってん。グレーのフランネルのスーツで,おかまみたいなタッターソールのヴェスト着とんねん。アイヴィー・リーグのやつらて,みんな同じような恰好しとんねん。おれのおとん,おれにイェールか,それかプリンストン行ってほしい思とおんねんけど,おれもし重症で死にかけてても,アイヴィー・リーグの大学なんかどっこも行きたないわ。とにかく,そのイェールのジョーみたいなやつ,すごい女連れとってん。ううわあっ,どんだけ美人やったか。けど,そいつら,なに話しとったか聞いてほしかったわ。まず,そいつらちょっと酔うとってん。男,テーブルのしたで女触っとおんねん,ほんで自分の寮でアスピリン一瓶呑んで自殺しかけたやつの話しとおんねん。女,ずっと言うとおんねん。「うわ,なんてこと... やめて,ねえ。お願いやから。あとでにしよ」ひとのこと触りながら,自殺しかけたやつの話してるて,想像してみ! まじびびったわ。
こんなアホんなかでひとりで座っとって,おれいっちゃんふつうの人間や思たわ。煙草吸うて酒飲んでるだけやってんもん。けど,なんかやったろ思て,ウェーター呼んで,アーニーと一杯やりたいんでいかがですかて訊いてきて言うてん。おれD.B.の弟やてちゃんと言うてな言うてん。けどウェーター,メッセージ書いた紙すら渡せへんかった思うわ。ああいうやつら,だれにもメッセージ渡せへんねん。
ほしたら急に女,こっち来よってん。「ホールデン・コールフィールドやん!」リリアン・シモンズいうやつやってん。兄貴のD.B.としばらく付きおうとってん。めちゃくちゃ乳でかいねん。
「こんばんは」おれ言うてん。おれ当然,立って挨拶しよ思てんけど,そんなとこで立ちあがんのひと苦労したわ。そいつ,ケツからまっすぐ火掻き棒入れてんのちゃうかみたいな海軍士官連れとってん。
「うわあ,会いたかったわあ!」リリアン・シモンズ,言いよってん。ホンマ,パチもんや。「お兄さん,元気?」ホンマに知りたいん,それだけやん。
「元気です。いまハリウッドにいてます」
「ハリウッドにー! 素敵やなあ! ほんで,ハリウッドでなにしてんの?」
「分かりません。なんか書いてます」おれ言うてん。なんか言うて,そいつに反論すんの,めんどくさかってん。兄貴がハリウッドおんのん,大事やて,そいつ思てた思うねん。だいたいみんなそう思うやん。そんなこと言うやつて,たいてい兄貴の短編読んだことないねん。そんなん,おれ気狂いそうなるわ。
「楽しみやなあ」リリアン,言いよってん。ほんで,おれのこと,海軍のやつに紹介しよってん。ブロップ中佐かなんかいうとったわ。そいつ,握手するとき相手の指四十本ぐらい骨折させなおかまや思われる思とおるやつやってん。そんな握手,おれ嫌や。「あんた,ひとりなん?」リリアン,訊いてきよってん。通路立って,アホみたいにだれも通られへんようにしとったわ。あれ,ほかのひと通られへんようにすんのん好きなんや思うわ。道開けてくれんのウェーター待っとったけど,あいつ気つきよれへんねん。おもろかったわ。ウェーター,そいつのこと気に入らんかったやろし,海軍のやつも,デートはしとったけど気に入ってなかった思うわ。ほんで,おれも気に入ってへんかってん。だれも気に入ってへんねん。ある意味,気の毒に思たらなあかんわ。「デートのお相手いてへんの?」そいつ,訊いてきよってん。おれ,ずっと立っとって,そいつ,おれに,どうぞ座ってて言いよれへんねん。何時間でも立たせたまんましよんねん。「この子,男前やろ」そいつ,海軍のやつに言いよってん。「ホールデン,あんた会うたびに男前なっていくなあ」海軍のやつ,こっち行こう,言いよってん。邪魔なってだれも通られへん言いよってん。「ホールデン,いっしょに来てえや」リリアン,言いよってん。「飲みもん持ってきて」
「ちょうどいま帰るとこやったんです」おれ言うてん。「ひとに会わなあきませんねん」そいつ,おれを取りこんどこうてしてただけや思うわ。ほんで,おれがD.B.にそいつの話したらええ思とってんやろ。
「ええ,なんでえ,そこそこくん。分かった。お兄ちゃんに会うたら,嫌いや言うといて」
ほんで向こう行ってまいよってん。海軍のやつとおれ,お会いできて楽しかったですて,おたがい言うてん。それ,いっつもびびるわ。おれ,「お会いできて楽しかったです」言う相手,いっつもぜんぜん楽しなかったやつばっかりやねん。けど,生きていこ思たら,そんなこと言わなあかんねん。
おれ,ひとに会わなあかん言うてもうたから,アホみたいに店出ていくしかなかってん。アーニーのいまいちの演奏もう一曲聞くまで店おるんも,でけへんようなってもてん。けどおれ,リリアン・シモンズとあの海軍のやつといっしょのテーブル座って,退屈で死にとなかってん。せやから店出てん。けど,コート返してもうたとき気狂いそうなったわ。あいつらなんでもめちゃくちゃにしてくれとおんねん。
13
おれホテルまでずっと歩いて戻ってん。四十一ブロックも。歩きとおて歩いたとかちゃうで。それよか,もうタクシー乗ったり降りたりすんの嫌やってん。エレヴェーターばっかり乗ってたら,飽きるときあるやん。あれといっしょで,タクシーばっかり乗っとったら飽きんねん。どんだけ遠いとこでも,高い階でも,急に歩こ思うことあんねん。おれ小さいとき,しょっちゅう,うちのアパートメント歩いて昇ったわ,十二階。
雪降ったとか,ぜんぜん分からんかってん。歩道にほとんど積もってなかったし。けど,めちゃくちゃ寒かったから,ポケットから赤いハンティング帽出して被ってん──見た目なんかどうでもよかってん。耳あても下したわ。手凍るぐらい冷たかったから,ペンシーでおれの手袋パクったやつ見つけといたらよかった思たわ。もし見つけてたとしても,あんまなんもせえへんかった思うけど。おれ,めちゃくちゃ根性ないねん。ひとに見せんようにしょう思てるけど,根性ないねん。たとえば,ペンシーでだれ手袋パクったか分かったとしたら,おれ,そいつの部屋行って,たぶん「なあ,手袋返してくれや」言う思うわ。ほしたら,たぶん,パクリ,なんも知りませんみたいな声で言いよるわ,「なんの手袋」ほしたら,おれクローゼット入っていって,どっかから手袋見つけたんねん。オーヴァーシューズのなかかどっかアホみたいに隠したあんねん。それ,そいつんとこ持ってって言うたんねん,「これ,おまえの手袋やよな」ほしたら,パクリ,めちゃくちゃパチもんの,なんも知りませんて顔で言うわ,「そんな手袋,生まれていっかいも見たことないわ。それ,おまえのんなん? ほな持ってって。おれ,そんなん要らんし」ほしたら,おれそこで五分ぐらいじっと立っといたんねん。アホみたいに手袋掴つかんだまま,けど,そいつの顎かどっか一発かまさなあかんいう気なる思うわ──顎の骨アホみたいに折ったろか,とか。けど,もしそんな気なっても,おれそんなんする根性ないわ。そこ立ってるだけやわ,怒ってるように見せて。ほんで,めちゃくちゃ偉そうに皮肉なこと言うて,そいつ怒らせるんちゃうかな──顎に一発かまさんと。とにかく,おれめちゃくちゃ偉そうに皮肉なこと言うたら,そいつたぶん立ちあがってこっち来て言いよるやろ,「どうしてん,コールフィールド。おまえ,おれのことパクリや思てんのんか」ほしたら,「そのとおりじゃ,われ,おまえ汚いパクリ野郎なんじゃボケ!」とか言わんと,おれたぶん,「おれに分かってるんは,おれの手袋がおまえのオーヴァーシューズのなかあったいうことだけや」言う思うわ。ほしたら,そいつ,おれが一発かますつもりないて分かって,たぶん言いよるわ,「なあ。話整理しょうや。おまえ,おれのことパクリや思てんのか」ほしたら,「だれも,だれのこともパクリ言うてへんわ。おれに分かってんのは,おれの手袋がおまえのオーヴァーシューズのなかあったいうことだけじゃ」て,おれ言うねん。そんなん何時間でも続けたんねん。けど結局,おれそいつに一発もかまさんと部屋出ていく思うわ。ほんでたぶん下の便所行って煙草くわえて鏡見て強そうな顔するわ。とにかくホテル戻るまで,おれずっとそんなこと考えとってん。根性ないて,おもんないわ。たぶんそれ,根性ないからだけちゃうねん。根性ないいうんもあるけど,おれ,手袋失くしてもあんまり気にせえへんいうんも,たぶんある思うねん。なんか失くしてもあんま気にせえへんとこ,おれの欠点やねん──おれ小さいとき,おかんそれでよう怒っとったわ。失くしたもん何日も探すやつおるやん。失くしたらそんな必死なるもんて,おれなんも持ってない思うわ。たぶん,せやから,根性ないだけちゃうねん。けど,そんなん言いわけなれへんけどな。ホンマ。ホンマは,ちょっとでも根性ないのはあかんねん。もしだれかの顎に一発かまさなあかんときは,ほんで自分がそうしたいときは,かまさなあかんねん。けど,それがなかなかでけへんねん。顎に一発かますよか,窓から突きおとすとか,斧で首刎ねるほうがまだええわ。おれ,殴りあいが嫌やねん。殴られること自体はまだええねん──殴られたいわけやないけど,当然──けど,殴りあいでいっちゃん怖いんは相手の顔やねん。おれ,相手の顔じっと見てんの耐えられへんねん。両方とも目隠しかなんかされてるんやったら,ええかもしれんけど。考えてみたら,根性ないいうてもちょっとヘンやけど,それでもやっぱり根性ないわ。嘘ちゃうわ。
手袋のこととか根性ないこととか考えとったら,おれだんだん悲しなってきて,歩いてるうち,どっかでひと休みして一杯飲んでこ思てん。アーニーズで三杯しか頼んでへんかったし,最後の一杯は全部飲まれへんかってん。おれ,なんぼでも飲めんねん。一晩中飲んでも顔出えへんねん,その気なったら。いっかいウートン高校で,レーモンド・ゴールドファーブいうやつとおれでスコッチ一パイント買うて土曜の夜に礼拝堂で飲んでん,そこやったらだれも見に来えへんから。そいつ,酒の臭いぷんぷんさせとおったけど,おれほとんど分からんかってん。気分鎮まって,はしゃいだりせえへんかったわ。寝るまえに吐いたけど,ホンマは吐かんでよかってん──ねんのため無理して吐いてん。
とにかく,ぼろいバーあったんで,ホテル戻るまえにそこ入ろ思たら,めちゃくちゃ酔うたふたり組出てきて,地下鉄どこですかて訊いてきよってん。そのひとりがめちゃくちゃキューバ人みたいなやつで,おれ道教えたってるあいだ,ずっとおれの顔に臭い息かけてきよんねん。結局おれ,そのアホみたいなバー入んのやめて,まっすぐホテル戻ってん。
ロビー,だれもおれへんかってん。葉巻五千万本ぐらい消した臭いしとったわ。ホンマ。眠たなかってんけど,カスみたいな気分やったわ。悲しかってん。死のかなて思いかけてん。
ほしたら急に,事件巻きこまれてん。
まずエレヴェーター乗ったら,係のやつ言うてきよってん。「お楽しみどないでっか,お兄さん。今夜もうお済み?」
「え,なんのこと」おれ言うてん。なんの話か分からんかってん。
「ちっこいかわいらしいの,今夜どない」
「おれが?」おれ言うてん。めちゃくちゃ間抜けな返事やけど,急にそんなこと訊かれたら,なに言うてええか分からんようなんで。
「大将,おいくつ」エレヴェーター係,言いよってん。
「なんで?」おれ言うてん。「二十二」
「なるほど。どない。どないしまひょ。一発五ドル,一晩十五ドル」そいつ,腕時計見よってん。「昼まで。一発五ドル。昼まで十五ドル」
「分かった」おれ言うてん。いつもやったらそんなんせえへんねんけど,おれ悲しすぎて,なんも考えたなかってん。それが問題やねん。めちゃくちゃ悲しかったら,もの考えられへんようなんねん。
「どっち。一発。昼まで。言うて」
「一発でええわ」
「了解。何号室」
おれ,鍵に付いてる,番号書いたある赤いやつ見てん。「1222」おれ言うてん。話乗ってもうたん,ちょっともう後悔しとったけど,もう話済んどってん。
「了解。女,行かせます。十五分ほどお待ち」そいつ扉開けて,おれ出てん。
「なあ,それ,かわいい子か」おれ訊いてん。「年増やめといてや」
「年増いてへん。まかしといて,大将」
「お金,だれに払うの」
「女」そいつ言いよってん。「お部屋へ,大将」そいつ,おれの顔のまんまえで扉閉めよってん。
おれ,部屋行って髪の毛水で梳いてんけど,クルーカットてちゃんと櫛とか入れられへんねん。ほんで,それまでいっぱい煙草吸うたりアーニーズでスコッチのソーダ割り飲んだりしとったから,息臭えへんか確かめてん。口のしたに手当てて,ぶう息吹いて臭い嗅いだら分かるやん。あんまり臭てないみたいやったけど,いちおう歯磨いてん。ほんで,またきれいなシャツに着替えてん。売春婦相手にそんなきれいな恰好せんでええんは分かってたけど,なんかしてたかってん。ちょっと緊張しとってん。けっこうスケベエな気分なってきてんけど,ちょっと緊張しとってん。おれ童貞やねん,マジで。いまも,ホンマに。童貞捨てれる場面めちゃくちゃいっぱいあってんけど,まだそこまで行ってへんねん。いっつも,なんか起こんねん。たとえば,女の家おったら,親いっつも予定外の時間に帰ってきよんねん──ていうか,帰ってくるんちゃうかいう気なんねん。それか,だれかの車の後ろの席おったとしたら,いっつも前の席でだれか──女が──後ろでなにしてんねんろてアホみたいに確かめよんねん。前の席の女て,いっつもほかのやつらなにしてんねんろて,こっち見よんねん。とにかく,いっつもなんか起こんねん。それでも,二回ぐらい,やりかけたことあんねん。一回は,ホンマもうちょっとやってん,覚えてるわ。けど,うまいこといけへんかってん──なんでかはもう覚えてないけど。問題は,女ともうちょっとでやるとこまで行ったら,女てたいてい──売春婦とかちゃうかったら──止めて,止めて,言いよるやん。問題は,ほしたらおれ止めてまうねん。たいていのやつ止めへんやろ。けどおれ,無視でけへんねん。そんなん,女がホンマに止めてほしがってんのか,めちゃくちゃ怖がってるだけなんか,そう言うといて男が止めへんかったら,なんかあったとき責任男のほう行くから責任取らんでええ思て言うてんのか,だれにも分からんやん。せやから,おれ,一応止めんねん。問題は,おれ女のこと気の毒なってまうねん。女て,たいがいアホやん。しばらくペッティングしとったら,ホンマ脳みそなくなっていくん見てたら分かんねん。女ホンマに燃えてるときは,脳みそなくなってんねん。分からん。あいつらが止めて言うから,おれ止めんねん。そのあと家まで送っていったとき,止めんといたらよかったていっつも思うねんけど,それでも一応止めてまうねん。
とにかく,またきれいなシャツに着替えてるとき,ある意味これ大チャンスやなあ思てん。いつかおれ結婚とかするかもしれんから,女が売春婦とかやったとしても,そいつで練習できるやん。おれときどきそういうの心配なんねん。いっかいウートン高校のとき,めちゃくちゃ頭ええ,礼儀正しい,スケベエなやつ出てくる本読んだことあんねん。ムッシュー・ブランシャールいうやつ,いまでも覚えてるわ。カスみたいな本やってんけど,そのブランシャールいうやつけっこうよかってん。リヴィエラにでっかい城かなんか持ってて,ヨーロッパの話やねん,ほんで時間空いたらいっつも棍棒で女いかせとおんねん。そいつホンマ遊び人やねんけど,女いかれてまうねん。なんかの場面で,そいつ,女の体はヴァイオリンみたいなもんや言うて,ちゃんと弾こ思たらすごい演奏家やないとあかん言いよんねん。パチもんの本やけど──それおれも分かってんねんけど──とにかくヴァイオリンがどうこういうの頭から離れへんかってん。それもあって,いつか結婚するかもしれんから,ちょっと練習みたいなことしときたかってん。コールフィールドと魔法のヴァイオリン,ううわあっ。そらパチもんやで,そら分かってんねんけど,全部が全部パチもんてわけでもないやん。そういうの上手いて悪いことちゃうやん。ホンマのこと言うと,おれ女といっしょにおるとき半分ぐらい,おれなにしたいねんやろていろいろ考えんねんけど,よう分からんねん,ムカつくわ。なに言うてるか分かる? たとえば,さっき言うてたセックスしかけた女おるやん。おれ,アホみたいに一時間ぐらいそいつのブラジャー外せへんかってん。ブラジャー外したとき,そいつ,おれの目に唾かけたろかて感じやったわ。
とにかくおれ,女来んの待って,部屋んなかうろうろ歩いとってん。かわいい子来るんちゃうかな思とったけど,あんまり気にしてへんかったわ。早よ済ませたかってん。ほしたらやっとノック聞こえて,おれドア開けに行ったとき,スーツケースにけつまずいて,そのうえこけて,アホみたいに膝割りかけてん。おれいっつもスーツケースにこけるとかで要らん時間かかんねん。
ドア開けたら売春婦立っとってん。ポロ・コート着て,帽子被ってへんかったわ。金髪ぽかったけど,あれ染めてた思うわ。けど年増ちゃうかってん。「はじめまして」おれ言うてん。ううわあっ,めちゃめちゃ礼儀正しかったわ。
「モーリスが言ってたひと?」そいつ訊いてん。あんまり愛想なさそうやったわ。
「それ,エレヴェーター係?」
「そうだけど」そいつ言いよってん。
「そうです。よかったらお入りください」おれ言うてん。おれ,だんだんその気なくなってきてん。ホンマに。
そいつ,部屋入ったらすぐコート脱いでベッド投げよってん。下に緑の服着とったわ。ほんで部屋の机に付いてる椅子に横向きに座って,靴の先ぴくぴく動かしよんねん。ほんで,脚組んで,また靴ぴくぴく動かしよんねん。めちゃくちゃ緊張しとったわ,売春婦にしては。ホンマ。そいつ,めちゃめちゃ若かったからや思うわ。おれぐらいの年齢やってん。おれ,でっかい椅子の,そいつの隣座って,煙草勧めてん。「わたし吸わないんで」そいつ言いよってん。ちっちゃいかわいい声しとったわ。あんま聞こえへんぐらい。ほんで,なんかあげようてしても礼言えへんねん。もの知らんねん。
「自己紹介させてもらいます。ぼくは,ジム・スティールいいます」
「時計してる?」そいつ言うてん。おれの名前なんかどうでもよかってん,当然やけど。「え,おいくつですか」
「ぼくですか。二十二です」
「嘘ばっかり」
おもろいこと言いよってん。ホンマの子どもみたいやん。売春婦とか,「嘘つけ」とか「アホ言うな」とか言う思てたら,「嘘ばっかり」て。
「自分はいくつなん」おれ訊いてん。
「そろそろ世のなかを分かんなきゃいけない年頃」そいつ言いよってん。ホンマひねったこと言うやつやったわ。「時計してます?」そいつ,また訊きよんねん。ほんで,立って,服頭から脱ぎよってん。
そいつ服脱いだとき,こいつなにしてんねんやろて気なってん。急に脱ぎよんねんもん。女が立って頭から服脱いだらけっこうスケベエな気持ちなるはずや思うけど,なれへんかってん。スケベエな気持ち,ぜんぜん湧いてけえへんかったわ。スケベエいうより悲しなってきてん。
「時計してますか,ねえ?」
「いえ。いえ,してません」おれ言うてん。ううわあっ,なんでそんな話してんねやろ思たわ。「名前なんていうのん」おれ訊いてん。そいつ着とったん,ピンクのスリップだけやってん。ホンマ,目のやり場困ったで。ホンマに。
「サニー」そいつ言いよってん。「じゃ始めましょうか」
「その前にちょっと話せえへん?」おれ訊いてん。幼稚なこと言うた思うけど,おれアホみたいになにしてんねんやろて気分やってん。「なんか急いでんの?」
そいつ,おれのこと,きちがいちゃうかみたいな顔で見よってん。「え,なにかお話することありますか」そいつ言いよってん。
「分からんけど。とくにないねんけど。いや,そっちがちょっと話ぐらいしたいんちゃうか思て」
そいつまた,机んとこの椅子座りよってん。うっとしなあ思とった思うわ。ほんでまた靴ぴくぴくさせよんねん──ううわあっ,すぐ緊張するやつやったわ。
「煙草どうですか」おれ言うてん。さっき吸えへんて聞いたん忘れとってん。
「吸わない。あのね,そんなに話がしたいならなんでも言ってて。こっちは,やることあるから」
けど,話することなんか思いつけへんかってん。なんで売春婦とかなったんて訊こかな思たけど,そんなん訊くの怖いやん。どっちみち,そんなんそいつも言えへんやろし。
「ニュー・ヨークの子ちゃうよな」おれ,やっと言うてん。それしか思いつけへんかってん。
「ハリウッド」そいつ言うてん。ほんで,立って,ベッドの,服脱いだとこまで行きよってん。「ハンガーある? このままじゃ服に皺できちゃう。クリーニングしたとこなのに」
「ありますよ」おれ,すぐ言うてん。おれ,立ってなんかすることあるだけで嬉しかってん。おれ,服クローゼット持ってってハンガー掛けたってん。おもろいわ。ハンガー掛けてるとき,なんか悲しかったわ。おれ,その女店入ってその服買うたとこ想像してみてん。店のだれも,そいつ売春婦やて知らんねん。それ買うたとき,店員たぶんそいつのこと,ふつうの子や思とってん。めちゃめちゃ悲しなったわ──なんでか分からんけど。
おれ,もっかい座って話続けよ思てん。そいつ,カスみたいに会話下手やってん。「毎晩働いてんのん」おれ訊いてん──口に出してみたら,えげつないこと訊いた思たわ。
「うん」そいつ,部屋んなかうろうろ歩いとってん。机からメニュー取って読んどったわ。
「昼間はなにしてんの」
なに言うてんの,て身振りしよってん,そいつ。けっこうガリガリやったわ。「寝てる。映画行ったり」ほんでメニュー置いて,おれの顔見よってん。「始めましょ,じゃ。こんなこと──」
「なあ」おれ言うてん。「おれ今夜,あんまりそんな気なれへんねん。ひどい夜やってん。ホンマに。お金は払うけど,よかったら,なんもせんでええかな。あかんかな」問題は,おれがやりたなかったことやねん。スケベエな気持ちより悲しなってきてん,マジで。その女のせいで悲しなってん。クローゼット吊ったある緑の服とかのせいで。せやし,昼のあいだずっとアホな映画見とおるやつとなんか,でけへん思たわ。ホンマ,でけへん思たわ。
そいつ,おれのほう来て,ホンマのこと言うてへんやろみたいなヘンな顔しよってん。「なにが問題なの」そいつ言いよってん。
「なにも問題ちゃいます」ううわっ,おれだんだん緊張してきてん。「問題は,おれ最近,手術してん」
「へえ。どこ?」
「ほら,なんとかいう──クラヴィコード」
「へえ。それどこ?」
「クラヴィコード?」おれ言うてん。「そら脊柱管のなかやん。脊柱管のずっと下のほうやろ」
「へえ」そいつ言うてん。「たいへんだね」ほんで,そいつ,アホみたいにおれの膝座りよってん。「あなた,かわいいよ」
おれ緊張したから,頭ばーん飛ぶぐらい嘘言いつづけてん。「おれまだ予後観察中やねん」おれ言うてん。
「映画に出てるひとに似てる。だれだっけ。言われない? 名前なんだっけ」
「分かりません」おれ言うてん。そいつ,アホやから膝から降りよれへんねん。
「言われるでしょ。メルヴァイン・ダグラスと映画に出てたひと。メルヴァイン・ダグラスの弟だっけ。船から落ちるひと。知んない?」
「知りません。映画には,できるだけ行かんようにしてるんで」
ほしたら,そいつのようす,おかしなってん。露骨に迫ってきよってん。
「そんなん,もうやめてください」おれ言うてん。「さっきも言いましたけど,おれいまそんな気なりません。手術したばっかりやから」
そいつ,膝座ったまま,すごい汚いもん見るみたいにおれ見よってん。「ねえ」そいつ言いよってん。「わたし,寝てたのに,モーリスに起こされたの。なに,もしかしてわたしが──」
「来てくれはった以上,お金は払います。ホンマに払います。そのぐらいのカネはあります。せやけど,おれ,こないだまで重症で──」
「じゃ,なんのためにモーリスに女呼べって言ったの。そのなんとかの手術したとこなら。ねえ」
「もうちょっと元気なってるかなて思てたんです。見通しがちょっと未熟でした。嘘ちゃいます。すいません。もし立ってくれはったら,財布持ってきます。ホンマです」
そいつ,めちゃめちゃ怒っとったけど,立ちあがって,おれ,タンスに財布取りに行ってん。おれ,五ドル札一枚出して,そいつに渡してん。「ありがとうございます」おれ言うてん。「ホンマありがとうございます」
「これ五ドルだよ。料金は十ドル」
そいつ,ようすおかしなっとったわ。そんなん起きるんちゃうか思とってん,おれ──ホンマに。
「モーリスさんは五ドル言うてました」おれ言うてん。「昼まで十五ドル,一発やったら五ドルだけ言うてました」
「一発は十ドルだよ」
「五ドル言うてました。申しわけないですけど──ホンマ申しわけありませんけど──おれはこれ以上出すつもりありません」
そいつ,さっきみたいにまた,なに言うてんのて身振りで,冷たい声で言いよってん。「上着を取ってきてってお願いするのはいいのかな。それはお手間を取らせすぎかな」妖怪みたいなやつやったわ。あんなちっさい声でも,ひとのことちょっと怖がらせよんねん。あれが,年とって,顔とかに厚化粧してる売春婦やったら,半分も怖なかった思うわ。
おれ,そいつの服取ってきたってん。そいつ,それ着て,ベッドからポロ・コート取りよってん。「しみったれ,じゃあね」そいつ言いよってん。
「ほな」おれ言うてん。ありがとうとは言えへんかってん。言わんでよかったわ。
14
サニー出てったあと,おれしばらく椅子座って煙草二本吸うてん。だんだん外明るなっとったわ。ううわあっ,おれどんだけ惨めな気分やったか。どんだけ悲しかったか分かってもらわれへん思うわ。おれアリーに喋っとってん,声出して。めちゃくちゃ悲しいとき,ときどきそんなんすんねん。おれいっつもアリーに,家帰って自転車取ってこいや,ほんでボビー・ファロンの家の前で待ちあわせや言うねん。ボビー・ファロンて,メーン州でおれらのすぐ近く住んどってん──何年も前やけど。とにかく,ある日,ボビーとおれ自転車でシディビーゴ湖まで行こう言うとってん。弁当とか,BB弾の銃とか持って──おれら子どもやったから,BB弾でなんか猟できる思とってん。とにかく,アリーそれ聞いとって,いっしょに行きたい言うてんけど,おれあかん言うてん。おまえまだ子どもやからあかん言うてん。せやから,おれ,めちゃくちゃ悲しいとき,いまでも時々「分かった。家帰って自転車取ってこいや,ほんでボビー・ファロンの家の前で待ちあわせや。早よせえよ」てアリーに言うねん。どっか行くとき,いっつもアリー連れていけへんかったわけちゃうねん。連れてってん。けど,あの日は連れていけへんかってん。アリーべつに怒ってへんかったけど──アリー,なににも文句言えへんかったから──おれ悲しなったら,とにかくそのこと考えてまうねん。
けど,結局おれ服脱いでベッド入ってん。ベッド入ったときお祈りしょうかな思てんけど,でけへんかってん。おれ,お祈りしたいときでけへんことあんねん。まず,おれ一種の無神論者やねん。イエスのことは好きやけど,それ以外の聖書に書いたあることだいたいどうでもええねん。たとえば使徒おるやん。あいつら,めちゃくちゃ苛つくねん,マジで。イエスが死んでからはあれでええねんけど,イエスが生きてるあいだ,あいつら頭に開いた穴ぐらいにしか役立ってへんやん。イエスのことずっとがっかりさせとっただけやん。使徒に比べたら,聖書に出てくるやつはたいがいだれでも好きやわ。マジでおれ聖書でイエスの次に好きなやつて,墓に住んでてずっと石で自分の体傷つけとおる,ちょっとおかしいやつやねん。そいつのこと,おれ使徒の十倍好きやわ,かわいそうに。おれウートン高校おったとき,同じ階の部屋おったアーサー・チャイルズいうやつと,そういうのしょっちゅう議論してん。チャイルズ,クウェーカーで,いっつも聖書読んどってん。めちゃくちゃええやつで,おれそいつのこと好きやったけど,聖書のことで意見合えへんこといっぱいあったわ,とくに使徒のこととか。使徒のこと好きちゃうんやったらイエスのことも好きちゃうやんて,そいついっつも言うとったわ。使徒選んだんはイエスやねんから,使徒のことも好きにならなあかん言うとってん。そらイエスが使徒選んだんは分かってるけど,無作為に選んだて,おれ言うてん。みんなのこと分析して回ってる暇なかった言うてん。イエスのせい言うてるわけちゃう,時間なかったんはイエスのせいちゃう言うてん。おれチャイルズに,イエスのこと裏切ったユダ,自殺したあと地獄行った思うか訊いてみてん。ほしたら,地獄行った決まってる言いよんねん。そこが,おれと意見合えへんとこやねん。イエスがユダ地獄送ってへんほうに,おれ千ドル賭ける言うてん。もし千ドル持ってたら,いまでもそうするわ。使徒やったらだれでも地獄送ったやろうけど──しかも,すぐ──イエスはそんなんせえへんて,おれなに賭けてもええわ。おれの問題は教会通てへんことやてチャイルズ言うてん。ある意味,そのとおりやねん。いまも通てへんわ。そもそも,うちのおとんとおかん宗教ちゃうし,うちの一家の子どもみんな無神論者やねん。おれ牧師嫌いやねん。おれ行っとったどこの学校でも,牧師みんな説教しだしたら聖なるジョーみたいな声で喋りよってん。あれ嫌やったわ。なんで普通の声で喋られへんのか分からんわ。喋ってることパチもんに聞こえんねん。
とにかく,おれベッドでお祈りに集中でけへんかってん。お祈りしよか思たら,サニーおれのこと,しみったれ言うたん思いだしてもてん。しゃあないからベッドで座って煙草また一服吸うてん。カスみたいな味したわ。ペンシー出てからもう二箱ほど吸うてた思うわ。
ベッドで寝転んで煙草吸うとったら,急にノックの音してん。おれの部屋ちゃうかったらええのに思たけど,おれの部屋やてアホみたいにはっきり分かったわ。なんで分かったんか知らんけど,分かったわ。だれかも分かったわ。おれ超能力者やねん。
「どなたですか」おれ言うてん。かなり怖がっとったわ。おれ,そんなん根性ないねん。
ほしたら,なんも言わんとまたノックしよんねん。さっきよりでっかい音で。
おれパジャマ着たままベッド出て,しゃあないからドア開けてん。もう外明るかったから,電気点けんでよかってん。サニーと,エレヴェーターでポン引きしてるモーリス来とってん。
「なんですか。なんの用ですか」おれ言うてん。ううわあっ,声めちゃくちゃ震えとったわ。
「たいした用ちゃう」モーリス言いよってん。「五ドル払てもらおか」ふたりおったけど,モーリスだけ喋りよってん。サニー,隣立って,口開けとったわ。
「もう払いましたよ。このひとに五ドル払いました。訊いてくださいよ」おれ言うてん。ううわあっ,どんだけ声震えとったか。
「十ドルや,大将。言うたよな。一発十ドル,昼まで十五ドル。言うたよな」
「言うてませんよ。一発五ドル言うてましたやん。昼まで十五ドルいうんはたしかに聞きましたけど,おれ,はっきり──」
「ちゃんと開けて,大将」
「なんでですか」おれ言うてん。心臓アホみたいにばくばくいうて,おれ部屋から飛びだしそうなったわ。せめてちゃんと服着てたらよかった思たわ。そんなこと起きてんのにパジャマしか着てないて,情けないで。
「早よ,大将」モーリス言いよってん。ほんで,ごっつい手で,おれのこと,ぼーん突きよってん。もうちょっとでアホみたいにケツからこけそうなったわ──あいつ,でかかってん。気ついたら,あいつとサニー,部屋入っとったわ。あいつら,自分らの部屋おるみたいに,アホみたいにくつろいどおんねん。サニー,窓枠んとこ座っとったわ。モーリスは,でかい椅子座って襟緩めとってん──エレヴェーター係の制服着とってん。ううわあっ,どんだけ不安なったか。
「ほな大将,払てもらおか。おれも仕事戻らなあかん」
「おれ払わなあかんお金なんか一セントもないて,もう十回ぐらい言いましたやん。さっきこのひとに五ドル──」
「もうアホ言うな。払てもらおか」
「なんでおれがあと五ドル払わなあかんのですか」おれ言うてん。声ずっと上ずとったわ。「これ詐欺ちゃいますのん」
モーリス,制服のコートのボタン全部外しよってん。その下に着けてたん,パチもんの襟だけで,シャツもなんも着とおれへんねん。腹出て毛むくじゃらやったわ。「詐欺やて人聞きの悪い」あいつ言いよってん。「払てもらおか,大将」
「嫌です」
おれ言うたら,あいつ椅子から立って,おれのほう歩いてきよってん。めちゃくちゃめちゃくちゃだるい,めちゃくちゃめちゃくちゃおもんないいう顔しとったわ。どんだけ怖かったか。おれ,腕組んでん。覚えてるわ。もしアホみたいにパジャマだけちゃうかったら,腕組んだとこあんまかっこ悪なかった思うわ。
「払てもらおか,大将」あいつ,おれ立ってるとこまで来よってん。それしかよう言わんねん。「払てもらおか,大将」ホンマのアホやねん。
「嫌です」
「大将,ほなおれ,ちょっと手荒いことせなしゃあないわ。そんなんしたないけど,それしかなさそやな」あいつ言いよってん。「五ドル返して」
「借りなんかありませんやん」おれ言うてん。「そんなんしたら,おれめちゃくちゃでかい声出しますよ。ホテル中のみんな起こしますよ。警察とか来ますよ」声,アホみたいに震えとったわ。
「やってみ。頭吹きとぶぐらいアホみたいにでかい声出してみ。上等や」モーリス言いよってん。「一晩,売春婦といっしょにおったて親にばれんで。あんたみたいな上流のガキが」けっこう鋭かったわ,嫌なとこ突きよんねん。ホンマ鋭かったわ。
「もう帰ってください。最初っから十ドル言うてたら,こんなことなってませんやん。けど,はっきり言うてましたやん──」
「払てくれる気あんのん」あいつ,おれのことドア押しつけよってん。上から見下ろしてくるみたいやったわ,汚いもじゃもじゃの腹出して。
「もう帰ってくださいよ。部屋出てってくださいよ」おれ言うてん。腕組んだままやったわ。おれ,どんだけヘタレやねん。
ほしたらサニー初めて喋りよってん。「ねえ,モーリス。こいつの財布取ってこようか」サニー,言いよってん。「なんとかのうえに置いてあるよ」
「おお,取ってきて」
「おれの財布触んな!」
「もう持ってる」サニー,言いよってん。ほんで,おれに五ドルひらひら見せよってん。「見て。わたしが持っていくのは,あなたが払わなかった五ドルだけね。泥棒じゃないから」
ほんでおれ急に泣いてもてん。あんとき泣けへんかったことにしてくれるんやったら,おれなんでもするわ。けど泣いてもてん。「たしかにパクってへんわ」おれ言うてん。「おまえら強盗やんけ──」
「うっさい」モーリス言うて,おれのこと突きよってん。
「行こか,じゃ」サニー,言いよってん。「ね。もうお金貰ったし。行こ。ね」
「分かった」モーリス,言うてん。けど行きよれへんねん。
「もうホントに,モーリス,ちょっと。こいつ,もう放っとこ」
「だれも痛い目遭うてませんよね」あいつ,なあんもしてませんよいう声で言いよってん。ほんで,パジャマのうえからおれに思いっきりコンパチ入れよってん。どこに入れたかは言えへんけど,めちゃくちゃ痛かったわ。おまえ汚いアホじゃておれ言うてん。「なんやて」あいつ言いよってん。ほんで,聞こえへんかったみたいに,耳のうしろに手あてよってん。「なんやて。おれがなんやて」
おれ,ずっと泣いとってん。頭アホみたいにぐじゃぐじゃなっとったわ。「おまえは汚いアホじゃ」おれ言うてん。「おまえ頭悪い詐欺師のボケやんけ,二年もしたら,おまえなんかよぼよぼなってコーヒー代十セント恵んでて道でひとに言うとおるわ。汚いコートで鼻拭いて──」
ほしたら,あいつ殴りよってん。おれ避けようともせんかってん,横にも下にも。腹にごっついパンチ来たん分かったわ。
けど,おれノック・アウトされたんちゃうねん,あのふたりドア出て閉めんの床から見とったん覚えてるから。ほんでおれ,かなり長いこと床でじっとしとってん,ストラドレーターのときみたいに。けど,こんときは死ぬんちゃうか思たわ。ホンマに。溺れてるみたいな感じしてん。ろくに息でけへんかってん。やっと立ってバスルーム行こ思たら,腹押さえて腰曲げんと歩かれへんかってん。
けどおれ頭おかしいねん。ホンマに。バスルーム行く途中で,おれ,腹に弾丸食ろた真似しだしてん。モーリスが撃ちよったことにして。よっしゃ,おれいまバスルームでバーボンかなんかくっと一杯飲んで神経落ちつかせてホンマの行動起こすときや,いうことにしてん。ほんでバスルーム出てちゃんと服着てオートマティック拳銃ポケット入れてアホみたいにちょっとふらっとすんねん。エレヴェーター使わんと,階段降りんねん。手すり掴んで,ときどき口の端からちょっと血出しながら。二,三階下りて──腹押さえて,あちこち血垂らしながら──ほんでエレヴェーター呼ぶねん。モーリス扉開けよったら,おれがオートマティック持って立ってんねん。あいつ,めちゃくちゃ甲高い根性なしの声で,助けてくださいて叫びよんねん。けど,おれ撃ったんねん。毛むくじゃらのデブの腹に六発。ほんで,エレヴェーターのシャフトにオートマティック捨てんねん──指紋とか拭いたあと。おれ部屋まで這うて帰って,電話でジェーン呼んで,腹に包帯巻いてもらうねん。おれが血出て痛いとき,おれの煙草ジェーンに持っててもらうねん。
アホの映画やんけ。映画見たらアホなるわ。マジで。
おれ一時間ほどバスルームで風呂入ってん。ほんで,またベッド入ってん。寝入るまでけっこう時間かかったけど──それでも眠たなかってん──結局寝たわ。けどホンマは自殺したかってん。窓から跳びおりたかったわ。墜落したらすぐだれか覆いかけてくれるて分かってたら,たぶん跳びおりてた思うわ。ぐじゃぐじゃなったとこ,アホの野次馬に見られたないやん。
15
あんま長いこと寝られへんかってん。起きたらまだ十時ごろやった思うわ。煙草吸うたら,けっこう腹減っててん。ブロサードとアクリーとエーガーズタウンに映画見に行ったときハンバーガー二個食うてから,なんも食うてへんかってん。そんなん昔の話やん。五十年ぐらい前の気したわ。すぐ横に電話あったから,下に電話して朝飯持ってきてもらおか思てんけど,ほんだらモーリス持ってきよるかもしれんやん。おれがまたモーリスに会いとうてたまらん思うやつおったら,気狂てるやろ。せやから,しばらくベッドでうだうだして,また煙草吸うてん。ジェーンとこ電話して,もう家帰ってるかどうか訊こか思たけど,そんな気なれへんかってん。
ほんで,サリー・ヘーズに電話してん。あいつ,メアリー・A・ウッドラフ行っとって,二週間ぐらい前に手紙来とったから,もう家おんのは分かっててん。べつに好きとかちゃうかったけど,ずっと前から知りあいやってん。あいつかなり頭ええて,おれ前思とってん。おれアホやったわ。そう思とったん,あいつ演劇とか文学とかそういうんけっこういろいろ知っとったからやねん。そんなんいろいろ知ってるやつおったら,ホンマはアホかどうか分かるまでかなり時間かかんねん。おれ,サリーがアホて分かるまで何年もかかったわ。もしアホみたいにペッティングとかそんなんしてへんかったら,もうちょい早よ分かった思うわ。問題は,おれ,自分がペッティングした相手のこと,いっつもけっこう頭ええ思てまうことやねん。そんなん関係ないはずやのに,なんでかそう思てまうねん。
とにかく,あいつに電話してん。まずメード出て,ほんでお父さん出て。ほんで,あいつ出てん。「サリーか?」おれ言うてん。
「はい──どちらさまですか」あいつ言いよってん。なんかパチもんみたいやったわ。さっきお父さんに,おれて言うたのに。
「おれ。ホールデン・コールフィールドやん。元気か?」
「ホールデン! わたしは元気ですよ! お元気ですか?」
「ばっちりや。な,いまどうしてるん? 学校は,もうええの?」
「ええよ」あいつ言うてん。「てゆか──知ってるやん」
「ばっちりや。なあ,今日忙しい? 今日,日曜やけど,日曜でもいっつもどっかでマティネやってるやん。慈善公演とか。行けへん?」
「行きたい。素敵」
素敵。おれ嫌いな単語ひとつあるとしたら,素敵やわ。パチもんやん。一秒間,もうマティネのこと忘れてくれ言いかけたわ。けど,しばらくだらだら喋っとってん。てか,あいつが喋っとってん。口挟まれへんかったわ。まずハーヴァードのやつの話しよってん──たぶん一回生やろけど,そんなん言いよれへんかったわ,当然──めちゃくちゃ迫ってきよんねんて。夜も昼も電話してくんねんて。夜も昼も──マジびびったわ。ほんで次にウェスト・ポイントの士官候補生の話しよってん。そいつ,サリーのためやったら死んでもええ言いよってんて。かなんで。おれら,二時にビルトモアの時計んとこで待ちあわせしてん。芝居たぶん二時半に始まるから遅れんといてや言うてん。サリーいっつも遅刻しよんねん。ほんで電話切ってん。サリー,ケツからぶりぶりて出したろか思たけど,めちゃくちゃ美人やねん。
サリーとデート約束して,おれベッド出て服着て荷物まとめてん。部屋出るとき窓の外見て,あの変態のやつらどうしてんのか確かめよ思てんけど,みんなシェード下ろしとったわ。午前中は慎んどおんねん。ほんでエレヴェーターで下降りてチェック・アウトしてん。モーリス見かけへんかったわ。まあ首きょろきょろして必死で探したわけちゃうけど。
ホテルの外でタクシー乗ってんけど,どこ行くかアホみたいにぜんぜん考えてへんかってん。行くとこなかってん。まだ日曜やったから,水曜まで家帰られへんし──どんなに早ようても火曜までは。また別のホテル行って頭おかしなりたなかったし。せやから,グランド・セントラル・ステーション行ってて運転手に言うてん。そこやったら,サリーと待ちあわせしてるビルトモア近いし,鍵付いた金庫に荷物入れといて朝飯食える思てん。おれ腹減っとってん。タクシーんなかで財布出してカネ数えたら,なんぼ持ってたか正確には忘れたけど,大金ちゃうかったわ。カスみたいな二週間でやけくそなって使うてもうててん。ホンマ。おれホンマ,アホみたいに無駄遣いしてまうねん。無駄遣いせんでも,無駄にしてまうねん。レストランとかナイト・クラブとかで半分ぐらい,釣り貰うん忘れてまうねん。それで,おとんとおかんいっつも怒りよんねん。しゃあないわ。けど,おとん,けっこう金持ちやねん。どれぐらい稼いどおるんかおれも知らんけど──おとん,そんなことおれに言えへんから──かなりや思うわ。会社の弁護士やねん。ホンマごそっと持っていってるわ。もうひとつ,おれ知ってんのは,おとんいっつもブロードウェーのショーに投資しとんねん。けど,いっつもこけるから,投資したらおかん怒りよんねん。アリー死んでから,おかん具合良うないねん。めちゃくちゃぴりぴりしてんねん。それもあって,おれ,また退学なったておかんに知られたなかってん。
駅の金庫にカバン入れて,サンドウィッチの店入って朝飯食うてん。かなり食うたわ,おれにしては──オレンジ・ジュース,ベーコン・アンド・エッグズ,トースト,コーヒー。ふつうやったらオレンジ・ジュース飲むだけやねんけど。おれ小食やねん。ホンマに。せやからアホみたいにガリガリやねん。体重増やさなあかんから澱粉とかいっぱい摂らなあかんて食事指導受けとってんけど,ぜんぜんやってへんかってん。どっか外出たときは,たいがいスイス・チーズのサンドウィッチと麦芽乳ぐらいやわ。量は多ないけど,麦芽乳にヴィタミンいっぱい入ってるやろ。H.V.コールフィールド。ホールデン・ヴァイタミン・コールフィールドやねん。
卵食うてたら,スーツケース持って尼さんふたり入ってきて──どっかの女子修道院行くのに列車待ってんねやろて,はじめ思てんけど──ほんでカウンターのおれの隣の席座ってん。スーツケースどうしょうか困ってるみたいやったから,おれ手伝うてん。めちゃくちゃ貧乏臭いスーツケースやったわ──本物の革とか使てへんやつ。そんなん重要ちゃういうんは分かってるけど,おれ,だれかが安もんのスーツケース持ってんのん嫌いやねん。こんなこと言うたらなんやけど,おれ,だれかが安もんのスーツケース持ってたら,それ見るだけで,そいつのこと嫌なってまうねん。前にエルクトン・ヒルズおったとき,おれしばらくディック・スレーグルいうやつといっしょの部屋なって,そいつめちゃくちゃ安もんのスーツケース持っとってん。ほんでスーツケース,棚置かんとベッドの下入れとおってん。おれのんと並んでるとこ見られたないから。おれ悲しなって,自分のん捨てよかなとか,交換しょうかとかずっと思とってん。おれのんはマーク・クロスのやつで,本物の牛革製で,けっこうした思うわ。けど,おもろかったわ。なに起こったか言おか。おれ結局,スーツケース棚から下してベッドの下入れてん。スレーグルがアホみたいな劣等コンプレックス持たんでええように。ほしたら,そいつなにした思う。おれがベッドの下入れた次の日,そいつ,それ出して棚置きよってん。なんでそんなんしたんかしばらく分からんかってんけど,そいつ,そのカバン,おれのんやてみんなに思わせようしとってん。ホンマに。そんなことやるおかしいやつやってん。たとえば,おれのスーツケースのこと,いっつも偉そうになんか言うとったわ。おれのんは新しすぎてブルジョワ趣味やてずっと言うとったわ。そいつ,その言葉アホみたいに好きやってん。どっかで読んだか聞いたんやろな。おれの持ってるもん,なんでもめちゃめちゃブルジョワ趣味言うとったわ。万年筆かてブルジョワ趣味やねん。そいつ,いっつもおれのん貸して言うて使とってんけど,それでもブルジョワ趣味やねん。そいつとは,二か月ぐらいしか同室ちゃうかってん。ふたりとも別の部屋移りたいて希望出してん。おもろかったんは,おれ部屋移ってから,そいつおれへんの淋しなってん。そいつ,ユーモアのセンスあったし,めちゃくちゃおもろいことあったし。あいつも淋しがっとったとしても,おれ不思議ちゃうわ。はじめ,そいつ冗談でおれの持ちもんブルジョワ趣味言うてただけやねん。ほんでおれも文句言えへんかってん──実際,おもろかったし。けどしばらくしたら,それ冗談ちゃうようなってん。問題は,相手よりずっとええスーツケース持ってたら,そいつとルームメートなんのんホンマたいへんいうことやねん──自分のんがホンマええやつで,相手のんがそうちゃうかったら。相手が頭ええやつでユーモアのセンスあるやつやったら,どっちがええスーツケース持ってても,そんなことで文句言えへん思うやん──けど言うねん。ホンマに。おれ,なんでストラドレーターみたいなアホと同室やったかて,それがひとつの理由やってん。あいつのんは,すくなくとも,おれのんと同じぐらいええやつやったから。
とにかく,尼さんふたり,おれの隣座って,話してん。おれのすぐ隣の尼さん,クリスマスの時期に尼さんとか救世軍の子とかが募金するとき使てるみたいな藁の篭持っとってん。募金て,でっかい百貨店の前とかでやってるやん,五番街とかの。おれの隣の尼さん,それ床落としたから,おれ手伸ばして拾たってん。募金とかしてはるんですかて訊いたら,いえ違うんです言いはってん。荷物詰めたときスーツケース入れへんかったから,手で持っとってんて。おれの顔見て,ええ感じで笑いはってん。鼻でかかったし,あんまり見栄えせん鉄縁の眼鏡かけとったけど,優しい感じの顔しとってん。「募金してはんのかと思てました」おれ言うてん。「それやったら,ちょっと献金させてもらお思てたんです。なんでしたら,こんど募金しはるときのために,お金預けときます」
「ご親切なこと」尼さん言わはってん。友だちの,もうひとりの尼さんも,こっち見はったわ。そっちの尼さん,コーヒー飲みながら黒い小さい本読んどってん。聖書みたいやったけど,それにしては薄かったわ。けど,聖書みたいな本やってん。ふたりとも,食べてはったんトーストとコーヒーだけやってん。悲しなったわ。おれがベーコン・アンド・エッグズかなんか食うてるとき,ほかのだれかがトーストとコーヒーだけとかいうの,おれ嫌やねん。
その尼さんら,おれが十ドル献金したら受けとってくれはってん。こんなに大丈夫ですかてずっと訊いてきはったから,ぼくいまかなりカネ持ってるんで大丈夫です言うたけど,信じてなかった思うわ。けど結局,受けとってくれはってん。ふたりにものごっつお礼言われて焦ったわ。おれ話題変えて,いまからどこ行かはるんですかて訊いてん。その尼さんら,学校の先生で,ちょうどシカゴから着いたばっかりで,百六十八丁目か百八十六丁目か,とにかくめちゃくちゃアップタウンの女子修道院行く言うてはったわ。鉄縁の眼鏡かけた,おれの隣の尼さん,英語の先生で,友だちの尼さん,歴史とアメリカ政治の先生や言うてはったわ。それ聞いておれ,隣の,英語教えてるほうの尼さん,授業でいろいろ本読むとき,自分が尼さんいうことどう思てはんねやろてアホみたいに気になってん。スケベエなこと書いたある本やのうても,愛人とか出てくる本あるやん。たとえば,トマス・ハーディーの『帰郷』に出てくるユーステーシア・ヴァイとか。あれはそんなスケベエなことないけど,尼さんがユーステーシアのこと読んでどう思うねやろて気になってしゃあないやん。けど,そんなこと言えへんかったわ,当然。しゃあないから,ぼく英語がいちばん得意な教科です言うてん。
「まあほんまですか。うれしいわあ」眼鏡かけた英語の先生のほうが言いはってん。「今年はどんな本読みはったんですか。もしよかったら教えてくれませんか」ホンマ感じよかったわ。
「えーと,ほとんどアングロ-サクソンのもんでした。ベオウルフとか,グレンデルとか,ロード・ランダル・マイ・サンとか,そういうやつです。けど,ときどき選択単位でほかに本読まなあかんかったんで,トマス・ハーディーの『帰郷』とか,『ロミオとジュリエット』とか,『ジュリアス──」
「まあ,『ロミオとジュリエット』! わたし大好き! どうでした?」ぜんぜん尼さんみたいな口調ちゃうかったわ。
「ええ,よかったです。ぼくも好きなとこいっぱいありました。あんまり好きなられへんとこも二,三ありましたけど,全体としては感動しました」
「どういうところがお気に召しませんでしたか? 覚えてはります?」
ホンマのこと言うと,その尼さんに『ロミオとジュリエット』のこと言うの,ある意味焦ってん。けっこうスケベエなとこあるやん。尼さん相手やし。けど,むこうが訊いてきてんから,おれ言うてみてん。「えーと,ロミオとジュリエットはどっちでもええんですけど」おれ言うてん。「そのふたりは好きですよ,けど──分からん。あのふたり,ときどき気に障るんですよ。ぼく,ロミオとジュリエットが死んだときより,マキューシオが死んだときのほうが可哀そうや思いました。マキューシオがジュリエットのいとこに刺されたあと,ぼくロミオのこと好きになられへんかったんです──あのいとこ,名前なんでしたっけ?」
「ティボルト」
「そうです,ティボルト」おれ言うてん──おれいっつもそいつの名前忘れんねん。「あれ,ロミオのせいですやん。あの芝居で,ぼくマキューシオがいちばん好きです。分からん。モンタギュー家とキャピュレット家の人らは,ええと思います──とくにジュリエットは──けどマキューシオは──ちょっと説明しにくいんですけど。マキューシオ,めちゃくちゃ頭ええし,ひとに喜んでもらおうて気あるやないですか。問題は,だれかが殺されて──とくに,その殺されたひとが,めちゃくちゃ頭良うて,ひとに喜んでもらおうて気あるとして──それがほかのだれかのせいやったりしたら,ぼく腹立つんです。ロミオとジュリエットは,すくなくとも自分らのせいですよね」
「どちらの学校に通てはるの?」尼さん,訊いてん。たぶん,ロミオとジュリエットの話題変えたかったんや思うわ。
ペンシーです言うたら,聞いたことあります言うてはったわ。ええ学校ですね言いはってん。けどおれ,それ受けながしてん。ほしたら,もうひとりの,歴史と政治の先生のほうが,そろそろ急がんとて言いはってん。おれ,尼さんらの勘定取ってんけど,払わしてもらわれへんかったわ。眼鏡かけた尼さんが,そんなんあきません言いはってん。
「そんなことしてくれはらんでも十分に心の広いおかた」尼さん言いはってん。「好青年やこと」感じよかったわ。おれちょっと,アーネスト・モローのお母さん思いだしたわ,汽車で会うた。とくに笑たとき。「お話できて楽しかったです」尼さん言いはってん。
こちらこそいろいろお話させてもろて楽しかったですて,おれ言うてん。本気で言うてん。けどおれ,話してるあいだずっと,尼さん急におれがカトリックかどうか確かめようすんちゃうかて心配しとったから,もしそれなかったら,もっと楽しかった思うわ。カトリックていっつも,相手がカトリックかどうか確かめようてするやん。おれ,そういうことようあんねん。分かってんねん,名字アイルランド系やし,アイルランド系の子孫てだいたいカトリックやん。実際,うちのおとんカトリックやってん。おかんと結婚するとき止めてんけど。けどカトリックて,相手の名字知らんでも,相手がカトリックかどうか確かめようてすんで。ウートン高校でルイス・シェーニーいうカトリックのやつおってん。あそこで,おれいっちゃん最初に話したやつやねん。学校の初日に,そいつとおれ,アホみたいに保健室の外の先頭の椅子並んで座って,身体検査待っとってん。ほんで,テニスの話してん。そいつテニス好きで,おれもそうやってん。そいつ,毎年夏にフォレスト・ヒルズに全米選手権見に行ってる言うから,おれも行ってる言うて,しばらくすごいテニス選手の話しとってん。そいつ,テニスのこといろいろ知ってたわ,あのぐらいの年齢の子にしては。ホンマに。けど,しばらくして,そんな話してるさいちゅうアホみたいに急に,「もしかしてやけど,ここの町,どこにカトリック教会あんのか知らんかな」て訊いてきよってん。そんなん訊いて,おれがカトリックかどうか確かめようてしてたんや思うわ。ホンマ。そいつが偏見持ってたとかそんなんやのうて,ただ知りたかったんや思うわ。テニスのおもろい話しとったけど,もしおれがカトリックやったとしたら,もっと楽しかったんや思うわ。そんなん,おれ腹立つねん。そのせいで会話,台無しなったとは言えへんけど──それはちゃうわ──そんなん,ええことなんもないやん。せやから,その尼さんらおれにカトリックかどうか訊けへんかったん嬉しかってん。もし訊かれたとしても,会話盛りあがれへんいうことなかった思うけど,たぶん感じ変わった思うねん。カトリック悪い言うてるんちゃうねんで。それはちがうわ。もしおれがカトリックやったとしたら,おれもそうするかもしれんわ。ある意味,さっき言うたスーツケースみたいなもんやねん。そういうの会話の邪魔やて,おれ言いたいだけやねん。それだけやねん。
尼さんふたり席立ったとき,おれアホな,気まずいことしてもうてん。おれ煙草吸うとって,さようなら言お思ておれも席立ったら,間違うて尼さんらの顔に煙吹きかけてもてん。おれ,きちがいみたいに謝って,尼さんら気にしてへん感じやったけど,とにかくめちゃくちゃ気まずかったわ。
ふたり出ていったあと,おれ十ドルしか献金せえへんかったこと申しわけない思たわ。おれ,サリー・ヘーズとマティネ行く約束しとったから,入場券とか買うのにカネ残しとかなあかんかってん。けど,申しわけない思たわ。カネてムカつくわ。カネ絡んだら,いっつもめちゃめちゃ気重なんねん。
16
朝飯食うてもまだ十二時ごろやったわ。二時にサリーに会うまですることなかったから,おれぶらぶら歩いてん。さっきの尼さんらのこと,頭から離れへんかったわ。あの尼さんら学校で授業してへんとき募金に使てる,よれよれの藁の篭のこと,ずっと考えとってん。うちのおかんとかだれか,うちの叔母さんとか,サリー・ヘーズのすぐ怒るお母さんとか,どっか百貨店の外立ってよれよれの古い藁の篭で恵まれへんひとらのために募金してるとこ想像してみよ思てんけど,そんなん無理やったわ。うちのおかんはまだなんとか想像ついたけど,あとのふたりが想像でけへんねん。おれの叔母さん,けっこう慈善活動やってんねん──赤十字活動とかそういうやつ──けど,めちゃくちゃええ服着てんねん。なんか慈善活動するとき,いっつもめちゃくちゃええ服着て口紅とかそんなん塗っとおんねん。黒い服着て,口紅塗ったあかん言われたとしたら,あの叔母さん慈善活動してんの想像でけへんわ。サリー・ヘーズのお母さんもそうやわ。ムカつくわ。あのお母さんに篭持って募金してもらお思たら,みんなカネ出すときあのお母さんのケツにキスするしかないで。もしみんな篭にお金入れるだけで,あのお母さんのこと無視してなんも言わんと歩いていくだけやったら,一時間ほどで募金止める思うわ。おもんのうなんねん。だれかに篭渡して,どっか気取ったとこ昼飯食いに行くわ。せやから,おれ,あの尼さんらのこと気に入ってん。たとえば,あのひとら,気取ったとこ昼ごはん食べに行ったりせえへんやん。そう思たらアホみたいに悲しなったわ,あの尼さんらが気取ったとこ昼ごはん食べに行けへんいうの。そんなん重要ちゃうて分かってたけど,悲しなってん。
おれブロードウェーのほう歩いとってん。とくに理由なかったけど,もう何年も行ってなかったし。それと,日曜に開いてるレコード屋どっかないかな思とってん。フィービーにレコード買うたろ思てん,「リトル・シャーリー・ビーンズ」いうのん。なかなか売ってへんレコードやねんけど。女の子が,前歯二本抜けたん恥ずかしいから外出たないいう歌やねん。ペンシーで聞いてん。隣の階のやつがレコード持ってて,これフィービー気に入るわ思て,レコード売ってくれてそいつに頼んでんけど,売ってくれへんかってん。二十年ぐらい前出た古いレコードで,エステル・フレッチャーいう黒人の女の歌手歌てんねん。ディキシーランド風に,売春窟風に歌てんねんけど,ぜんぜんどろどろしてへんねん。もし白人の女歌てたらめちゃめちゃかわいい歌いかたしてた思うけど,エステル・フレッチャーはちゃんと自分のやってること分かってて,おれいままで聞いたなかでもかなりええレコードやったわ。どっか日曜でもやってる店でそれ買うて,公園まで持っていこ思とってん。日曜やったから。日曜やったら,フィービーだいたい公園でローラースケートやってんねん。だいたいどのへんでやってるか分かってたし。
前の日ほど寒なかったけど,あいかわらず日出てへんかったし,あんま歩くんに向いてる天気ちゃうかったわ。けど,ええことあってん。どっかの教会から帰りの家族,おれの前歩いとってん──お父さんとお母さんと六歳ぐらいの子と。貧乏そうやったわ。お父さん,真珠色の帽子被っとってん,貧乏なひとがええ服着るときによう被るやつ。お父さんとお母さん,話しながら歩いてて,子どものこと見てへんかってん。その子,ばっちりやってん。その子,歩道歩かんと車道歩いとってん,縁石のぎりぎり近くのとこ。まっすぐな線のうえ歩いてるつもりなっとってん。そんなん,子どもようやるやん。ほんで,ずっと歌うとたりハミングしたりしとってん。なに歌てんねや思て近寄ったら,「ライ麦分け来る子捕わば」てやつ歌とってん。かなり小さい声で歌とってん。なんとなく歌とっただけや思うわ。車ぶーん通っていくし,あちこちでブレーキきいきい鳴ってるし,親はその子のこと気にしてへんし,ほんでその子,縁石ぎりぎりのとこで「ライ麦分け来る子捕わば」て歌とってん。おれちょっと気楽なったわ。もうあんま悲しなくなってん。
ブロードウェー,ひといっぱいでごちゃごちゃしとったわ。日曜で,まだ十二時ごろやったけど,それでも混んどってん。みんな映画見に行くとこやってん──パラマウントとかアスターとかストランドとかキャピトルとかそんなアホみたいなとこ。みんな,ええ服着とったわ,日曜やったから,せやから余計嫌やったわ。けど最悪やったんは,みんな本気で映画行きたそうにしとったことやねん。おれ,そんなやつら見てんの我慢でけへんねん。ほかになんもすることないから映画行くいうんやったらまだ分かるで,けどホンマに映画見たいとか,早よ行きたいから速足で歩くやつとかおったら,おれめちゃめちゃ悲しなんねん。とくに,そこのブロックの向こうのほうまで何百万人も長い行列作って,辛抱して席取ろてしてんの見たら。ううわあっ,おれちょっとでも早よアホなブロードウェーから離れたかったわ。おれ,ついとってん。一軒目入ったレコード屋で,「リトル・シャーリー・ビーンズ」売っとってん。なかなか売ってへんから五ドルしてんけど,そんなん気になれへんかったわ。ううわあっ,おれ急にどんだけ嬉しなったか。おれ早よフィービーにレコードあげたかったから,公園にフィービーおるかすぐ見に行きたなってん。
レコード屋出たらドラッグストアあったから入ってん。ちょっとジェーンに電話して,もう休みで家おるかどうか確かめよ思てん。ほんで電話ボックス入って電話してん。せやけど,むこうのお母さん出てもうてん。しゃあないから切ったわ。あのお母さんに長い話巻きこまれんの嫌やってん。おれ,女のお母さんと話すんの,あんま好きちゃうねん。けど,ジェーン家おるかどうかだけでも訊くべきやった思うわ。それぐらいやったら,びびらんと訊けた思うわ。けど,そんな気なれへんかってん。その気ならなホンマそんなんでけへんわ。
おれまだ劇場の切符買うてなかったから,アホみたいに新聞買うて芝居なにやってるか調べてん。日曜やったから,三つぐらいしかやってへんかってん。せやから,おれ『アイ・ノウ・マイ・ラヴ』の窓口行ってオーケストラ席二枚買うてん。慈善公演かなんかやったわ。おれあんま見たなかったけど,サリー,パチもんの女王やから,その切符あんで言うたら,よだれだらだら垂らしよるやろ思てん。ラントとか出とったから。お洒落で切れあるいうことなってる芝居,サリー好きやねん。ラントとか出とおるやつ。おれちゃうで。おれ,そもそも芝居あんま好きちゃうねん,マジで。映画ほど嫌いちゃうけど,大騒ぎするほどのもんちゃうわ。そもそもおれ,俳優嫌いやねん。あいつら,ふつうの人間みたいな演技せえへんやん。自分ではしてる思てるだけやん。そら上手い俳優は,ちょっとええなあ思うけど,それも見てておもんないねん。ホンマに上手い俳優て,自分が上手いて自分で分かってるやん。そう思たら,おれもうあかんねん。たとえばローレンス・オリヴィエ卿。おれ『ハムレット』で見てん。D.B.が去年フィービーとおれ連れてってくれて,始まる前に昼飯おごってくれてん。D.B.それもう見とって,昼飯食いながら話聞いとったら,おれもめちゃめちゃ見たなってん。けど,あんまおもんなかったわ。単純に,ローレンス・オリヴィエ卿のなにがすごいんか,おれよう分からんねん。たしかにええ声してるし,めちゃめちゃ男前やし,歩いてるとことか剣さばいてるとことか見てたらええ感じやわ。けど,D.B.言うてたハムレットとぜんぜんちゃうかってん。悲しみに満ちた,精神的に不安定な人間いうより,なんかどっかの将軍みたいやったわ。あの映画全体でいっちゃんよかったん,オフィーリアの兄貴が──最後にハムレットと剣術試合するやつ──あいつ行こうてしてんのに,おとんがなんやかんや忠告してるとこやわ。おとん忠告してるあいだ,オフィーリア,兄貴の剣,鞘から出したりしておちょくりよんねん。兄貴,一生懸命おとんの話真剣に聞いてるふりしてんのに。あれはよかったわ。おもろかったわ。けど,そんなん,ちょっとしかなかってん。フィービーええ思たんは,ハムレット犬の頭叩いたとこだけやってんて。あれはおもしろいしええ思た言うとったし,実際そうやったわ。おれ,あの戯曲読まなあかん思てんねん。おれいっつも,そういうの自分で読まなあかんねん。役者が演技してるとき,なに言うてるかおれほとんど聞いてへんねん。役者がパチもんみたいなことしよるんちゃうかて,いっつも心配してまうから。
ラントの芝居の切符買うたあと,おれタクシーで公園行ってん。カネちょっと減っとったから地下鉄とか乗ったほうがよかってんけど,できるだけ早よアホみたいなブロードウェー離れたかってん。
公園カスみたいやったわ。あんま寒なかったけど,やっぱり日出てなかったし,犬の糞と年寄りが吐いたどろどろの唾と葉巻の吸いがら以外,なんもない感じやったし,ベンチ全部,座ったらケツ濡れそうやってん。悲しなったわ。ときどき,わけわからんけど,歩いてたらサブイボ立ったわ。クリスマス来るて感じ,ぜんぜんなかってん。来そうなもんなんか,なんもなかってん。けど,とにかくおれ,モールのほう歩いてってん。フィービー公園おるとき,だいたいそのへんおるから。フィービー,野外音楽堂の近くでスケートすんの好きやねん。おもろいわ。そこ,おれも小さいときようスケートしとったとこやねん。
けど,そこ行ってもフィービーおれへんかってん。子ども何人かスケートしとったし,男の子ふたりソフトボールでフライ投げしとったけど,フィービーおれへんかってん。けどフィービーと同じぐらいの年齢の女の子,ひとりでベンチ座ってスケートの底のネジ締めとってん。その子やったらフィービーのこと知ってて,どこおんのか分かるかもしれん思て,その子んとこ行って隣座って訊いてん。「ひょっとして,フィービー・コールフィールドて知らん?」
「だれ」その子,言うてん。その子,ジーンズと,セーター二十着ぐらい着とったわ。お母さんが編んだんや思うわ,めちゃめちゃぼこぼこやったから。
「フィービー・コールフィールド。七十一丁目の。四年生で──」
「フィービー知ってんの?」
「うん,おれ兄貴やねん。フィービーいまどこおるか知らん?」
「キャロン先生の組やんなあ」その子,言うてん。
「分からん。いや,そうや思うわ」
「ほたミュージアムちゃうかあ。こないだの土曜うちら行ったし」その子,言うてん。
「どっちのミュージアム?」おれ訊いてん。
その子,困ったなあいう恰好してん。「知らん」その子,言うてん。「ミュ,ウ,ジ,ア,ム」
「そら分かってんねんけど,絵あるほうか,インディアンおるほうか,どっち」
「インディアンのほう」
「ありがとう」おれ言うてん。ほんで立って行きかけてんけど,その日,日曜やて思いだしてん。「今日,日曜やで」おれ,その子に言うてん。
その子,顔上げて,おれのほう見てん。「ほな,おれへんな」
その子,スケートの底のネジ締めるん,めちゃめちゃ時間かかっとってん。手袋してへんかったから,両手,あかぎれみたいなって冷たそうやったわ。おれ手伝うたってん。ううわあっ,スケート・キーなんか持つの何年ぶりやったか。けど,おかしい思えへんかったわ。いまから五十年後に,真っ暗んなかでスケート・キー渡されたとしても,それなにかおれ分かる思うわ。おれネジ締めたったら,その子,ありがとう言いよってん。ええ感じの,行儀ええ子やったわ。スケートのネジ締めたったらその子がええ感じで行儀ええの,おれ好きやねん。たいていの子はそうやで。ホンマ。おれ,その子にココアかなんか飲みに行けへんて誘てんけど,ありがとうございます,けど結構です言いよってん。友だちに会わなあかん言うとったわ。子どもて,いっつも友だちに会わなあかんねん。びびるわ。
日曜やったし,フィービー学校の子らと行ってるいうことなかったし,外湿気ててカスみたいやったけど,おれ歩いて自然史博物館まで行ってみてん。そこが,スケート・キーの子言うとったミュージアムやってん。自然史博物館行ったらなにあるか,おれ全部覚えてるわ。フィービー,おれ子どもんとき通とったんと同じ学校通とってん。おれら,いっつもあっこ行っとってん。おれらんときはエーグルティンガー先生いうんがおって,アホみたいに毎週土曜おれら連れていかれてん。動物見たときもあったし,大昔インディアン作ったなんか見たときもあったし。陶器とか藁の篭とかそういうやつ。めちゃくちゃ懐かしいわ,ええ思いでやわ。いま話してても懐かしなるわ。インディアンのやつ全部見たら,そのあとたいていでっかい視聴室で映画見んねん,思いだしたわ。コロンブス。いっつもコロンブス,アメリカ発見する映画やってんねん,フェルナンドとイサベルに船買うお金貸してもらうんめちゃめちゃ苦労したとか,船乗りがコロンブスに反乱起こしたとかいうやつ。みんなコロンブスはどうでもよかってんけど,みんないっつも飴とかガムとかそんなんいっぱい持ってきてるから,視聴室ええ臭いしとってん。いっつも,外雨降っとって,ホンマは降ってのうてもな,ほんで世界で雨に濡れんでええさっぱりしたとこここだけ,みたいな臭いしとってん。おれ,あのアホみたいな博物館好きやったわ。視聴室行こ思たらインディアン室通らなあかんかってん。長い長い部屋で,そこ大きい声出したらあかんねん。先生先頭なって,生徒付いていくねん。生徒,二列なって,男女二人一組なんねん。おれたいていガートルード・レヴィーンいうやつと組なってん。そいついっつも手握ってきよんねんけど,そいつの手いっつも,べとべとか,じわっと汗かいてるか,そんなんやってん。床全部石で,ビー玉何個か持ってて落としたら,床のあっちこっちにパンパンてきちがいみたいに撥ねてって,めちゃめちゃ大騒ぎなんねん。ほしたら,先生列止めて,なにあったんて見に後ろのほう来んねん。エーグルティンガー先生,けど怒ったことなかったわ。ほんでインディアンが戦い出るときの長い長いカヌーの前通んねん,キャディラック,アホみたいに三台並べたぐらいの長さで,インディアン二十人ぐらい乗っとって,カヌー漕いでるやつもおるし,いかつい顔で立ってるだけのやつもおって,みんな顔に戦闘用の化粧してんねん。カヌーの後ろのほうにお化けみたいなやつおって,仮面着けとおんねん。そいつ呪術医やねん。なんやこいつてびっくりしたけど,なんか好きやったわ。ほんで,だれか歩いてて橈かなんか触ったら,警備のおっさん「触ったらあきまへんでえ」言いよんねん。それ,いっつも感じええ声で,アホのお巡りみたいちゃうねん。ほんで,でっかいガラス・ケースの前通んねんけど,そんなかでインディアン木の枝擦って火熾したり,嫁さん毛布織ったりしとおんねん。その毛布織ってる嫁さん,ちょっと前屈みなっとって,乳とか見えんねん。おれらみんな,こそっとそれ見に行ってん。女も見とったわ。そのころは子どもやから,女子かておれらと同じような胸しとったから。ほんで,視聴室入るほん手前,扉んとこにエスキモーおんねん。凍った池に穴開けて座って魚釣っとおんねん。穴の横に魚二匹ぐらいおんねん。そいつ釣ったやつ。ううわあっ,あの博物館,ガラス・ケースだらけやで。上の階行ったらもっとあんもん。水湧きでるとこで鹿水飲んでるやつとか,冬なって鳥南のほう飛んでいくやつとか。手前のほうの鳥,剥製で針金で吊ったあんねんけど,後ろのほうのん壁に描いたあんねん。けどみんなホンマに南のほう飛んでるように見えんねん。ほんで,体曲げて頭下にしてさかさまから見たら,もっと急いで飛んでるみたいに見えんねん。けどあの博物館のいっちゃんええとこ,いつ行ってもみんなちゃんと元の場所置いたあることやわ。だれも動かそうてせえへんねん。あっこ十万回行っても,エスキモー魚二匹釣ったとこやし,鳥ずっと南に飛んでるとこやし,鹿小さい角生やして細い脚で立ってやっぱり湧水飲んどおるし,乳見えてる嫁さんあいかわらず同じ毛布織っとおんねん。だれも変わろてしてへんねん。唯一変わってるもんあるとしたら,自分やねん。自分が昔と比べて年とったとか,そういうことちゃうねん。そういう意味ちゃうねん,ぜんぜん。ただ自分だけは前とちゃうねん。今回はオーヴァーコート着て来たとか。前に二人一組なったやつが猩紅熱かかって,今回は別のやつと組なってるとか。エーグルティンガー先生やのうて,代理の先生引率してるとか。それか,おかんとおとんバスルームですごい喧嘩してる声聞いてもたとか。それか,道の水たまりでガソリンの虹見たとか。なんか前とちゃうとこあるやん──なんて言うてええんか分からんけど。まあ,もし言えたとしても,そんなん説明する気せえへん思うけど。
おれ歩きながらポケットからハンティング帽出して被ってん。おれのこと知ってるやつ,だれにも会えへんやろ思たし,外霧出とったし。ほんでずっと歩いて,フィービーがおれみたいに土曜にあの博物館行くん想像しとってん。おれ見たんと同じもんフィービーどう見てんねやろとか,それ見るたびフィービーどう変わってんねやろとか。悲しなることはなかったけど,想像してみて,めちゃめちゃええことは思いつけへんかったわ。そこにいまあるとおりに,ずっとあらなあかんもんてあんねん。そういうもんは,でっかいガラス・ケース入れてみんなそのまましとけるようにしたらええねん。そんなん無理やいうんは分かるけど,そんなんひどすぎるやん。とにかく,そんなこと考えながら歩いとってん。
子どもの遊び場んとこで小さい子ふたりシーソー乗っとって,おれ止まって見とってん。ひとりの子デブやったから,痩せてるほうの子の端んとこ手で押して釣りあうようにしたってんけど,その子ら,おれが横におんのん嫌そうやったから,また歩いていってん。
そのあと,おもろかったわ。博物館着いたら,おれ急に,百万ドルやるわ言われても中入る気せえへんようなってん。入る気せえへんかってん──ここまでずっとアホみたいに公園んなか歩いてきて,この博物館のこといろいろ思いだしたりしとったのに。もしフィービーおったとしたら中入ってたやろけど,おれへんかったし。せやから博物館の前でタクシー拾てビルトモア行ってん。あんま行きたなかったけど,アホみたいにサリーと約束してもうたし。
17
ビルトモア着いてもまだ早かったんで,ロビーの時計のすぐ近くんとこで革張りの寝椅子座って,そこらおった女見とってん。もう休みなってる学校いっぱいあったから,デートの相手来んのん待って立ったり座ったりしてる子百万人ぐらいおってん。脚組んでるやつ,脚組んでへんやつ,ええ脚してるやつ,カスみたいな脚のやつ,お嬢さんみたいに見えるやつ,知りおうたら根性悪そうなやつ。ホンマええ眺めやったわ,分かるやろ。けどある意味,悲しかってん。このあとこの子らどうなんねやろてずっと気になっとったから。高校とか大学出たあと。たいがいの子,たぶんアホなやつと結婚すんねん。おれの車一ガロンでどんだけ走るとかアホみたいにいっつも言うとおるやつとか,ゴルフで叩いたら子どもみたいにめちゃめちゃ苛つきよるやつとか,ピンポンみたいなアホなゲームでも苛つくやつとか,めちゃくちゃ狡いやつとか,本いっこも読めへんやつとか,めちゃくちゃおもんないやつとか──けど,それ言うとむつかしいわ。だれがおもんない言いだしたら。おれ,だれがおもんないやつかてよう分からんねん。ホンマ。エルクトン・ヒルズおったとき,二か月ぐらいハリス・マクリンいうやつと同室やってん。めちゃくちゃ頭良かってんけど,おれいままで会うたなかでもかなりおもんないやつやってん。めちゃくちゃガラガラの声してて,ずうっとなんか喋っとおんねん,ホンマ。ずっとなんか喋っとおんねんけど,そいつうっとおしいんは,そもそもだれも聞きたないことばっかり言うとおんねん。けど,いっこすごいとこあってん。そいつ,おれ知ってるなかでいっちゃん口笛上手いねん。ベッド直してるときとか,クローゼットになんか吊るしてるときとか──そいつ,いっつもクローゼットになんか吊るしとってん──むかついたわ──そういうとき口笛吹いとおってん,ガラガラ声で喋ってへんかったら。クラシックの曲とかも吹いとったけど,だいたいジャズやったわ。「ティン・ルーフ・ブルース」みたいなコテコテのジャズ,ええ感じで軽々と口笛吹きよんねん──クローゼットになんか吊りながら──あんなん聞いたらみんなびびる思うで。そんなん,あいつにいっかいも言うたことないけど,当然。「おまえ口笛すごいなあ」とかわざわざ言いに行けへんやん。あいつおもんなさすぎておれ半分気狂うまでまるまる二か月ぐらい同室やってんけど,それ,あいつ口笛すごい上手かったからやねん。いままで聞いたなかで,いっちゃん上手かったわ。せやから,だれがおもんないかて分からんねん。どっかのお嬢さんがそういうやつと結婚すんの見ても,もしかしたらあんま気の毒に思わんでええんかもしれんわ。そいつら暴力ふるえへんし,たいがい。ほんでもしかしたらすごい口笛上手いかもしれんやん。だれにも分からんけど。おれは分からんわ。
やっとサリー階段上がってきよったから,おれ迎えに階段降りてん。すごいお洒落やったわ。ホンマ。黒いコート着て黒いベレー帽みたいなん被っとってん。いっつもあんまり帽子被りよれへんねんけど,そのベレー帽よかったわ。おもろかったん,おれそんときサリー見た瞬間,こいつと結婚したい思てん。おれアホやわ。それ認めてるやろ。
「ホールデン!」サリー言いよってん。「まあ嬉しいわ! 何年ぶりやろ」あいつ,どっか外で会うとき,声めちゃくちゃでかいから困んねん。そんときあいつアホみたいにかわいかったから気になれへんかったけど,あのでかい声いっつもケツからぶりぶり出したなったわ。
「ばっちりやんけ」おれ言うてん。本気やったわ。「元気?」
「完全に快調。待たしてもうたかな?」
いや,ておれ言うてん。ホンマは十分ほど遅れとってんけど,文句言えへんかってん。『サタデー・イーヴニング・ポスト』とか載ってる漫画で,デートの相手遅刻してるからどっかの角で男めちゃめちゃ苛々してるいうウンコみたいなんあるやん──あんなん嘘やん。来た女ばっちりやったら,遅刻してだれ文句言う。だれも言えへんわ。「ちょっと急がな」おれ言うてん。「芝居始まんの二時四十分やねん」おれら,タクシーおるほうの階段降りてん。
「なに見んの」あいつ言いよってん。
「知らん。ラント出てるやつ。それしか切符取られへんかってん」
「ラント! 素敵やん!」
ラントて聞いたら,あいつ大騒ぎしよるてさっき言うたやろ。
劇場行くタクシーんなかで,おれらちょっとじゃれとってん。はじめサリー嫌がっとってん,口紅とか塗っとったから。けどおれめちゃめちゃ燃えとったし,サリーもほかの選択肢なかったわ。タクシー二回アホみたいに急停止して,おれアホみたいに座席から落ちそうなってん。あいつら運転手,アホやから前見とおれへんねん,ホンマやで。ほんで,おれどんだけアホやねんいうことやけど,あいつのことグー抱いてパッと離れたとき,おれあいつに好きやとか言うてん。嘘やねんけど,当然。けどそれ言うたとき,本気やってん。おれアホやねん。ホンマにアホやわ。
「うん,わたしも好きやで」あいつ言いよってん。ほんでアホみたいに息継ぎせんと言いよってん。「髪の毛伸ばすて約束して。クルー・カットて最近なんかかっこ悪いやん。せやし,あんたの髪の毛かわいいわ」
かわいいてアホか。
芝居,それまで見たなかでは悪なかったわ。けどやっぱりウンコみたいやったわ。年寄り夫婦の,だいたい五十万年ぐらいの人生描いとってん。はじめ,ふたりまだ若うて,女の親がその男と結婚すんな言いよんねんけど,結局結婚すんねん。ほんで,あとはどんどん年とっていくねん。旦那,戦争行って,奥さんのほうは,酒ばっかり飲んでる弟おんねん。まあ,どうでもええことばっかりやったわ。おれ,だれかの家族死ぬとかあんまどうでもええねん。どうせあいつらみんな役者やん。旦那と奥さん,けっこうええ感じの年寄り夫婦やったわ──めちゃくちゃひねったこと言うとったわ──けどあんま興味持たれへんかってん。まず,そいつら劇のあいだ中紅茶とかアホみたいにずっと飲んどおんねん。気ついたら,執事みたいなやつそいつらに紅茶出してたり,奥さんだれかに紅茶注いだりしとんねん。ほんで,ずっとだれか入ってきて,だれか出ていくねん──あんなみんな座ったり立ったりしてんの見たら目回んで。アルフレッド・ラントとリン・フォンタン,年寄り夫婦やっとって,めちゃくちゃよかってんけど,あんま好きなられへんかったわ。たしかに,あのふたりは違たわ,それは認めるわ。ふつうの人間みたいに演技してたわけでもないけど,俳優みたいに演技してたわけともちゃうかってん。説明すんのむつかしわ。どっちか言うたら,あのふたり,自分らが有名人て分かってますいう演技しとってん。ええ役者やねんけど,良すぎんねん。どっちか台詞言いおわったら,もうひとりがすぐなんか言うねん。ふつうの人間がホンマに喋ったり,相手の話に口挟んだりするとき,そうなってるて考えよってんやろな。問題は,それが,喋ったり相手の話に口挟んだりする人間に似すぎてることやねん。ちょっとアーニーに似てるわ,ヴィレッジでピアノ弾いてる。やってること良すぎたら,そのあと気つけんと,それ見せびらかしてまうねん。ほしたらもうあかんようなんねん。けどまあその芝居でホンマに脳みそ持ってるように見えたん,そのふたりだけ──ラント夫妻だけやったわ。それは認めなしゃあないわ。
一幕終わったとき,おれらほかのアホどもといっしょに煙草吸いに外出てん。かなんかったわ。あんないっぱいパチもん集まってんのん生まれて初めて見たで。みんな耳飛んでいくぐらい煙草吸うて,ほかのやつらに聞こえるように芝居の話して,自分どんだけ鋭いこと言うてるか聞かせよてしとおってん。なんかアホな映画俳優のやつ,煙草持っておれらの近くおってん。名前知らんけど,いっつも戦争映画でよし行くぞいうときヘタレんなる役やっとおるやつ。そいつ,すごい金髪の女連れとってんけど,そいつらふたりともめちゃくちゃ倦怠感とか醸しだそてしとってん,なんかほかの客が自分らのこと見てんの気ついてませんよ,みたいに。めちゃめちゃ謙虚やん。おもろかったわ。サリー,ラント見たいうてはしゃいだ以外,あんま喋れへんかったわ。そのへんおるやつらにええ女や思われよてして,かっこつけんの忙しかったんや思うわ。ほしたら急にサリー,ロビーの向こうに知りあいのアホおんの見つけよってん。濃いグレーのフランネルのスーツとチェックのヴェスト着とおるやつ。まさにアイヴィー・リーグやん。かなんで。そいつ壁んとこ立って,死ぬほど煙草吸うて,めちゃめちゃおもんないいう顔しとってん。サリーずっと「あのひと知ってるわ,どっかのひとやわ」言うとってん。あいつ,どこ連れてっても,いっつもだれかのこと知ってる言いよんねん。そう思いよんねん。あいつずっと言うとおるから,おれめちゃめちゃ飽きあきして言うたってん。「知りあいやったら,あいつんとこ行って,ぶちゅーキスしたれや。喜びよんで」そう言うたら,あいつ怒りよったわ。けど結局,そのアホのほうがサリーに気ついて,こっちまで挨拶に来よってん。そいつ挨拶すんのん見てほしかったわ。こいつら二十年ぶりに会うたんか思たで。小さいとき,いっしょに風呂入っとったんかみたいな感じやったわ。幼馴染みたいな。ゲエ吐きそうやったわ。たぶんあいつら一回しか会うたことないねんで,どっかのパチもんのパーティーで。おもろかったわ。キスしてしばらくべたべたしてから,サリー紹介しよってん。そいつジョージなんとかいうて──もう忘れたわ──アンドーヴァー行っとってん。そらかなんわ。この芝居どう思うてサリー訊いたとき,そいつなにしたか見てほしかったわ。そいつ,質問答えんのに相手と距離取らなあかんパチもんやねん。ほんで後ろ下がったら,後ろおった女のひとの足踏みよってん。たぶん足の指の骨全部折りよったわ。ほんでそいつ,芝居それ自体は傑作ちゃうけど,ラントとその一座はもちろん絶対的な天使や言いよってん。天使て。アホか。天使。びびったわ。ほんでそいつとサリー,ふたりとも知ってるやつの話しとおってん。あんなパチもんの会話,人生で見たことない思うで。ふたりでどっかの地名言うて,そこ住んでるやつ思いだして,そいつの名前言いよんねん。席戻る時間なったとき,おれいつでもゲエ吐ける準備できとったわ。ホンマ。ほんで次の幕終わっても,あいつらおもんない会話の続きアホみたいにしとおんねん。ずっとどっかの地名言うて,そこ住んでるやつの名前言うとおんねん。最悪やったんは,そのアホ,めちゃくちゃパチもんのアイヴィー・リーグぽい喋りかたしとってん。めちゃくちゃ力ない,上流気取りの喋りかた。女みたいな喋りかたやったわ。せやのに平気でひとのデート邪魔しよんねん,あのアホ。芝居終わったあと,そいつアホみたいにおれらといっしょにタクシー乗ってきよるんちゃうかてしばらく心配なったわ。ブロックふたつぶん付いてきよってんもん。結局,別のパチもんの仲間とカクテル飲みに行く約束ある言うて行ってまいよったけど。そいつらみんなどっかのバー座って,アホみたいなチェックのヴェスト着て,力ない上流気取りの喋りかたで,芝居とか本とか女の悪口言うとおんのん目に浮かぶわ。びびるわ,あいつら。
アンドーヴァーのパチもんのアホと十時間ほど喋ってんの聞いとったから,おれタクシー乗ったときサリーのこともう嫌なっとってん。あとは家まで送っていくだけのつもりやってん──ホンマ──けど,あいつ言いよってん。「素敵なアイデアあんねん!」あいついっつも素敵なアイデア思いつきよんねん。「聞いて」あいつ言うてん。「晩ごはん,何時に帰ったらええ? 大急ぎの用事とかない? 何時までに帰らなあかんとかある?」
「おれ? ない。とくにいつて決まってない」おれ言うてん。それほど真実な言葉なかったわ,ううわあっ。「なんで」
「レーディオ・シティーにアイス・スケートしに行こうや!」
あいつのアイデアて,いっつもそんなんやねん。
「レーディオ・シティーでアイス・スケート? それいま?」
「ちょっと一時間ぐらいやん。スケートしたない? それか──」
「したないとは言うてへん」おれ言うてん。「わあった。おまえ行きたい言うんやったら」
「それ本気? 本気ちゃうかったらそんなん言わんといてや。分かってるやろ,行っても行かんでもわたし文句なんかひとつも言えへんよ」
ひとつどころか。
「あそこ,かわいいスケート用の小さいスカート借りれんねん」サリー言いよってん。「ジャネット・カルツが先週借りてんて」
せやからすごい行きたがっとってん。ケツとかのまわり小さいスカートで覆てる自分の姿見たかっただけやねん。
ほんで行ってスケート借りたあと,サリー,青い小さい,ケツくいって締めあげる衣裳借りよってん。けどサリーそれ着たらホンマ,アホみたいに似合とったわ。それはしゃあない,認めるわ。ほんで,それサリーも分かってなかったとは言わせんわ。あいつずっとおれの前歩いていきよんねん,自分の小さいケツどんだけかわいいかおれに見せよてして。実際かなりかわいかったわ。それはしゃあない,認めるわ。
けどおもろかったん,おれらリンク中でスケートいっちゃん下手やってん。アホみたいに,だれよりも。しかも,えらいこと起きてん。サリーの両脚だんだん内側に曲がって,とうとう両方の足首ほんま氷に着いてもうてん。めちゃめちゃアホみたいな恰好やし,たぶんめちゃくちゃ痛かった思うわ。おれも痛かったもん。おれも死にそうなぐらい痛かってん。みんな,こいつらすごいな思て見てた思うわ。滑ってへんやつら二百人以上,そのへん立って,みんな勝手にこけんの見物しとったから。
「なかのテーブル座ってなんか飲めへんか」とうとうおれサリーに言うてん。
「今日一日中あんたが言うたなかで,それいちばん素敵な言葉やわ」あいつ言いよってん。自虐しとったわ。残酷やったわ。あいつのことホンマ気の毒なったわ。
おれらアホみたいなスケート脱いで,靴下だけでなんか飲めてスケートしてるやつら見てられるバー入ってん。サリー,座ったらすぐ手袋外して,おれ煙草勧めてん。あいつ,あんま楽しそうちゃうかったわ。ウェーター来て,サリーのぶんコーラ頼んで──サリー酒飲めへんねん──おれのぶんスコッチのソーダ割り注文してんけど,アホが出せません言いよったから,おれもコーラ飲んでん。ほんでおれ,マッチの火点けだしてん。そんな気分のとき,おれそれようやんねん。もう持たれへんようなるまで燃えるままにしとくねん,ほんで灰皿捨てんねん。神経質な癖やわ。
ほしたら急に,快晴の青空からサリー言いよってん。「なあ,はっきりさせて。あんたクリスマス・イヴにうちでトゥリー飾んの手伝いに来てくれんの,くれへんの,どっちやの。はっきりさせて」あいつ,足首痛かったせいで,そんときも言いかたきつかったわ。
「行くつもりやて手紙書いたやん。それもう二十回ぐらい訊いてんで。行く予定にしてる」
「はっきりさせて言うてんの」あいつ言いよってん。ほんでアホみたいに部屋中見回しよってん。
急におれマッチ点けんの止めて,テーブルのうえであいつのほう身乗りだしてん。言いたいこといっぱいあってん。「なあ,サリー」おれ言うてん。
「なに」あいつ言うてん。部屋の向こうのほうおる女の子のこと見とったわ。
「もううんざりやて思たことある?」おれ言うてん。「ここでなんかせな,なにもかもカスみたいなってまうん目に見えて,怖なったことある? 学校とか,そのへん好き?」
「ぜんぜんおもしろないわ」
「それ,嫌いうこと? すごいおもんないいうんは分かるけど,学校嫌なん?」
「うーん,ちゃんと言うと嫌ではないわ。あんたいつも──」
「うーん,おれは嫌やねん。ううわあっ,どんだけ嫌か」おれ言うてん。「けどそれだけちゃうねん。全部嫌やねん。ニュー・ヨーク住んでんのが嫌やねん。タクシーとか,マディソン・アヴェニューのバス,いっつも運転手,後ろのドアから降りてくださいて怒鳴っとおんのとか,ラントのこと天使や言うパチもん紹介されんのとか,ちょっと外行きたなっただけでエレヴェーター乗らなあかんのとか,ズボンの裾上げいっつもブルックスでしよるやつとか,いっつも──」
「小さい声で喋ってくれへん」サリー言いよってん。めちゃくちゃおもろかったわ,おれ大きい声なんか出してなかったのに。
「たとえば車や」おれ言うてん。めちゃくちゃ静かな声で言うてん。「たいていのやつは車好きやねん。ちょっと傷いったら気にしよるし,いっつも一ガロンで何マイル走るかばっかり話しとおんねん,ほんで新車買うたらすぐもっと新しいんに買いかえよ思とおんねん。古い車が好き言うてんのちゃうねん。車なんかどうでもええねん。おれやったら馬飼うわ。すくなくとも馬は人間やん。すくなくとも馬は──」
「話聞いてても,なに言うてるか分からんわ」サリー言いよってん。「話が飛躍──」
「あんな,聞いてくれ」おれ言うてん。「おれがいまここでニュー・ヨークおる唯一の理由は,たぶんおまえやねん。てか,ニュー・ヨークやのうても。もしおまえが近くおってくれへんかったら,おれたぶんとんでもないとこ行ってまう思うわ。森んなかとかアホみたいなとこ。おれがここおる理由は,おまえだけやねん,実際」
「うまいこと言うわ」サリー言いよってん。けど,そんなアホみたいな話題変えてほしかったやろ思うわ。
「いつか男子校行ってみたらええわ。いつか行ってみて」おれ言うてん。「パチもんだらけやねん,やってるこというたら,いつかアホみたいなキャディラック買えるぐらい頭良うなるようにもの覚える勉強だけやねん,ほんでフットボール部負けたら悔しいていっつも信じてなあかんし,やってるこというたら,一日中女と酒とセックスの話してるだけやねん,ほんでみんな汚いちっこいアホみたいな派閥作っとおんねん。バスケットボール部のやつらいっしょに集まっとおるし,カトリックのやつらいっしょに集まっとおるし,アホみたいに頭ええやつらいっしょに集まっとおるし,ブリッジやるやつらいっしょに集まっとおんねん。ブック-オヴ-ザ-マンス・クラブ入ってるやつらもアホみたいにいっしょに集まっとおんねん。ちょっとでも頭良かったら──」
「なあ,聞いて」サリー言いよってん。「たいていの男子はそんなん以外に学校でいろいろ身に付けてんで」
「そうや! そらそうや,そんなんちゃうやつもおるわ。けど,おれは学校でそれしか身付けてへんねん。それでええか? それがおれの言いたいことやねん。まさにそれが,おれがアホみたいに言いたいことやねん」おれ言うてん。「おれ,学校でもなんでも,そんなんしか身付けてへんねん。おれ,そんなんなってもうてん。カスみたいなってもうてん」
「たしかに,そやな」
ほしたら急に思いついてん。
「なあ」おれ言うてん。「おれ考えてることあんのん聞いて。こんなとっから出ていけへんか。おれ考えてることあんのん聞いて。おれ,二週間ぐらい車借りれる知りあい,グレニッチ・ヴィレッジにおんねん。前に同じ学校行ってて,十ドル貸したままなってんねん。せやから明日の朝,マサチューセッツとかヴァーモントとかあのへんずっとおまえとおれと車で行こうや。あのへんめちゃめちゃきれいやで,ホンマ」おれ,そんなん考えてるうちめちゃめちゃ興奮して,アホみたいに手伸ばしてサリーの手握ってん。おれどんだけアホやったか。「嘘ちゃうで」おれ言うてん。「おれ銀行に百八十ドルぐらい持ってんねん。朝銀行開いたら,それ下して,ヴィレッジ行ってそいつの車借りてくるわ。嘘ちゃうで。ほんでそのカネなくなるまで,小屋あるキャンプ場とかそんなとこおろうや。ほんで,そのカネなくなったら,おれどっかで仕事見つけるから,小川とか流れてるようなとこ住もうや,ほんでそのあといつか結婚とかしょう。冬とか自分とこの木おれ切るわ。正直すごい楽しい生活なるわ! どうや。なあ! どうや。いっしょに付いてきてくれへん? お願いや!」
「あんたそんなんでけへんやん」サリー言いよってん。めちゃくちゃ怒ってる口調やったわ。
「なんで。なんでそんなん言うねん」
「もう,大きい声出さんといて,お願いやわ」あいつ言いよってん。ウンコみたいなこと言いよってん,おれ大きい声なんか出してへんかったのに。
「なんでいっしょに行ってくれへんねん。なんで」
「あんたがそんなんでけへんからやん,それがすべてやわ。そもそもわたしらふたりとも実際は子どもやねん。あんた,自分がお金なくなったときもし仕事見つかれへんかったらどうしようて立ちどまって考えたことあるん? あんたが仕事見つかれへんかったら,わたしら餓死すんねんで。そんなん全部絵空事やん──」
「絵空事なんかちゃうわ。もしそうなったら仕事見つけるわ。そんなん心配すんな。おまえはそんなん心配せんでええねん。なにが問題やねん。おれと行くのが嫌なんか。嫌やったらそう言うて」
「そういうことちゃうやん。ぜんぜんそういうことちゃうやん」サリー言いよってん。おれ,ある意味サリーのこと嫌いなりかけとったわ。「そんなんする時間,将来なんぼでも作れるやん──あんたの言うてること全部。あんたが大学とか行ったあとからでも,かりにわたしらが結婚とかしてからでも。そうしてからやったら,行ったらええ素敵なとこて,なんぼでもある思うわ。せやのにあんた──」
「いや,そんなんない思うわ。そんなあとなってから行ったらええとこなんかいっこもない思うわ。完全に変わってまうやん」おれ言うてん。まためちゃめちゃ悲しなったわ。
「なに」あいつ言うてん。「聞こえへん。さっき大きい声で怒鳴った思たら,こんどは──」
「ない言うてん,おれが大学とか行ってもうたら,そのあと行ったらええ素敵なとこなんかない言うてん。よう聞いて。そのあとなったら完全に変わってまうねん。おれらスーツケースとか持って下の階行くのにエレヴェーター乗らなあかんようなんねん。みんなに電話して,行ってきます言うて,ホテルとかから葉書送らなあかんようなんねん。そのころ,おれどっかの会社で働いてんねん,ほんでいっぱいカネ稼いで,仕事でタクシーとかマディソン・アヴェニューのバス乗って,新聞読んで,いっつもブリッジやって,映画行ってアホな短編映画とか予告篇とかニュース映画とかいっぱい見てんねん。ニュース映画やて。かんべんしてくれ。いっつもしょうもない競馬やってるか,なんか女のひと船で瓶割ってるか,チンパンジー,ズボン履いてアホみたいに自転車乗っとおるやつやん。そんなん,ぜんぜん同じちゃうわ。なに言うてるかぜんぜん分からんやろけど」
「たぶん分からんわ! けど,あんたもたぶん分かってへんわ」サリー言いよってん。そんとき,おれらもう心底嫌いおうとったわ。頭ええ会話してみよいう感覚なくなっとったわ。あいつにそんな話したん,めちゃめちゃ後悔したわ。
「ほな,もう行こか」おれ言うてん。「もう,おまえのことケツからぷりぷりて出したいわ,マジで」
ううわあっ,おれそう言うたら,あいつ飛びあがって天井ぶつかるぐらいびっくりしよったわ。そんなん言うべきちゃうかったいうんは分かるし,おれたぶんふつうやったらそんなこと言えへんねんけど,あいついろんなこと言うから,おれめちゃめちゃ悲しかってん。ふつうやったら,おれ女にそんなひどいこと言えへんねん。ううわあっ,あいつ天井ぶつかるぐらいびっくりしとおったわ。おれ,きちがいみたいに謝ったけど,あいつ無視しとったわ。泣いとってん。ちょっとやばいなあ思てん。あいつ,家帰って,むこうのお父さんに,おれにウンコ扱いされた言うかもしれんやん。むこうのお父さん,でっかい無口なひとで,おれのことあんま好きちゃうねん。いっかいおれのこと,アホみたいにうるさいてサリーに言いよってん。
「嘘ちゃうねん。ごめん」おれずっとあいつに言うとってん。
「なんであんたが気の毒そうにしてんねん。なんであんたが気の毒そうにしてんねん。そんなん,めちゃくちゃおかしいわ」あいつ言いよってん。まだ泣いとったわ。急におれ,そんなこと言うたんホンマに申しわけない思たわ。
「ほな,家まで送っていくわ。嘘ちゃうで」
「ひとりで帰れます,お気遣いいただきまして。あんた,わたし家まで送る役任せてもらえる思てんねやったら,頭おかしいで。そんなこと言うた子,人生でこれまでだれもおれへんかったわ」
考えてみたら分かるやろけど,全体としてはある意味おもろかってん。せやから急におれ,やったらあかんことやってもうてん。笑てもうてん。それも,めちゃくちゃカスみたいなアホな笑いかたで。もし映画館かどっかでおれが後ろ座っとったとしたら,たぶん身乗りだして,静かにしてください言いたなる笑いかたやったわ。サリー,それまで見たことないぐらい怒りよってん。
おれしばらくサリーの側おって,謝って許してもらおてしてんけど,許してもらわれへんかったわ。あいつずっと,もうどっか行って,もう帰って,て言うとってん。せやから結局そうしてん。おれ,中入って,靴とか取って,あいつ置いて帰ってん。そんなんするべきちゃうかったけど,そんときもうアホみたいに飽きあきしとってん。
なんでおれあんな話あいつにしたんか,いまでも分からんわ,マジで。マサチューセッツとかヴァーモントとかどっか行こう言うたん。そんなん,たとえあいつが行きたい言うても,たぶんあいつ連れてったらあかんやつやん。いっしょに行くとしたらだれて考えたら,あいつではないやん。けど,ひどかったん,おれあいつにいっしょに行ってくれ言うたとき本気やってん。それがいっちゃんひどいわ。ホンマ,おれアホやわ。
18
スケート・リンク出たら腹減ったな思て,ドラッグストアでスイス・チーズのサンドウィッチと麦芽乳買うて,電話ボックス入ってん。たぶんまたジェーンに電話して,もう家おるかどうか確かめよ思とってん。その日の晩まるまるなんもすることなかったから,ジェーンに電話して,もし家おったらどっか踊りに行くのんとか誘お思とってん。おれジェーンと知りおうてからいっかいも踊ったこととかなかってん。ジェーン踊ってんのは見たことあんねんけど。めちゃくちゃ上手そうやったわ。クラブの独立記念日のダンスで。そんときジェーンのことよう知らんかったから,デート割りこんだらあかん思てん。そんときの相手,アル・パイクいう気色悪いやつで,チョート行っとってん。そいつのことよう知らんかったけど,いっつも水泳プールのへんでうろうろしとおってん。白いラステックスの海パン穿いて,いっつも高飛びこみしとおってん。一日中ずっと同じカスみたいな半前逆飛びやっとおんねん。そいつできる飛びこみそれだけやってんけど,めちゃくちゃかっこええ思とおんねん。全身筋肉で脳みそないねん。とにかくその晩ジェーン,デートしとったん,そいつやってん。理解でけへんかったわ。ホンマ理解でけへんかったわ。おれら付きあうようなってから,ジェーンになんであんなアル・パイクみたいな目立ちの嫌なやつとデートなんかできんねんて訊いてみてん。ほたら,アルは目立ちたがりちゃうてジェーン言いよってん。劣等コンプレックス持ってんねんて。そんときジェーン,そいつのことかわいそうとか思てるみたいな感じやったし,その場しのぎの言いわけちゃうかってん。本気で言うとおってん。そういうのん,女のおもろいとこやわ。正真正銘の嫌なやつの話して──めちゃくちゃ狡いとか,めちゃくちゃイキってるとか──それ女に言うたら,劣等コンプレックスのせいや言いよんねん。そうかもしれんけど,せやからいうて嫌なやつやなくなるわけちゃうやんておれ思うねん。女か。同じもん見てもどう思いよんのか,ぜんぜん分からんわ。いっかいロバータ・ウォルシュいう女のルームメートに,おれの友だち紹介して,そいつらデートしたことあってん。おれの友だち,ボブ・ロビンソンいうて,そいつはほんまに劣等コンプレックス持っとってん。親両方とも「わし」とか「うち」とか言うし,あんま金持ちちゃうかったから,おとんとかおかんのことめちゃくちゃ恥ずかし思とった思うわ。けど嫌なやつちゃうかってん。ええやつやってん。せやのに,ロバータ・ウォルシュのルームメート,そいつのこと気に入らんかってん。そいつロバータに,あのひとイキりすぎや言いよってん──そう思た理由て,ボブが弁論部の主将や言うたからやねんて。そんなちっさいことでイキってるて! 女の問題点は,もし女が男のこと好きなったら,どんだけ嫌なやつのことでもあのひとは劣等コンプレックス持ってる言うし,男のこと気に入れへんかったら,どんだけええやつでもどんだけ劣等コンプレックス持っとっても,あいつイキってる言いよんねん。頭ええ女でもそんなこと言いよんねん。
とにかく,おれまたジェーンに電話してんけど,だれも出えへんかったから切ってん。ほんで,その晩だれやったらつかまんねん思て,しゃあないから住所録見てん。けど,おれの住所録,三人しか載ってへんかってん。ジェーンと,アントリーニ先生いうてエルクトン・ヒルズんときの先生と,おとんの会社の電話番号。おれ住所録書くん,いまでも忘れてるわ。ほんで結局,カール・ルースに電話してん。そいつ,ウートン高校の卒業生やねん。そいつ卒業したとき,おれやめとったけど。おれよりみっつぐらい年上で,おれそいつのことあんま好きちゃうかってんけど,めちゃくちゃ頭ええやつやってん──ウートンでいっちゃん知能指数高かってん──せやから,そいつやったらどっかでおれと飯食いながら,ちょっと頭ええ会話とかしたがるんちゃうか思てん。そいつときどき,めちゃくちゃはっとすること言いよんねん。せやから電話してん。コロンビア通とおんねんけど,六十五丁目とか住んどったから,家おんの分かっててん。そいつ電話出て,飯は無理やけど,十時に五十四丁目のウィッカー・バー来てくれたら一杯付きあうわ言いよってん。いま考えたら,おれから電話かかってきて,かなりびっくりした思うわ。おれいっかいそいつのこと,ケツでかいパチもん言うたから。
十時まで暇潰さなあかんかったから,おれレーディオ・シティーに映画見に行ってん。たぶん最悪の選択やった思うけど,レーディオ・シティー近かったし,ほかなんも思いつけへんかってん。
入ったら,アホみたいなステージ・ショーやっとっとわ。ロケッツ,頭当たるぐらい脚蹴りあげとってん。全員横一列なって,隣のやつの腹に腕回してやるやつ。客アホみたいに拍手して,おれの後ろのおっさん,嫁さんにずっと言うとおんねん。「あれがなんか分かるか。あれを正確無比言うねん」びびったわ。ロケッツの次,タキシード着てローラー・スケート履いたやつ出てきてん。そいつ,小さいテーブル並べてその下スケートで滑りながらジョーク言いよんねん。めちゃくちゃスケート上手かったけど,おれあんまおもろい思われへんかったわ。ローラー・スケート履いた芸人なろ思てそいつ稽古してるとこ,ずっと想像しててん。アホみたいや思たわ。いま思たら,おれそんなん見る気分ちゃうかってん。ほんでその次,レーディオ・シティーで毎年やってるクリスマスのやつ始まってん。箱とかいろんなとっから天使とか出てきて,十字架とか持ったやつそこら中におって,そいつら全員で──何千人で──アホみたいに「神の御子は今宵しも」歌いよんねん。かなんで。そういうん,めちゃめちゃ敬虔なもんいうことなってるやん,ほんでめちゃくちゃかわいいとか。けど舞台中に十字架持ってる役者おんのん,なにが敬虔でかわいいんか分からんわ。あいつら出番済んでまた箱から出ていったら,すぐ煙草でも吸おかてなりそうやん。おれそれ前の年サリー・ヘーズといっしょに見てんけど,あいつ衣裳とかすごいきれいてずっと言うとったわ。せやからおれ,こんなんもしイエスが見たらたぶんゲエ吐くわて言うてん──こんな派手な衣裳とか見たら,て。サリー,おれのこと神を冒涜してる無神論者や言いよってん。たぶんそのとおりやわ。イエスがもしホンマに見たとしたら気に入んの,オーケストラでティンパニ叩いてるやつや思うわ。おれ八歳ぐらいのときから,そのおっさん見てんねん。弟のアリーとおれ,親とかといっしょに来たとき,そのおっさん見えるように,よう前のほう席移ってん。そいつ,おれいままで見たなかでいっちゃんドラム上手いねん。曲全体でそのおっさんティンパニ叩くん二,三回しかないねんけど,待ってるあいだぜんぜんおもんなさそうにしてへんねん。ほんで叩く時来たら,ええ感じの気持ちええ音出しよんねんけど,そんとき顔強張ってんねん。おれらいっかいおとんとワシントン行ったとき,アリーそのおっさんに葉書出してんけど,あれ届いてへん思うわ。おれら住所てどうやって書いたらええんかあんま知らんかったから。
クリスマスのやつ終わったら,アホみたいな映画始まってん。臭すぎて目離せんかったわ。イギリス人のアレックなんとかいうやつ出てきて,戦争行って記憶とか失くして入院しとおんねん。ほんで退院して,杖持って脚引きずりながら,そこら中,ロンドン中うろつきよんねんけど,自分だれか分からんねん。ホンマは公爵やねんけど,それ知らんねん。ほんでバス乗るとき,感じええ,愛嬌ある,正直者の女と出会いよんねん。女の帽子アホみたいに風で飛んで,それ男が捕まえんねん。ほんでふたりで上の階行って,座ってチャールズ・ディケンズの話しよんねん。ふたりともディケンズ好きやねん。男そんときたまたまディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』の本持っとったら,女も持っとおんねん。ゲエ吐いてもよかったわ。ほんで,その場で恋に落ちよんねん。ふたりともチャールズ・ディケンズ好きやからいうて。ほんで男,女がやってる出版社の仕事手伝いよんねん。女,出版社やってんねん。けど弟酒ばっかり飲んで家のカネ全部使てまいよるから,出版社うまいこといってへんねん。その弟,自暴自棄なってんねん。戦争んとき医者やってんけど,神経撃たれてもう手術でけへんようなってん。せやからいっつも酒ばっかり飲んでんねんけど,けっこう頭ええねん。ほんでまあアレック本書いて,女それ出版して,ふたりともそこそこカネ稼いで,いよいよ結婚しょうかいうときなって,マーシャいう別の女出てきよんねん。その女,アレックが記憶失くすまえ婚約者やってん。ほんでアレックが本屋でサイン会してんの見てアレックやて分かりよってん。マーシャ,アレックに,あんたはホンマは公爵やとか言いよんねんけど,男それ信じひんし,男のお母さんとこいっしょに行こて誘われても断りよんねん。おかん,蝙蝠みたいに目見えへんねん。けど愛嬌あるほうの女が,男行かせよんねん。めちゃくちゃ気品あったわ。ほんで男おかんとこ行くねんけど,グレート・デーンそいつのまわり跳びついても,おかん男の顔中指で触っても,男が子どもんとき涎垂らしとった熊のぬいぐるみ持ってきても,記憶戻れへんねん。けどある日,子どもらが芝生でクリケットしとって,男の頭にクリケットのボール当たんねん。ほしたら急に男の記憶アホみたいによみがえって,そいつ家入っておかんのでことかキスしよんねん。ほんでそいつ元通りの公爵なんねんけど,出版社やってる愛嬌ある女のこと忘れてまうねん。その続き言うてもええけど,もし話したらゲエ吐くかもしれんわ。もし話したらオチばらしてまうとかいうんちゃうで。ばらしたらあかんようなことなんか,なんもあれへんわ。とにかく最後,アレックと愛嬌ある女結婚して,飲んだくれの弟神経治ってアレックのおかんの手術して,おかん目見えるようなって,弟とマーシャ付きあいよんねん。最後は全員長いディナー・テーブル座って,グレート・デーン子犬いっぱい連れてきよったから,みんなケツちぎれるぐらい笑いよんねん。みんなその犬オスや思とったんちゃうか,なんか知らんけど。もし自分の体中にゲエ吐いてゲエまみれなりたないんやったら,そんなん見んないうことやわ。
おれの隣で見とったおばはん,その映画中アホみたいに泣いとってん。パチもんの場面ほど,泣いとってん。そんなん聞いたら,そのおばはんめちゃめちゃ心優しいから泣いとった思うやろけど,けどおれすぐ隣座っとって,ちゃうかってん。おばはん小さい子連れとって,その子めちゃめちゃおもんなさそうにして便所行きたがっとってんけど,おばはん連れていったりよれへんねん。ずっと子どもに,おとなしゅう座っとき,行儀ようしとき言うとおってん。あのおばはん心優しいんやったら,狼かて優しいわ。映画見てパチもんの場面で目玉落ちるぐらいアホみたいに泣くやつおったら,十人中九人性根嫌なやつやで。マジで。
映画終わって,カール・ルースと会うことなってるウィッカー・バーまで歩いてってん。歩きながら,戦争のこととか考えとってん。戦争出てくる映画見たら,いっつも戦争のこと考えてまうねん。おれ自分が戦争行け言われたら,耐えられへん思うわ。ホンマ。もしどっか連れていかれて鉄砲で撃たれるとかだけやったらまだええねんけど,長いことアホみたいに陸軍おらなあかんやん。それが問題やねん。兄貴のD.B.陸軍にアホみたいに四年もおってん。戦争も行ってん──D-デーに上陸とかしよってん──けど兄貴,戦争より陸軍のほうが嫌やったやろてホンマ思うわ。おれそのころ実際子どもやってんけど,兄貴休暇とかで家帰ってきたとき,ほとんどベッドで寝転んでるだけやってん。リヴィング・ルームにもほとんど入ってけえへんかってん。そのあと兄貴海外行って戦闘とかに参加してんけど,負傷とかせえへんかったし,だれのことも撃たんでよかってん。どっかのカウボーイの将軍指揮車乗せて一日中運転してただけやってん。もしだれか撃たなあかんようなったとしても,どんな方向に撃ったらええか分からんかったて,兄貴いっかいアリーとおれに言うとったわ。陸軍ほとんど嫌なやつばっかりで,それはナチスと変わりない言うとったわ。アリーいっかい兄貴に,兄貴作家やねんから書くこととかいっぱいできてある意味戦争行ってよかったんちゃうのて訊いたん覚えてるわ。兄貴アリーに野球のミット持ってこい言うて,いちばん上手い戦争詩人だれや,ルパート・ブルックかエミリー・ディキンソンかて訊きよってん。エミリー・ディキンソンやわ,てアリー言うとったわ。おれあんまり詩読めへんから,おれ自身はその話よう分からんかったけど,もしおれ陸軍入らなあかんようなって,アクリーとかストラドレーターとかモーリスみたいなやつらおる集団んなかずっとおって,そいつらと行進とかせなあかんとしたら,気狂うやろいうんは分かるわ。おれいっかいボーイ・スカウト入っとってん,一週間ぐらいやけど。それでも,前のやつの首の後ろ見てんの耐えられへんかってん。ボーイ・スカウト入ったら,前のやつの首の後ろ見とけてずっと言われんねん。もしまた戦争起こったら,おれのこと射撃部隊のまん前連れてって,そこ置いといてくれたらええわ。おれ反対せえへんわ。けどD.B.戦争あんな嫌やった言うてんのに,せやのに去年の夏おれに『武器よさらば』読ませよってん。すごい小説や言うて。それがおれ理解でけへんとこやねん。その小説にヘンリー中尉いうやつ出てきて,ええやついうことなってんねん。D.B.あんなに陸軍とか戦争とか嫌いやのに,せやのになんであんなパチもん好きなれんのか,おれ分からんねん。あんなパチもんの本好きや言うといて,せやのにたとえばリング・ラードナーの本も好きとか,もうひとつ『グレート・ギャツビー』も好き言うてられんの,おれホンマ分からんわ。おれそう言うたらD.B.怒って,おれがまだ若いから価値分からへんだけて言うてんけど,そうは思わんわ。おれリング・ラードナーとか『グレート・ギャツビー』は好きやで,て兄貴に言うてん。それは兄貴と同じやねん。おれ『グレート・ギャツビー』好きやねん。ギャツビー。貴様。あれ,びびったわ。とにかく原子爆弾発明されてよかったわ。もしまた戦争起きたら,おれ原子爆弾のてっぺん座ったろ思てんねん。それ志願しよ,ホンマそうするわ。
19
もしニュー・ヨーク住んでへんかったら分からんやろけど,ウィッカー・バーて,シートン・ホテルいう気取ったホテルんなかあんねん。おれ前しょっちゅう行っとったけど,いまはもう行ってへんわ。だんだん行けへんようなってん。めちゃくちゃ洗練されたとこいうことなってて,パチもん窓から入ってきよんねん。前はティナとジャニンいうフランス人の子ふたりおって,一晩に三回ぐらい出てきてピアノ弾いて歌うととってん。ひとりピアノ弾いて──まさにカスやったわ──もうひとり歌いよんねん。そいつらの歌たいてい,かなりスケベエなんか,せやなかったらフランス語やねん。歌手のほうがジャニンいうて,そいつ歌うまえにいっつもアホみたいにマイクロフォンに小さい声で言いよんねん。たとえば,「おたらあ,おつぎい,ヴーレ・ヴー・フランセー,歌いますねえ。フランスの女の子があ,ニュー・ヨークみたいな大きい町来てえ,ブルックリンの男の子にい,恋をするお話ですねえ。お気に召しますようにい」めちゃめちゃかわいこぶって小さい声で言うこと言うたら,アホな歌うたいよんねん,半分英語,半分フランス語で。ほたら,そこ来てるパチもんみんな大喜びや。あいつらみんな拍手喝采するとこまで見たら,世界中の全員のこと嫌いなんで。ホンマ。バーテンダーもカスやねん。客によって態度変えよんねん。威張ってるやつとか有名人とかやないと,ほとんど話しよれへんねん。せやし,もしおれが偉いさんとか有名人やったとしても,そのバーテンダー近寄ってきたらゲエ吐きそうなる思うわ。思いっきりひとなつこい笑顔で,知りあいにはめちゃくちゃ陽気なやつみたいに,「まあ! コネティカットはどないだっか」とか「最近フロリダどうですのん」とか言いよんねん。気色悪いとこやで,マジで。おれもうあっこ完全に行けへんようなったわ,だんだん。
着いたらまだかなり早かってん。おれバー座って──かなり混んどったわ──ルース来るまでにスコッチのソーダ割り二杯飲んでん。席から立って注文してん,ほしたらおれ背高いん分かって店員おれのことアホみたいに未成年や思えへんやん。ほんでしばらくパチもんども見とってん。おれの隣のやつ,連れてきた子にめちゃめちゃ口から出まかせ言うとおんねん。そいつ女にずっと,きみ貴族みたいな手してるわとか言うとおんねん。びびったわ。バー・カウンターの遠いほうの端,おかま集まっとってん。そいつら見た目おかまて感じせえへんねん──髪の毛伸ばしたりしてへんかってん──けど見たらおかまて分かった思うわ。そんなんしてたらルース来てん。
ルースや。かなんやつやで。おれウートンおったとき,あいつ上級生としておれの相談とか受ける係やってんけど,夜遅うあいつの部屋に何人かおるときセックスの話してただけやってん。あいつセックスのこといろいろ知っとってん,とくに変態のこととか。いっつもえげつないやつらの話しとおったわ,羊とやったやつとか,帽子の裏地に女のパンツ縫いつけとおるやつとか。ほんで,おかまとレズビアンや。ルース,合衆国でだれがおかまかレズビアンかみんな知っとおんねん。だれかの名前言うただけで──だれでもええねん──そいつおかまかどうかルース教えてくれんねん。ときどき信じられへんかったわ,あいつ言うやつ。映画俳優とかそんなんが,おかまとかレズビアンいうん。あいつがおかま言うなかに結婚してるやつとかおんねんで。「ジョー・ブローおかまなん? ジョー・ブローやで。いっつもギャングとかカウボーイやってる,でっかいごっついやつやで」とかずっと言うとったわ。ほたらルース「論を俟たず」言いよんねん。あいついっつも「論を俟たず」言うとってん。結婚してるかどうかは関係ない言うとったわ。世界中で結婚してる男の半分はおかまやねんけど,本人が気ついてへん言うとったわ。もしおかまの素質あったら実際一晩でおかまなることある言いよんねん。めちゃめちゃ怖かったわ。おれ,急におかまなるんちゃうかてずっと待っとってん。けどおもろいんは,あいつ自身ある意味おかまなんちゃうかっておれ思とってん。おれら廊下歩いとったら,いっつも「この大きさで入るか」言うて,後ろからケツ思いっきり指で突いてきよんねん。ほんであいつ便所行ったら,いっつもアホみたいにドア開けたままにして,おれら歯磨いたりしてんのに話しかけてきよんねん。そんなん,おかまっぽいやん。ホンマ。おれ学校とかでホンマのおかまいっぱい知ってて,そいつらいっつもそんなんしよるから,せやからおれずっとルース疑うとってん。けど頭ええやつやってん。ホンマ。
あいつ,ひとに会うても挨拶せえへんねん。座ってまず,二,三分しかおられへん言いよんねん。デートある言うとったわ。ほんでドライ・マーティニ注文しよってん。めちゃくちゃドライにしてくれ,オリーヴ要らん言うとったわ。
「ちょっと,おかま見つけときましたよ」おれ言うてん。「このバー・カウンターの端おるやつ。いま見たあきません。先輩のためにとっときました」
「めちゃくちゃおもろい」あいつ言いよってん。「あいかわらずコールフィールドや。いつ大人なんねん」
おれ,おもんないこと言うてもてん。ホンマ。けど,あいつおれのこと笑わしよってん。あいつと話してたら,おれ笑てまうねん。
「最近,性生活どうですのん」おれ訊いてん。そんなん訊いたら嫌がりよんねん。
「落ちつけ」あいつ言いよってん。「ちゃんと座って落ちつけアホ」
「落ちついてますやん」おれ言うてん。「コロンビアどうですか。気に入ってます?」
「論を俟たず。もし気に入ってなかったら,とっくに行ってへんやろ」あいつ言いよってん。そんなん言うても自分でもおもんないのに,ときどきそういうことも言いよんねん。
「なに専攻してはるんですか」おれ訊いてん。「変態ですか」ふざけとっただけやねんけど。
「分からん。もしかしておまえ,おもろいこと言おうとしてんのか」
「ちゃいますやん。冗談ですやん」おれ言うてん。「ちょっと聞いてくださいよ。ルースさん頭ええやないですか。おれの相談乗ってくださいよ。おれいま──」
あいつでっかい声で,うーんて唸りよってん。「あんなコールフィールド。おまえもしここ座って静かに和やかに一杯飲みたいんやったら,ほんで静かに和やかにおれと話したいんやったら──」
「分かりました,分かりました」おれ言うてん。「落ちついてください」あいつおれと真剣な話したがってへんかった思うわ。ああいう頭ええやつ,それが困んねん。あいつら自分にその気なかったら,だれとも真剣な話しよれへんねん。しゃあないから,どうでもええ話始めてん。「マジで最近,性生活どうですのん」おれ訊いてん。「ウートンときの子いまでも付きおうてます? あのすごい──」
「やめてくれ,そんなんとっくに付きおうてへんわ」あいつ言いよってん。
「なんでですか。いまあの子なにしてるんですか」
「ぜんぜん知らん。おまえ訊くから言うけど,おれの知ってるかぎりやと,あいついまごろたぶんニュー・ハンプシャーの売春婦コンテストで優勝してるわ」
「そら残念ですね。もしあの子先輩にいっつもスケベエな気持ち起こさせるようなできた子やったとしたら,先輩あの子のことすくなくともそんなふうに言わんでしょ」
「こら困った」ルース言いよってん。「いまから典型的なコールフィールド話始まるんか。いますぐ教えといて」
「そんなんちゃいますやん」おれ言うてん。「けど残念ですよ。もしあの子先輩にいっつも──」
「おれはおまえの気色悪い思考の流れをおまえと追わなあかんのか」
おれ返事せえへんかってん。黙らんかったら,あいつ立って帰りよるんちゃうか思てん。しゃあないから,もう一杯注文してん。酒臭なるぐらい酔いたかってん。
「いまだれと付きおうてますのん」おれ訊いてん。「教えてくれません?」
「おまえ知らんやつや」
「ええ,けどだれですのん。おれ知ってるかもしれませんやん」
「ヴィレッジに住んどおる。彫刻家や。そんなん聞いてどうすんのか知らんけど」
「え? マジですか? その子いくつですか?」
「訊いたことないわアホ」
「まあ,いくつぐらいですか」
「おれの想像やと三十代後半やな」ルース言いよってん。
「三十代後半? え? そんなん好きなんですか?」おれ訊いてん。「そんな年とってる女好きなんですか?」おれそんなん訊いたん,あいつセックスのこととかホンマよう知ってるからやねん。セックスのことよう知ってるておれが思てる数少ないやつやってん。あいつ童貞捨てたん十四歳んときやねん,ナンタケットで。ホンマ。
「おれは成熟した人物が好きやねん,それがもしおまえの訊きたいことやったら。御意や」
「ホンマですか? なんで? マジ,そのほうがセックスとかええんですか?」
「なあ,ひとつはっきりさせとこ。今日は典型的なコールフィールド話に,おれひとつも答える気ないで。おまえいったい,いつ大人なんねん」
おれしばらく黙っとってん。その話しばらく放っといてん。ほしたらルース,マーティニもう一杯注文して,もっとずっとドライにしてくれてバーテンダーに言いよってん。
「聞いてくださいよ。その彫刻家の女といつから付きおうてるんですか」おれ訊いてん。ホンマ知りたかってん。「ウートンおったころから知りあいやったんですか」
「無理やな。二,三か月前に入国したとこやから」
「入国? どっから来たんですか?」
「あいつはたまたま上海出身や」
「マジで! 中国人ですか?」
「然り」
「マジで! それが気に入ってるとこなんですか? 中国人やいうんが?」
「然り」
「なんでですか? 教えてください,ホンマ知りたいですわ」
「おれにとってはたまたま東洋哲学が西洋哲学より満足のいくもんやってん。おまえが訊くから言うけど」
「ホンマですか? 『哲学』てどういう意味ですか? セックスとかのこと言うてるんですか? セックスは中国のほうがええんですか? そういう意味ですか?」
「中国だけとは言うてへんやろアホ。東洋言うてん。おれはこの空疎な会話をおまえと続けなあかんのか」
「聞いてくださいよ,おれ真剣ですから」おれ言うてん。「マジで。なんで東洋のほうがええんですか?」
「それ言いだしたら話が込みいりすぎるわアホ」ルース言いよってん。「東洋ではたまたまセックスのこと肉体的な経験であると同時に精神的な経験でもあるて見なすいうことや。もしおまえが──」
「おれもそうですわ! おれもそう見なしてますわ,それ,なんて言いましたっけ──肉体的な経験と精神的な経験。ホンマ。けどそれ,だれとやるかによるでしょ。あんま好きでもない女とやっても──」
「そんな大きい声で言わんでええやろ,頼むで,コールフィールド。静かに喋られへんねやったら,そろそろ──」
「分かりました,けど聞いてくださいよ」おれ言うてん。だんだん興奮して声ちょっとでかなりすぎとったわ。おれ興奮したら声ちょっとでかなりすぎることあんねん。「けど,そこ教えてくださいよ」おれ言うてん。「セックスのこと肉体的とか精神的とか芸術的とか言うひとおるんは分かるんです。けど,それだれとでもできるわけちゃうでしょ──ペッティングとかしたからいうて──だれとやってもそうなるわけちゃうでしょ。だれとやってもそうなるんですか?」
「もう止めとこ」ルース言いよってん。「それでええな」
「分かりました,けど聞いてくださいよ。先輩と中国人の女。ふたりにとって,なにがそんなええんですか」
「もう止めとこ言うてん」
ちょっと個人的なとこ踏みこんでもうてん。いまはそれ分かるわ。けどそれルースのうっとしいとこやねん。ウートンおったころ,ルースみんなに個人的なこといろいろ言わせよんねんけど,だれかがルースのこと訊いたら怒りよんねん。ああいう頭ええやつら,全部自分で仕切ってるときしか頭ええ話しようてせえへんねん。あいつらいっつも,自分黙ってるときはみんなも黙っとけ思とおるし,自分部屋戻るときはみんなも戻れ思いよんねん。おれウートンおったころ,ルース自分の部屋でおれらにセックスの話して,それ終わったあと,おれらそのまま群がってしばらくおれらだけで喋ってんの嫌がっとおってん──ホンマ,見たら分かった思うわ。ほかのやつの部屋で,ルース以外のやつらだけで喋ってんの嫌がっとおってん。あいついっつも,自分が中心の話終わったら,みんな自分の部屋戻って黙っとけ思とおってん。あいつ,だれかが自分より頭ええこと言うん怖かったんや思うわ。ホンマ笑わしてくれるわ。
「ほしたらおれたぶん中国行きますわ。おれの性生活カスみたいですから」おれ言うてん。
「当然。おまえのものの考えかたが未成熟やねん」
「そうです。ホンマ。分かってます」おれ言うてん。「おれの問題なにか教えてほしいですか? おれ,そんな好きちゃう女にホンマにスケベエな気持ちなれませんねん──ホンマにスケベエには。めちゃくちゃ好きならなあきませんねん。せやなかったら,性欲アホみたいになくなってまうんですよ。ううわあっ,そのせいでおれの性生活どんだけぐちゃぐちゃか。おれの性生活,腐ってますわ」
「当然やアホ。前におまえに会うたとき,おまえになにが必要か言うたやろ」
「精神分析士に診てもらえてことですか」おれ言うてん。前あいつおれにそうせえ言いよってん。あいつのお父さん,精神分析士やねん。
「それはおまえしだいやアホ。おまえがおまえの人生どうすんのか,おれには関係ないわ」
おれしばらく黙っとってん。考えとってん。
「もしぼくがお父さんとこ行って精神分析してくださいとか言うたら」おれ言うてん。「おれ,なにされるんですか。つまり,おれなにされるんですか」
「アホみたいになんかするいうんちゃうねん。精神分析士はおまえにただ話をして,おまえは精神分析士に話すんねんアホ。ほんで精神分析士は,たとえば,おまえの思考様式をおまえ自身が認識する手助けをすんねん」
「なにを認識するんですか?」
「おまえの思考様式や。思考いうんはな──あんな,おれ精神分析の基本課程の授業してるんちゃうねん。もし興味あったら,うちの父親に電話して予約取れ。もし興味なかったら,そんなんせんでええ。率直に言うて,おれはどっちでもええ」
おれ,あいつの肩に手載せてん。ううわあっ,どんだけ笑わせてくれよったか。「先輩ホンマ親切な嫌なやつですわ」おれ言うてん。「自分で分かってますか」
あいつ腕時計見とおってん。「ほな行くわ」あいつ言うて立ちよってん。「楽しかった」あいつバーテンダー呼んで「勘定して」言いよってん。
「あの」おれ,あいつがなんか言うまえに言うてん。「先輩のお父さんて,先輩のこと精神分析したことありますのん?」
「おれ? なんでそんなん訊くねん?」
「なんでいうことないんですけど。けど,しました? したことありますのん?」
「正確に言うとない。うちの父親は,おれが一定程度まで適応すんの手助けしてくれたけど,いままで詳細な分析が必要なったことはない。なんでそんなん訊くねん?」
「なんでいうことないんですけど。どうなんかなあ思たんですよ」
「まあ,気にすんな」あいつ言いよってん。ティップ置いて出ていくとこやったわ。
「もう一杯だけ飲みましょうよ」おれ言うてん。「お願いします。おれめちゃめちゃ淋しいんですよ。マジで」
けどあいつ無理や言いよってん。もう遅刻してんねん言うて出ていきよったわ。
ルース。あいつまさにケツからぶりぶりて出したいやつやけど,あいつの語彙たしかになかなかやったわ。おれウートンおったとき,あいつ語彙いっちゃん豊富やってん。おれらテスト受けさせられたから。
20
おれ酔うとったからそこ座ったままティナとジャニン出てきてなんかやんのん待っててんけど,あのふたりもうおれへんかってん。髪ウェーヴかかってるおかまっぽいやつ出てきてピアノ弾いて,ほんでヴァレンシアいう新しい子出てきて歌てん。どっこも上手いとこなかったけど,ティナとジャニンに比べたら上手かったし,すくなくともええ歌うととったわ。ピアノ,おれ座ってるバー・カウンターのすぐ隣あって,ヴァレンシアおれのホンマすぐ横立っとってん。おれそいつに目で合図送っとってんけど,そいつおれのこと見えてへんふりしとおってん。たぶんおれそんなんするつもりなかってんけど,めちゃめちゃ酔うとってん。そいつ歌終わったらすぐ部屋出ていきよったから,おれごいっしょに一杯いかがて誘う暇なかってん。せやからヘッドウェーター呼んで,ヴァレンシアによかったらおれといっしょに一杯どうですかて訊いて言うてん。ヘッドウェーター,かしこまいりました言いよったけど,たぶんあいつそれ伝えてへんわ。だれもなんも伝えよれへんねん。
ううわあっ,おれ一時かそれぐらいまでアホみたいにバーで座っとってん。アホみたいに酔うとってん。なんか目回っとったわ。けどおれ酔うて羽目外さんようにめちゃめちゃ気つけとってん。だれにも見つかりとなかったし,おまえ何歳やて訊かれたなかってん。けど,ううわあっ,目回んねん。おれホンマに酔うてもうて,あの腹に弾丸食ろたアホなん,また始めてん。このバーで腹に弾丸食ろてんのん,おれだけや。手上着んなか入れて腹とか押さえて,あちこちに血垂れんようにしとってん。負傷してることだれにも知られたなかってん。おれが負傷野郎いう事実,秘匿しとってん。そんなんしとったら,ジェーンに電話してもう家おるかどうか確かめたなってん。せやから勘定とか済ませてバー出て,ホテルの電話あるとこ行ってん。ずっと血垂れんように上着んなか手入れとってん。ううわあっ,おれどんだけ酔うとったか。
けど電話ブース入ったら,ジェーンに電話しよいう気もうあんまなくなっとってん。いま思たら,酔っぱらいすぎとってん。ほんでサリー・ヘーズに電話してん。
ちゃんとした番号にかけんの二十回ぐらいダイアル回したわ。ううわあっ,目見えてへんかってん。
「もしもし」だれか出たから,おれ言うてん。でかい声で言うた思うわ。酔うとったから。
「どなたさんだす」めちゃくちゃ冷たい声で女のひと言うてん。
「おえです。ホーウデン・コーウフィーウドです。サイーに替わって,頼んます」
「サリーはもう床に就いてます。わたしはサリーの祖母です。ホールデン,なんでこんな時間に電話してきはったん。いま何時か分かってはりますの」
「うん。サイーに言いたい。めちゃくちゃ大事な話。サイー出して」
「サリーは床に就いてる言うてます。明日かけなおしとくなはれ。ほな,おやすみなさい」
「サイー起こして! 起こして! なんちゅやっちゃ」
ほしたら違う声してん。「ホールデン,わたし」サリーやってん。「なに思いついたん?」
「サイー? おまえか?」
「そう。怒鳴らんといて。酔うてんのん?」
「うん。聞いて。聞いて,なあ。おえクイスマス・イヴ行くわ。かめへんか? トゥイーの飾いつけやったうわ。かめへんか? かめへんか,なあサイー?」
「ええよ。酔うてるやん。もう寝たほうがええわ。どこおんのん。だれとおんのん」
「サイーか? おえトゥイーの飾いつけしに行ったうわ,かめへんか? かめへんか,なあ?」
「かまへんよ,来て。けどいまは寝たほうがええよ。どこおんのん。だれとおんのん」
「だえともおあん。おえと,ぼくと,わたしや」ううわあっ,どんだけ酔うとったか。おれそんときも腹押さえとってん。「やあえた。ロッキーとこのやつあにやあえた。分かうか? サイー分かうか?」
「聞こえへん。もう寝たほうがええよ。もう切るわ。また明日電話して」
「なあサイー! おまえおえにトゥイー飾いに来て言うてんのん? おえに来て言うてんのん? なあ?」
「そうやで。おやすみ。家帰って寝て」
あいつ電話切りよってん。
「おやすみ。おやすみサイーちゃん。いとしのサイーちゃん」おれ言うてん。おれどんだけ酔うてたか想像つく? ほんでおれも電話切ってん。たぶんあいつデートから帰ってきたとこやな思てん。ラントとかといっしょにみんなで,ほんであのアンドーヴァーのやつもいっしょなってどっか行っとおってん。みんなでアホみたいに紅茶のポットんなかでぐるぐる泳いで,お洒落な台詞言いおうて,ひとの目引いて,パチもんなっとおんねん。あいつに電話せんといたらよかった思たわ。おれ酔うたらきちがいなってまうねん。
おれしばらくアホみたいに電話ブースおってん。ずっと電話掴んで,気失わんようにして。そんとき,おれあんま爽快な気分ちゃうかってん,マジで。けど結局,電話ブース出て便所行って,アホみたいにふらふらしながら洗面台のボールに冷たい水溜めてん。ほんで,ざぶんて耳まで頭突っこんでん。乾かそとか思えへんかったわ。垂れたかったら垂れとけ思とってん。ほんで窓んとこのラディエーターまで歩いていって,そのうえ座ってん。ぬくかったし気持ちよかったわ。アホみたいに震えとったから気持ちよかってん。おもろいわ,おれ酔うたらいっつもめちゃめちゃ震えんねん。
なんもすることなかったから,おれずっとラディエーター座って床のちっこい白の正方形数えとってん。体だんだん濡れてきてん。水一ガロンぐらい首から垂れて襟とかネクタイに滲みこんどってんけど,放っといてん。酔いすぎてて,なんもでけへんかってん。ほしたらちょっとして,ヴァレンシアの伴奏でピアノ弾いてたやつ,あの髪にウェーヴめちゃくちゃかかってたおかまっぽいやつ入ってきて,金髪のふさふさ,櫛で梳きだしよってん。そいつ櫛入れとおるあいだちょっと話したけど,あんまおれに好意的ちゃうかったわ。
「なあ。バー戻ったらヴァレンシアに会うたりする?」おれ訊いてん。
「その確率は大きいな」そいつ言うてん。頭ええひねくれた嫌なやつやったわ。おれ会うのん頭ええひねくれた嫌なやつばっかりや。
「聞いて。ヴァレンシアに,おれが褒めとった言うといて。ほんで,あのアホのウェーターおれの伝言ヴァレンシアに伝えたかどうか訊いといて,頼むわ」
「もう家帰ったらどや,兄ちゃん。兄ちゃん,いくつやねん」
「八十六や。聞いて。ヴァレンシアにおれが褒めてた言うといて。かめへんか?」
「もう家帰ったらどや,兄ちゃん」
「おれは帰らんで。ううわあっ,お兄さんめちゃくちゃピアノ弾けるやん」おれ言うてん。べんちゃら言うたってん。マジで言うと,そいつのピアノ腐っとったわ。「ラジオ出たらええのに」おれ言うてん。「お兄さんみたいな男前。きれいな金髪。マネージャー要らんか?」
「家帰れや,兄ちゃん,おとなしゅうして。家帰って早よ寝え」
「帰る家なんかあれへんわ。嘘ちゃうで。マネージャー要らんか?」
そいつ返事せえへんかってん。黙って出ていきよったわ。髪の毛櫛で梳いてポンポンて叩いて出ていきよってん。ストラドレーターみたいやったわ。ああいう男前のやつらて,みんな同じやねん。アホみたいに髪の毛櫛で梳いてもうたら,もう他人のことなんかどうでもええねん。
やっとラディエーター降りてクロークルーム行ったら,おれ泣いてもてん。いまなったらなんでか分からんけど,泣いてもてん。アホみたいに悲しかったし淋しかったからちゃうか。ほんでクロークルーム行ったら,おれ預かり札アホみたいにどっかやってもてん。けどクローク係の女のひと,めちゃくちゃええ感じで応対してくれてん。とにかくおれのコート返してくれてん。ほんで「リトル・シャーリー・ビーンズ」のレコードも──おれそれまだ持ちあるいとってん。おれようしてもうたからクローク係の女のひとに一ドル出してんけど,受けとってくれへんかったわ。早よ家帰って早よ寝てくださいねてずっと言うとったわ。おれそのひとに,お仕事終わったらおれとデートしませんかて誘てんけど,断られたわ。わたしお客さまのお母さまみたいな年齢ですよ言われてん。おれアホみたいに白髪見せて四十二です言うてん──ふざけとっただけやねんけど,当然。けどあのひと感じよかったわ。おれアホみたいに赤いハンティング帽見せたら,褒めてくれたわ。おれホテル出ていくまえ,そのひとおれに帽子被らせてくれてん。髪の毛まだかなり濡れとったから。ええひとやったわ。
外出たらちょっと酔い醒めとったけど,まためちゃくちゃ寒なっとったから,歯がちがち鳴りだしてん。自分で止められへんかったわ。マディソン・アヴェニューまで歩いて,ちょっとバス待っとってん。もうカネほとんどなくなっとって,タクシー代とか節約せなあかんようなっててん。けどなんかバス乗りたい気分ちゃうかってん。そもそも,おれどこ行ったらええか分からんかってん。せやからおれ公園まで歩いていこ思てん。あの小さい池んとこ行って,鴨なにしとおんのか見てこよ,そのあたりに鴨おるかどうか確かめよ思てん。おれそんときまだ鴨そのへんおるかどうか分かってなかってん。公園まで遠なかったし,ほかとくに行くとこなかってん──まだどこで寝るかも決めてなかってん──せやから行ってん。眠たいとかなかったわ。めちゃくちゃ気重かったけど。
公園入るとこで,とんでもないこと起きてもうてん。フィービーのレコード落としてもうてん。五十個ぐらいの欠片に割れてもてん。でっかい封筒みたいなんに入っててんけど,それでも割れてもてん。アホみたいに泣きそうやったわ。ひどい気分なったわ。けどおれその欠片封筒から出してコートのポケット入れてん。もうそんなんなんの役に立つもんでもなかってんけど,捨てたなかってん。ほんで公園入ってん。ううわあっ,暗かったわ。
おれ生まれてからずっとニュー・ヨーク住んどって,セントラル・パークのこと自分の手の甲みたいに知ってんねん。子どもんときいっつもそこでローラースケートしとったし,自転車乗ったりしとったから。せやのにその夜は池見つけんのにそれまでなかったぐらいすっごい苦労してん。どこあるかちゃんと分かっとってんけど──セントラル・パーク・サウスのすぐ近くやん──せやのに見つかれへんかってん。自分で思てたより酔うとったんや思うわ。ずっと歩いて歩いて,だんだん暗なって,だんだん不気味なってきてん。公園おるあいだ,おれだれにも会えへんかったわ。いま考えたら,だれにも会わんでよかったわ。もしだれかに会うとったら一マイルぐらい跳びあがってた思うわ。ほんでやっと池見つけてん。池,半分凍って,半分凍ってなかったわ。けど鴨そのへんに一羽もおれへんかってん。おれ池のまわりアホみたいに一周歩いてん──アホみたいに一回はまりそうなったわ──けど鴨一羽もおれへんかってん。どっかおるとしたら,たぶん水辺の近くの,草むらの近くで寝とったりするんちゃうか思てん。ほんで池はまりそうなってん。けど一羽もおらんかったわ。
ほんでおれベンチ座ってん。そこあんま暗なかってん。ううわあっ,おれそのときでもずっとアホみたいに震えとったわ。ハンティング帽被っとったけど,頭の後ろのほうの髪の毛に小さい氷のかたまりいっぱい付いとってん。おれ心配なってん。おれたぶん肺炎なって死ぬわ思てん。ほんでアホが何百万人もおれの葬式とか来んのん想像してみてん。デトロイトのおじん,バス乗ったら通りの数ずっと声出して数えよるし,それと,おばさんら──おれ,おばさん五十人ぐらいおんねん──ほんでカスみたいないとこら。どんだけ集まってきよるか。そいつらみんなアリー死んだときも来よってん,あのアホみたいな親戚一同。ひとり口臭きついアホのおばさんおって,この子安らかに眠ってるわあてずっと言うとったて,D.B.言うとったわ。おれ行けへんかってん。そんときまだ入院しとったから。手怪我したから入院せなあかんかってん。とにかく髪の毛こんな氷のかたまり付いとって,ずっと肺炎なるんちゃうか,もう死ぬんちゃうかて心配しとってん。おかんとおとんに申しわけない思たわ。とくにおかんに。アリーのことあって,いまでも立ちなおってへんから。おれ死んだら,おかん,おれのスーツとか運動用具とかどうしてええか分からんで困るやろな思て,目浮かんだわ。ひとつ安心やったん,おかん,フィービーはまだ小さいから言うておれの葬式来させへんの分かってたことやねん。それだけは安心できるとこやってん。ほんで親戚一同でおれのことアホみたいに共同墓地とか入れて,おれの名前書いた墓石とか載せるとこ想像してん。死んだら,死んだやつらに囲まれんねんで。ううわあっ,死んでもうたら,えらいやつらといっしょにおらなあかんねん。もしおれ死んだら,だれかまともな感覚持ってるやつ,おれのこと川捨ててくれたらええ思うわ。アホみたいに共同墓地入れられるんちゃうかったらなんでもええわ。日曜なったらだれか来て腹のうえに花束置いていきよんねん。そんなウンコみたいな目遭うねん。死んだあと花束欲しいやつおるか。そんなやつおらんわ。
天気良かったら,おとんとおかん,しょちゅう花束持ってアリーの墓行きよんねん。おれも二回付いていったことあるけど,もう止めてん。そもそも,おれアリーとそんなアホな墓地で対面しても,よかった思われへんねん。死んだやつらとか墓石とかに囲まれて。日出てたらまだええねんけど,二回──二回とも──おれら行ったら雨降ってきてん。ひどかったわ。アリーのカスみたいな墓石に雨降って,アリーの腹のうえの芝生に雨降って。そこら中に雨降っとってん。墓参り来とったひとら,めちゃくちゃ走って車乗りよんねん。おれ気狂いそうなったわ。墓参り来たやつらは,車乗ってラジオ聞いて,ほんでどっかええとこ晩飯食いに行けるわ──けどアリーは行かれへんやん。そんなん耐えられへんかってん。墓地にあるんは肉体だけで魂は天国行ってるとか,そんなウンコみたいなこと分かってるけど,とにかく耐えられへんかってん。おれいまでも,アリーあんなとこにおらんかったらええのに思うわ。みんなアリーのこと知らんやん。もしアリーのこと知っとったら,おれなに言うてんのか分かってもらえる思うわ。日出てたらまだええねんけど,日は出たいときしか出よれへんねん。
しばらくして,肺炎なるとか気にすんの止めよ思て,街灯のカスみたいな灯りのしたでカネ出して数えてみてん。残ってたん,一ドル札が三枚,二十五セント玉五個,五セント玉一個だけやったわ──ううわあっ,おれペンシー出てからひと財産使てもうてん。ほんで池の近く行って,二十五セント玉全部と五セント玉,水切りみたいにして池の凍ってないとこ投げたってん。なんでそんなんしたんかもう分からんけど,そうしてん。そんなんしたら,肺炎なって死ぬいう心配消えるんちゃうかて思たんちゃうかな。消えへんかったけど。
おれ肺炎なって死んだらフィービーどう思うやろて考えてん。そんなん子どもじみた想像やけど,想像してもうてん。もしそんなん起こったら,フィービーかなり気重なるわ。フィービーおれのこと好きやねん。ようなついてんねん。ホンマ。とにかくおれ肺炎なって死ぬかもしれん思とったから,死ぬんやったらそのまえに家忍びこんでフィービーに会うとこ思てん。家の鍵は持っとったから,静かにアパートメント忍びこんで,しばらくフィービーと話でもしょう思てん。心配なん,うちの部屋のドアだけやったわ。アホみたいにぎいぎい鳴りよんねん。けっこう古いアパートメントで管理人手抜いとったから,どこもかしこも,きいきいぎいぎい鳴りよんねん。おれ忍びこんだら,その音おとんおかんに聞かれるかもしれんかってん。けどとにかく行ってみよ思てん。
せやからおれ公園出て,家行ってん。ずっと歩いていってん。あんま遠なかったし,眠たなかったし,もう酔うてなかってん。ただめちゃくちゃ寒かったし,家までだれにも会えへんかったわ。
21
ここ何年かで最高についとったわ。家着いたらピートいういつもの夜番のエレヴェーター・ボーイおれへんかってん。おれ会うたことない,なんか新しいやつおってん。せやから,おとんおかんと鉢合わせとかせえへんかったら,フィービーに会うて出ていっても,おれ来たことだれにもばれへん思てん。ホンマすごいついとったわ。せやし,新しいエレヴェーター・ボーイちょっとアホやってん。おれめちゃくちゃ気さくに,ディックステーンさんとこ頼むわ言うてん。うちある階,うちとディックステーンさんとこ住んでんねん。ハンティング帽そんとき脱いどったわ,怪しいとか思われたらあかん思て。おれすごい急いでるふりしてエレヴェーター乗ってん。
そいつドアとか全部閉めて,ほんでエレヴェーター動かそかいうときなって,おれのほう向いて言いよってん。「ディックステーンさんとこ,お留守ですけど。十四階のパーティー行ってはりますわ」
「かめへん」おれ言うてん。「ちょっと待ってる言うたあんねん。おれ甥やねん」
そいつアホなりにおかしいぞいう顔しよってん。「ほたらロビーで待ってはったほうがええんちゃいますか」そいつ言いよってん。
「できるもんならそうしたいねんけど──ホンマ」おれ言うてん。「けどおれ脚悪いねん。脚じっとしとくときの姿勢決まってんねん。せやから上のドアんとこある椅子座ってるほうが具合ええ思うねん」
そいつ,おれがなに言うてんのか分からんいう顔して,「ああ」言うてエレヴェーター動かしよってん。ううわあっ,かなりうまいこといったわ。いま考えてもおかしいわ。だれにもわけ分からんこと言うたら,みんなそのとおりにしてくれよんねん。
おれうちの階で降りて──アホみたいに脚ひきずりながら──ディックステーンさんのほうちょっと歩いてん。ほんでエレヴェーターのドア閉まる音してから,反対向いてうちのほう行ってん。うまいこといったわ。酔いもう醒めとったわ。ほんで鍵出して,めちゃくちゃ静かにドア開けてん。ほんで,めちゃくちゃ,めちゃくちゃ気つけて中入ってドア閉めてん。ホンマおれ泥棒なれるやん思たわ。
あたりまえやけど家入ったらめちゃめちゃ真っ暗で,あたりまえやけど電気点けられへんねん。なんかぶつかって音立てたらあかん思て気つけとってんけど,家帰ってきた思たわ。家入ったら,ほかでどっこもないヘンな臭いすんねん。なんの臭いか分からんけど。カリフラワーでもないし香水でもないし──どう言うてええんか分からんわ──けどその臭いしたらいっつも家帰ってきた思うねん。コート,入口のクローゼット掛けとこ思て脱ぎかけてんけど,クローゼット開けたらハンガーいっぱいでアホみたいにがちゃがちゃ鳴りよるから,コート着たまま,また,めちゃくちゃ,めちゃくちゃゆっくりフィービーの部屋のほう進んでん。メード音立てても聞こえへんのん分かっとってん。鼓膜かたっぽないねん。子どもんときお兄さんが耳の奥に藁刺したからや言うとったわ。せやから,耳かなり聞こえへんねん。けどうちの親,とくにおかん,アホみたいにブラッドハウンドみたいな耳しとおんねん。せやから親の部屋の前通るとき,めちゃくちゃ,めちゃくちゃゆっくり進んでん。息も止めとったわ。おとん椅子で頭殴っても起きひんけど,おかん,シベリアで咳しても気つきよんねん。めちゃめちゃ神経質やねん。しょっちゅう一晩中起きて煙草吸うとおんねん。
フィービーの部屋着くまで一時間ぐらいかかったわ。けど,フィービーおれへんかってん。おれ忘れとってん。D.B.ハリウッドとかどっか行ってるあいだ,フィービーいっつも兄貴の部屋で寝とおんの忘れとってん。うちでいっちゃん広い部屋やから気に入っとおんねん。その部屋,D.B.フィラデルフィアの大酒飲みの女から買うてきた古いでっかいきちがいみたいな机あって,ほんでベッド,幅十マイル長さ十マイルぐらいあるでっかい巨大なやつやねん。ベッドどこで買うてきたかは知らんわ。とにかく,D.B.おれへんとき,フィービー兄貴の部屋で寝たがりよんねん。ほんで兄貴がええ言うとおんねん。あのアホみたいな机でフィービー宿題とかやってんの見てほしいわ。机,ベッドよりひと回り小さいだけやねん。フィービー宿題やっててもどこおんのか分かれへんねん。けどフィービーそんなん好きやねん。自分の部屋狭すぎる言いよんねん。要るもん全部出して広げたいねんて。びびったわ。広げなあかんもんてなにあんねん。なんもないやん。
とにかくおれ,めちゃめちゃ静かにD.B.の部屋入って,机のランプ点けてん。フィービー起きひんかったわ。電気点けてしばらく,おれフィービーの寝顔見とってん。枕の端に顔載せて寝とってん。口がばあ開いとってん。おもろいわ。大人寝てるとき口がばあ開けてたらカスみたいに見えるやん,けど子どもはちゃうねん。子どもはかめへんねん。枕中に涎垂らしとっても,かめへんねん。
おれめちゃくちゃ静かに部屋んなか歩いて,しばらくいろんなもん見とってん。気分変わって元気なっとったわ。もう肺炎なるとかの心配消えとってん。調子良うなっとってん。フィービーの服,ベッドの横の椅子にまとめたあってん。子どもにしては,めちゃくちゃきっちりしてんねん。子どもて脱いだもんそのへん放っときよるやつおるけど,フィービーちゃうねん。だらしなないねん。おかんカナダでフィービーに買うたベージュのスーツの上着,椅子の背掛けたあってん。ほんでブラウスとか椅子に置いたあんねん。靴と靴下,椅子の真下の床に揃えて置いたあんねん。おれその靴初めて見たわ。新しかってん。おれがいま履いてるみたいな焦茶のローファーで,カナダでおかんに買うてもうたベージュのスーツに似合てたわ。おかんフィービーの服選ぶん上手いねん。ホンマ。おかん,ある分野のことやったら,すごい見る目あんねん。アイス・スケートの靴買うとかそんなんぜんぜんあかんねんけど,服選ぶ目は完璧やわ。せやからフィービーいっつもびびる服着とおんねん。子どもてたいてい,親どんだけ金持ちでも,ろくでもない服着てんのんふつうやん。おかんカナダで買うたスーツ,フィービー着てるとこ見てほしいわ。マジで。
おれD.B.の机座って,机に置いたあるもん見てん。ほとんどフィービーの学校のもんやったわ。ほとんど本やったわ。いっちゃん上に『算数は楽しい!』いう本あってん。始めのページ開けてよう見たら,フィービーなんか書いとおってん。
フィービー・ウェザーフィールド・コールフィールド
4B-1
びびったわ。フィービーのミドル・ネーム,ジョゼフィンやねん。せやのにウェザーフィールドて。フィービー,ミドル・ネーム気に入ってなかってん。会うたびいっつも新しいミドル・ネーム自分で付けとおんねん。
算数の本のした地理の本で,地理のした綴りの本やったわ。フィービー綴りめちゃくちゃ得意やねん。どの教科もめちゃくちゃ得意やねんけど,綴りいっちゃん得意やねん。ほんで綴りの本のしたにノート何冊か積んだあってん。フィービー,ノート五千冊ぐらい持っとおんねん。あんないっぱいノート持ってる子見たことないわ。いっちゃん上のノートの始めのページ開けたら,こんなん書いたあってん。
バーニス休み時間に話あんねん。とてもとても大事な
用事あんねん。
そのページ,それしか書いたあれへんねん。次のページにこんなん書いたあってん。
南東アラスカに何故そんなに多くの缶済め工場があるか?
鮭が沢山いるから
そこには何故貴重な森林があるのか?
それは気候がぴったりだから
アラスかのエスキモーの生活を昔より楽にする為に
私達の政府は何をして来たか
明日それを調べる!!!
フィービー・ウェザーフィールド・コールフィールド
フィービー・ウェザーフィールド・コールフィールド
フィービー・ウェザーフィールド・コールフィールド
フィービー・W・コールフィールド
フィービー・ウェザーフィールド・コールフィールド殿
シャーリーに回して下さい!!!!
シャーリーあんたい手座言うとったけど
ちょっと足らんから牡牛座やん家来るとき
スケート持って来て
おれD.B.の机座って,そのノート一冊まるごと読んでん。そんな時間かからんかったし,おれ子どものノートとか,フィービーのんでもほかの子のんでも,一日中読んでられんねん。子どものノート,びびるわ。ほんでおれまた煙草点けてん──最後の一本やったわ。おれその日,三カートンぐらい煙草吸うた思うわ。ほんでとうとうフィービー起こしてん。一生その机座ってるわけにもいかんかったし,せやし急に親入ってくんのちゃうか思とったから,そうなるまえにフィービーに挨拶ぐらいしときたかってん。せやから起こしてん。
フィービーいっつも簡単に起きよんねん。大きい声とか出さんでええねん。ホンマ,ベッド座って「フィーブ,起きて」言うだけで,ぱっと分かって目覚ましよんねん。
「ホールデンやん!」フィービーすぐ言いよってん。おれの首んとこ抱きついてきよったわ。フィービー,愛情表現大きいねん。子どもにしては,かなり愛情表現大きいねん。ときどき大きすぎんねん。おれフィービーにキスしたら,「いつ帰ってきたん?」言いよってん。おれ来たからめちゃめちゃ嬉しがっとってん。そうやった思うわ。
「大きい声出さんと。さっき。元気か」
「元気や。手紙届いた? 五ページも書いてんで──」
「うん──大きい声出さんと。ありがと」
フィービーおれに手紙書いてきよってん。おれ返事書く機会なかってんけど。学校でやる芝居のこと書いたあったわ。金曜日デートの予定とか入れんといてな,せやないと芝居見られへんでて書いたあったわ。
「芝居どうなん?」おれ訊いてん。「なんちゅう芝居やっけ?」
「『アメリカ人のためのあるクリスマス祭り』。臭い芝居やけど,わたしベネディクト・アーノルドやんねん。ホンマいちばんでっかい役やねん」フィービー言いよってん。ううわあっ,ばちい目覚ましとったわ。そんな話しとったら,めちゃくちゃ興奮しよんねん。「わたし死にそうなってるとっから芝居始まんねん。クリスマス・イヴに幽霊来て,なんか恥じることないかてわたしに訊いてくんねん。ほら。祖国裏切ったこととか。見に来る?」フィービー,ベッドで起きあがって座っとったわ。「それ全部手紙に書いたやん。見に来る?」
「見に行く。ちゃんと行く」
「お父さん来られへんねん。飛行機乗ってカリフォルニア行かなあかんねんて」フィービー言うてん。ううわあっ,ばちい目覚ましとったわ。目覚ますん二秒ぐらいしかかかれへんねん。フィービー,ベッドで起きあがって──ていうか膝から下曲げて座って──おれの手握りよってん。「なあ。お兄ちゃん水曜に帰ってくるてお母さん言うてたで」フィービー言うてん。「水曜言うてたのに」
「早よ終わってん。大きい声出さんと。みんな起きてまうから」
「いま何時? お母さん,めちゃくちゃ遅なる言うてたわ。お父さんお母さんコネティカットのノーウォーク,パーティー行ってんねん」フィービー言うてん。「今日昼からわたしなにしてたか分かる? なんの映画見たか。当てて!」
「分からん──聞いて。お父さんお母さん,何時に帰るて──」
「『医師』」フィービー言いよってん。「リスター財団でしかやってへん映画やねん。一日しかやれへんねん──それが今日やってん。ケンタッキーのお医者さん,障害あって歩かれへん女の子の顔に毛布かけてまうねん。ほんで刑務所送られんねん。ええ映画やったわ」
「ちょっと聞いて。お父さんお母さん,何時に帰るて──」
「お医者さん,かわいそうや思てんねん。せやから女の子の顔に毛布とかかけて窒息死させんねん。ほんで終身刑なんねんけど,頭に毛布かけられた子,ずっとそのお医者さんとこ来てお医者さんに感謝すんねん。慈悲にもとづく殺人やってん。せやけど,神様が決める運命をお医者さんが勝手に変えたらあかんから,そのお医者さん,自分は刑務所行かなあかん思てんねん。うちの組の子のお母さん連れてってくれてん。アリス・ホームボーグ。わたしその子といっちゃん仲ええねん。その子──」
「ちょっと待って,頼むわ」おれ言うてん。「ひとつ訊いてええか。お父さんお母さん何時に帰るて言うてた,言うてなかった?」
「何時とは言うてへんけど,めちゃくちゃ遅なんで。お父さん車で行ってん。汽車の時間とか気にせんでええように。車,ラジオ付いてんで! けどお母さん,車でどっか行くときラジオつけたらあかん言うねん」
それでちょっと安心したわ。家で親に捕まるかどうかて,もう心配すんの止めてん。そのことめちゃくちゃ考えとってんけど。捕まったら捕まったや。
そんときのフィービー見てほしかったわ。青いパジャマ着て,襟んとこに赤い象おんねん。フィービー,象にいかれてんねん。
「ほしたら,それええ映画やってんな」おれ言うてん。
「ばっちりや,けどアリス風邪ひいてて,おばさんずっとアリスにインフルエンザちゃうか訊いとってん。映画やってんのに。大事なとこでいっつもおばちゃん,体伸ばしてアリスにインフルエンザちゃうかて訊くから,わたしなんも見えへんかってん。苛ついたわ」
おれフィービーにレコードの話してん。「聞いて,おまえにレコード買うてきてん」おれ言うてん。「けど家来る途中で割れてもうてん」おれコートのポケットからレコードの欠片出してフィービーに見せてん。「酔うとってん」おれ言うてん。
「それちょうだい」フィービー言うてん。「割れたん,とっとくわ」フィービーおれの手からレコードの欠片取って,ナイト・テーブルの引きだし入れよってん。いっつも,びびることしよるわ。
「D.B.クリスマス帰ってくんの」おれ訊いてん。
「どうなるか分からんてお母さん言うてた。仕事しだいやて。ハリウッドでアナポリスの映画の脚本書かなあかんかもしれんねんて」
「アナポリスて!」
「恋愛もんやて。だれ出るか当ててみ。映画スターだれ出るか。当てて!」
「興味ないわ。アナポリスて。D.B.アナポリスのことなに知ってんねん? そんなん兄貴書いてる短編小説となに関係あんねん」おれ言うてん。ううわあっ,おれそんなん腹立つねん。ハリウッドのアホめ。「腕どないしたん?」おれ訊いてん。肘にでっかい絆創膏貼ったあってん。フィービーのパジャマ袖ないから分かってん。
「公園の階段降りてるとき,うちの組のカーティス・ワイントローブいう男子わたしのこと押しよってん」フィービー言うてん。「見る?」ほんで,アホみたいに絆創膏剥がしだしよってん。
「そのまましとき。その子なんでおまえのこと階段で押したん?」
「知らん。わたしのこと嫌いなんちゃう」フィービー言うてん。「セルマ・アタベリーいう子とわたし,そいつのウィンドブレーカーにインクかけたったから」
「それは良うないわ。そんなことすんの何者や,子どもか」
「ちゃうわ,けど公園おったら,あいつどこ行ってもわたしのあと付いてきよんねん。いっつもあと付けてきよんねん。苛つくわ」
「たぶんその子おまえのこと好きなんちゃう。けどウィンドブレーカーにインクかけるて──」
「あんなやつに好きなってほしないわ」フィービー言うてん。ほんで,にやにやしながらおれの顔見よってん。「ホールデン」フィービー言いよってん。「なんで水曜に帰ってけえへんかったん?」
「なにが?」
ううわあっ,フィービーに油断したらあかんわ。フィービーのことごまかせる思てんねやったら,頭おかしいで。
「なんで水曜に帰ってけえへんかったん?」フィービー訊きよってん。「退学とかなったんちゃうよね?」
「さっきも言うたやん。早よ帰れるようなってん。全員──」
「退学なったんや! 退学や!」フィービー言いよってん。ほんで拳でおれの脚殴ってきよってん。フィービーその気なったらめちゃくちゃ殴ってきよんねん。「退学や! うわ,ホールデン!」ほんで手で口押さえよってん。めちゃくちゃ気持ち溢れて抑えられへんようなりよんねん,ホンマ。
「おれ退学なったてだれ言うた。だれも言うてへん──」
「退学やわ。退学や」フィービー言いよってん。ほんでまた拳で殴ってきよってん。それ痛ない思てんねやったら,気狂てるで。「お父さんそんなん聞いたら,お兄ちゃん殺されてまうやん」フィービー言いよってん。ほんで,ベッドにぽんとうつ伏せなって,アホみたいに枕で頭隠しよってん。そんなんようしよんねん。ときどきホンマきちがいなりよんねん。
「もうそんなん止めて」おれ言うてん。「おれはだれにも殺されへんて。だれも──なあ,フィーブ,そのアホみたいなん取って顔出してくれ。おれはだれにも殺されへんて」
けどフィービーそのまましとおってん。あいつが嫌や思たら,だれも言うこときかされへんねん。ずっと「お兄ちゃん,お父さんに殺されてまうやん」言うとってん。どういうつもりで言うとおったんか,アホみたいに枕で頭隠しとおったから,よう分からんかったわ。
「おれはだれにも殺されへんて。頭使えや。そもそもおれ,ここ出ていくねん。たぶん牧場かどっかでしばらく働く思うわ。知りあいに,おじいさんコロラドに牧場持ってるいうやつおんねん。そこまで行って働くことなる思うわ」おれ言うてん。「むこう行ってもおまえとかにはずっと連絡するわ,もし行ったとしても。なあ。顔出してえな。なあ,おい,フィーブ。頼むわ。頼むわ,お願いや」
けどフィービーそのまましとおんねん。枕引っぱったけど,あいつめちゃめちゃ力あんねん。あいつと喧嘩したら疲れんねん。ううわあっ,あいつが枕で頭隠したい思たら,だれも止めさせられへんねん。「フィービー,頼むわ。ほら顔出して」おれずっと言うとってん。「なあ,おい... おい,ウェザーフィールド,顔出して」
けど出しよれへんかってん。あいつ言うても分からんときあんねん。しゃあないから,おれ立ってリヴィング・ルーム行って,テーブルの箱から煙草出して何本かポケット入れてん。煙草切れとったから。
22
部屋戻ったらフィービーもう枕で頭隠してへんかってん──そうやろ思とってん──けどあいつおれのこと見よれへんねん。仰向けに寝転んどったのに。おれベッドの横行ってまた座ったら,あいつアホみたいに顔反対向けよってん。あいつおれのことめちゃめちゃ陶片追放しとおってん。おれ防具とか全部地下鉄に忘れたときの,ペンシーのフェンシング部のやつらみたいに。
「ヘーゼル・ウェザーフィールド元気なん?」おれ言うてん。「あの子の話また書いた? 前送ってくれたやつ,おれスーツケース入れたあんねん。いま駅にあるわ。あれめちゃくちゃよかったわ」
「お兄ちゃん,お父さんに殺されてまうわ」
ううわあっ,あいつ頭なんか浮かんだら,ホンマそればっかり思とおんねん。
「そんなことないて。どんだけ悪うても,お父さんまためちゃめちゃ怒って,おれアホみたいに軍隊の学校行かされるぐらいやわ。お父さんすんのんそれぐらいやわ。せやし,そもそもおれもうおれへんようなんねん。出ていくねん。コロラドの牧場行くわ──たぶん」
「笑かさんといて。お兄ちゃん馬よう乗らんやん」
「だれがやねん。乗れるわ。論を俟たずや。二分ぐらい教えてもうたら乗れるようなんねん」おれ言うてん。「それ取ったらあかんで」あいつ腕の絆創膏取ろうてしとってん。「だれに髪切ってもうたん」おれ訊いてん。あいつアホな髪型なってんのん,そんとき気ついてん。短すぎてん。
「そんなん関係ない」あいつ言いよってん。ときどきめちゃくちゃ偉そうに言いよんねん。かなり偉そうに言いよんねん。「わたしの見立てやと,また全教科落としたな」あいつ言いよってん──めちゃくちゃ偉そうに。けど,ある意味おもろかったわ。あいつ,ときどき学校の先生みたいな口調なんねんけど,小さい子どもやん。
「そんなことないわ」おれ言うてん。「英語通ったわ」ほんでおれ,たいした意味なしに,あいつのケツひねったってん。あいつ横向きに寝転んどったから楽勝やってん。あいつ,ケツなんかほとんど膨らんでへんねんけど。思いっきりひねったわけちゃうけど,あいつおれの手殴ろうてしよってん。けど当たれへんかったわ。
ほしたら急にあいつ言いよってん。「うーわ,なんでそんなことしたん」なんでまた退学なったんいう意味で。その言いかた聞いて,おれ悲しなったわ。
「なあ,あかん,フィービー,そんなん訊かんといて。みんなにそれ訊かれて,おれ気持ち悪なってんねん」おれ言うてん。「理由は百万ぐらいあるわ。あそこ,おれいままで行ったなかで最悪の部類の学校やってん。パチもんだらけやってん。ほんで狡いやつらも。狡いやつらあんないっぱいおんの,人生でこれまで見たことない思うわ。たとえばだれかの部屋で男ばっかり集まって話しとって,だれか入ってこよてしたとき,そいつがなんかアホなニキビだらけのやつやったら,だれも入れたりよれへんねん。だれか入りたがってるとき,いっつもみんなドアに鍵しよんねん。ほんであいつらアホみたいな秘密結社作っとおんねん。おれ根性ないから入らんわけにいかんかったけど。それ入りたい言うたニキビだらけのおもんないやつおってん。ロバート・アクリーいうねんけど。そいつずっと入ろうてしててんけど,だれも入れたりよれへんかってん。そいつがおもんないしニキビだらけやからいう理由だけで。そんなん話してるだけで嫌なってくるわ。あの学校腐っとってん。正味」
フィービー黙っとったけど,おれの話聞いとおってん。首の後ろ見てたら,あいつ話聞いてるん分かってん。あいつになんか言うてるとき,あいつ話聞いとおんねん。ほんでおもろいんは,たいていなんの話かあいつ分かっとおんねん。ホンマ。
おれずっとペンシーの話してん。ペンシーの話したかってん。
「先生んなかにもええ先生ふたりだけおったけど,そいつらもパチもんやってん」おれ言うてん。「年寄りのスペンサー先生いうんおってん。奥さんいっつもココアとか出してくれんねん。奥さんも先生もホンマかなりええひとらやねん。けど歴史の授業中に校長のサーマー入ってきて教室の後ろ座ったときのこと見てほしかったわ。サーマーいっつも教室入ってきて教室の後ろ三十分ぐらい座っとおんねん。そこおれへんことなってんねん。ほんでしばらく座って,スペンサー喋ってんのに割りこんでしょうもないジョークいっぱいかましよんねん。スペンサー,ホンマ自分殺して,サーマーがアホな王子様かなんかみたいに,声出して笑たり顔だけで笑たりしよんねん」
「あんま下品な喋りかたしたらあかんで」
「あんなん見たらゲエ吐くで,ホンマ」おれ言うてん。「ほんで卒業生の日や。卒業生の日なったら,一七七六年ごろペンシー卒業したみたいなアホなやつらみんな,嫁さんとか子どもとかみんな連れて学校戻ってきて,そこら中歩きまわりよんねん。ひとり五十ぐらいの年寄りのおっさん,見てほしかったわ。そいつ,おれらの部屋入ってきて,ノックして便所借りてかまいませんかておれらに訊きよってん。便所,廊下の突きあたりあんねん──なんでそんなんおれらに訊きよったんか,いまでも分からんわ。ほた,そのおっさんなに言うた思う? 便所の戸のどっかにそいつの頭文字まだ残ってるかどうか見たい言いよってん。九十年ぐらい前にそのおっさん便所の戸のどれかにアホみたいに頭文字彫りよってん。それまだ残ってるかどうか見たい言いよんねん。せやから,ルームメートとおれとおっさん便所まで案内して,おっさん便所の戸いっこずつ調べて頭文字探しとおるあいだ,おれらそこ立ってなあかんかってん。おっさん,そのあいだずっとおれらに話しとおってん。ペンシーおったころが人生でいっちゃん幸せな時期やった言うて,将来のこといろいろ忠告してきよってん。ううわあっ,悲しなったわ! そのおっさん嫌なやつやった言うてんのちゃうねん──嫌なやつちゃうかってん。けど嫌なやつちゃうかっても,そいつのせいで悲しなることあんねん──ええやつのせいでも悲しなることあんねん。便所の戸に彫った頭文字探しながらパチもんの忠告いっぱいするやつおったら,そいつのせいで悲しなんねん──そんなんだれがやっても悲しなんねん。なんでか分からんけど。もしそのおっさん息切れてなかったら,たぶんまだましやったかもしれんわ,絶対。おっさん階段昇っただけで完全に息切れとってん。頭文字探しとおるあいだ,ずっと音立てて息しとおってん。鼻の穴,おもろい形なったり悲しい形なったりしとってん。せやのにストラドレーターとおれに,ペンシーで身につけれるもんは全部身につけとけよ言いよんねん。あかん,フィービー! おれ,よう説明せんわ。ペンシーで起こってることなにもかも嫌いやってん。よう説明せんわ」
そんときフィービーなんか言いよってんけど,聞こえへんかってん。あいつ口の端っこ枕にべたあて付けとったから,なに言うてるか聞こえへんかってん。
「なに?」おれ言うてん。「口離してえや。口そんなんしとったら聞こえへんやん」
「お兄ちゃん,起こってることなにもかも嫌いやん」
あいつそんなん言いよったから,おれもっと悲しなったわ。
「そんなことないわ。そんなことないわ。絶対そんなことないわ。そんなん言うなよ。なんでそんなん言うねん」
「嫌てるからやん。どこの学校も嫌いやん。嫌いなこと百万個あんねやろ。なんでも嫌いやん」
「そんなことないて! それは違うわ──それは完全に違うわ。なんでそんなこと言うねん」おれ言うてん。ううわあっ,あいつのせいでどんどん悲しなったわ。
「なにもかも嫌てるからやん」あいつ言いよってん。「なんかひとつ言うてみ」
「ひとつ? おれの好きなもんひとつ?」おれ言うてん。「わかった」
けど,おれあんま集中でけへんかってん。ときどき集中でけへんことあんねん。
「おれがめちゃめちゃ好きなもんひとつ言うたらええねんな」おれ訊いてん。
けどあいつ返事せえへんかってん。ベッドの向こう側に体半分だらんて垂らしとおってん。千マイルぐらい離れてる気したわ。「なあ返事せえや」おれ言うてん。「おれがめちゃくちゃ好きなもんか,ちょっとでも好きやったらええんか」
「めちゃくちゃ好きなもん」
「わかった」おれ言うてん。けどおれ集中でけへんかってん。思いついたん,あのよれよれの藁の篭で募金しとった尼さんふたりぐらいやったわ。とくに鉄縁の眼鏡かけたほうの。それからエルクトン・ヒルズで知ってたやつと。エルクトン・ヒルズにジェームズ・キャッスルいうやつおって,そいつフィル・スタビルいうめちゃくちゃイキってるやつのこと貶したん撤回せえへんかってん。ジェームズ・キャッスル,そいつのことめちゃくちゃイキってる言いよってん。ほしたらスタビルのカスみたいな友だち,スタビルんとこ行ってそれ密告しよってん。ほんでスタビル,汚いやつら六人連れてジェームズ・キャッスルの部屋行って,アホみたいに鍵閉めて発言撤回させようてしよってんけど,ジェームズ・キャッスル嫌や言いよってん。ほんでそいつら,かかっていきよってん。そいつらなにしたか全部は言わんとくわ──気分悪なるだけや──けどジェームズ・キャッスル撤回せえへんかってん。どんなやつか見てほしかったわ。背低いガリガリの弱そうなやつで,手首なんか鉛筆みたいに細かってん。ほんでとうとう,発言撤回せんまま,そいつ窓から跳びおりよってん。おれシャワー浴びとってんけど,それでもジェームズ・キャッスル地面ぶつかった音聞こえたわ。けど,ラジオか机かなんか窓から落ちてんやろぐらいしか思えへんかってん,人間て思えへんかってん。ほしたら,みんな廊下走って階段降りる音聞こえたから,おれもバスローブ着て下行ったら,石段とこにジェームズ・キャッスル倒れとってん。死んどってん。歯とか血とか飛びちっとったわ。ほんで,だれも近づこてせえへんねん。ジェームズ・キャッスル,おれ貸したったとっくりのセーター着とってん。その部屋おったやつら,退学なっただけ。刑務所行ったやつなんか,だれもおれへんわ。
けど,思いついたん,それだけやってん。朝飯んとき会うた尼さんふたりと,エルクトン・ヒルズんときのジェームズ・キャッスルいうやつと。おもろいんは,おれジェームズ・キャッスルのことほとんど知らんねん,マジで。すごいおとなしいやつやってん。数学の授業でいっしょやってんけど,教室の反対側座っとったし,手挙げて答え言うたりとか黒板行ったりとかほとんどせえへんやつやってん。学校に,手挙げて答え言うたりとか黒板行ったりとかせえへんやつて何人かおるやん。なんか喋ったんて,そいつがおれにとっくりのセーター貸して言うてきたときだけやった思うわ。おれ言われたときアホみたいに倒れて死にそうなったわ。びっくりしてん。覚えてるわ,おれ便所で歯磨いとったとき言われてん。いとこ来て車でどっか連れてってくれるとか言うとったわ。おれとっくりのセーター持ってんの,そいつ知ってるいうことも知らんかったわ。おれ,そいつのことで知ってたん,出席とるときいっつもおれのいっこ前のやついうだけやってん。ケーベル,R。ケーベル,W。キャッスル。コールフィールド──いまでも覚えてるわ。マジで,おれセーター貸さんとこか思てん。よう知らんかってんもん。
「なに」おれフィービーに言うてん。なんか言いよってんけど,聞こえへんかってん。
「ひとつも言われへんやん」
「言えるわ。言えるわ」
「ふーん,ほた言うて」
「おれ,アリー好きやわ」おれ言うてん。「ほんで,いまこうやってることが好きやわ。おまえといっしょにおって,ここ座って,話して,いろいろ考えて──」
「アリーは死んでんで──お兄ちゃん,いっつもそんなんばっかり言うてんねん! ひとが死んで天国行ってもうたら,もうホンマは──」
「アリー死んだことは分かってるわ。おれがそんなんも分かってへん思てんのか。けどいまでもアリーのこと好きやねん,それあかんか。ひとが死んだから言うて,そいつのこと好きなん止めたらあかんやろ,アホ──とくにその死んだやつが,生きてる知りあいの千倍ぐらいええやつやったら」
フィービー黙っとったわ。あいつ,なんも言うこと思いつけへんかったら,アホみたいになんも言いよれへんねん。
「ほんで,いまここでしてることが好きやわ」おれ言うてん。「まさにいま。おまえといっしょにここ座って,喋って──」
「それ,ホンマのことちゃうやん!」
「ホンマのことやん。論を俟たず。どこがホンマちゃうねん。みんな,なんのこともホンマや思とおれへんねん。アホ,おれもう気分悪なってきたわ」
「下品な喋りかた,やめてえや。分かったから,別のもん言うて。なになりたいか言うて。科学者とか。それか弁護士とかそういうん」
「科学者は,なりとうても無理やわ。おれ理科あかんねん」
「ふーん,弁護士は──お父さんとかみたいに」
「弁護士やったらなんとかなる思うわ──けど,なりたい思わんわ」おれ言うてん。「そら,いっつも無実のひとらの命救て回ってるとかやったらええけど,弁護士てそんなんしてへんやん。カネ儲けてゴルフやってブリッジやって車買うてマーティニ飲んでひとから偉そうに見られるようにしとおるだけやん。せやし,もし無実のひとらの命救て回ってるとしても,それ,ホンマにそのひとらの命救いたい思てやってんのか,それかアホな映画みたいに裁判終わったとき法廷でみんなに,記者とかに,おめでとうて背中叩かれるすごい弁護士なりたい思てやってんのか,自分でも分からんようなってくんねん。自分パチもんなってもうてるかどうかて,どうやったら分かる。分かれへんようなんねん」
そんなん言うたけど,フィービーに伝わったかどうかよう分からんわ。まだ小さい子どもやからな。けど,すくなくともあいつ,おれの話聞いとったわ。話聞いてたいうことは,あんま怒ってへんいうことやん。
「お兄ちゃん,このままやとお父さんに殺されてまうやん。お兄ちゃん,殺されてまうやん」あいつ言いよってん。
けどおれあいつの言うこと聞いてへんかってん。ほかのこと考えとってん──気狂てること。「おれなになりたいか言うたろか」おれ言うてん。「おれなになりたいか言うたろか,もしおれがアホみたいに好きなもん言うてええんやったら,なになりたいか」
「なんやのん。下品な喋りかたせんといてや」
「『ライ麦分け来る子捕わば』いう歌あるやん。それ──」
「それ,『ライ麦分け来る子と会わば』やん」フィービー言いよってん。「それ詩やん。ロバート・バーンズの」
「ロバート・バーンズの詩いうんは,おれかて知ってるわ」
あいつの言うとおりやってん。たしかに「ライ麦分け来る子と会わば」やねん。けどおれ,そんときそれ知らんかってん。
「『捕わば』や思とったわ」おれ言うてん。「とにかく,ライ麦のでっかい畑とかで小さい子どもらがみんななんかして遊んでるとこ,おれよう想像すんねん。小さい子何千人もおって,まわりだあれもおれへんねん──大人おれへんねん──おれ以外。ほんでおれアホみたいな崖の端んとこ立ってんねん。子ども崖から落ちそうやったら,おれその子捕まえんねん,それがおれの役やねん──子ども走っとって,そっち行ったらどうなるか見てへんかったら,おれどっかから出ていって,その子捕まえんねん。おれ一日中それだけやってんねん。おれライ麦畑でそうやって子ども捕まえるやつとかなりたいねん。気狂てるんは分かってるけど,おれホンマなりたいんてそれだけやねん。気狂てるんは分かってるけど」
フィービーしばらく黙っとおってん。ほんでなんか言う思たら,「お兄ちゃん,お父さんに殺されてまうやん」言いよってん。
「殺されても文句ないわ」おれ言うてん。おれベッドから立ってん。エルクトン・ヒルズで英語の先生やったアントリーニ先生に電話しょう思てん。先生,ニュー・ヨーク住んではってん。エルクトン・ヒルズ辞めて,ニュー・ヨーク大学で英語教えてはってん。「ちょっと電話せなあかんとこあるから」おれフィービーに言うてん。「戻ってくるから,寝んといてな」おれリヴィング・ルーム行ってるあいだに,あいつに寝てほしなかってん。寝よれへん思てたけど,はっきりさせとこ思て言うてん。
おれドアのほう歩いてたら,フィービー「ホールデン!」言いよったから,振りむいてん。
あいつベッドで座っとってん。すごいかわいかったわ。「わたしフィリス・マーギュリーズに,げっぷ習てんねん」あいつ言いよってん。「聞いて」
おれ聞いてん。なんか聞こえたけど,げっぷの音ちゃうかったわ。「上手いやん」おれ言うてん。ほんでリヴィング・ルーム行って,アントリーニ先生に電話してん。
23
おれ電話できるだけ早よ切りたかってん。電話してるとき,おとんおかん帰ってきよるかもしれん思とったから。帰ってけえへんかってんけど。アントリーニ先生,ええひとやったわ。来たかったら,いますぐでもおいで言うてくれてん。いま考えたら,おれたぶん先生と奥さん起こしてしもてん,絶対。電話出るまで,めちゃめちゃ時間かかってん。なんかあったんかてまず先生訊いて,なにもありません言うてん。けど,ペンシー退学なりました言うてん。先生には言うといたほうがええ思てん。先生,「うわ,こらえらいこっちゃ」言いはったわ。ユーモアのセンスあったわ。来るんやったらすぐおいで言うてくれてん。
アントリーニ先生,いままでおれ習たなかでいっちゃんぐらいええ先生やってん。けっこう若いねん,兄貴のD.B.よりそんな上いうことないわ。先生のこと偉い思てても,ふざけてられんねん。さっき言うてた窓から跳びおりたやつ,ジェームズ・キャッスルのこと,みんな遠巻きに見てるときに抱きあげたん,先生やってん。アントリーニ先生,脈とか取って,自分のコート脱いでジェームズ・キャッスルにかけて,保健室までずっと抱えていきはってん。コート血だらけなんの気にしてはれへんかったわ。
おれD.B.の部屋戻ったら,フィービー,ラジオつけとってん。ダンス音楽かかっとってん。メードに聞こえへんように音小さしとったけど。そんときのフィービー見てほしかったわ。ベッドのまんなかで,カヴァーのうえ座って,ヨガやってるみたいに脚組んどってん。ほんで音楽聞いとってん。びびるわ。
「おい」おれ言うてん。「踊ろか」あいつすごい小さい子どもやったころ,おれ踊り教えたってん。あいつめちゃくちゃ上手いねん。おれ教えたん,ちょっとだけやねんで。ほとんど自分でできるようなりよってん。踊りてホンマは教えられへんもんやん。
「お兄ちゃん,靴履いたままやで」あいつ言いよってん。
「脱ぐわ。ほらこっち」
あいつベッドからホンマに跳んで降りて,おれ靴脱ぐん待っとおってん。ほんでおれ,あいつとしばらく踊ってん。ホンマ,アホみたいに上手いねん。おれ,小さい子と踊るやつ嫌いやねん。そんなん見たら,たいてい気色悪いやん。どっかのレストラン行ったら,どっかのおじん小さい子連れてダンス・フロア行ったりしよるやん。だいたいおじん間違うて子どもの服の背中ずり上げたままで,子ども踊りなんかぜんぜんでけへんねん。あんなん気色悪いわ。おれ,みんな見てるとこでフィービーと踊れへんねん。家で遊びで踊るだけやねん。あいつは違うねん,踊れるから。なに仕掛けても,付いてきよんねん。めちゃくちゃぐって引きよせたら,こっちの脚のほうがかなり長いん関係なくなんねん。ぴたっと付いてきよんねん。脚交差しても,しゃがんでも,ちょっとジルバやっても,付いてきよんねん。タンゴやってもやで。
おれら四曲ほど踊ってん。曲と曲のあいだんとき,あいつめちゃめちゃおもろいねん。ずっと準備の姿勢しとおんねん。喋ったりもしよれへんねん。ふたりとも,オーケストラまた演奏始めんの待って,姿勢保ってなあかんねん。びびるわ。笑てもあかんねん。
とにかく四曲ほど踊って,おれラジオ切ってん。フィービー,ベッド跳んで戻ってカヴァーんなか入りよってん。「わたし上手なってへん?」あいつ訊きよってん。
「上手なったわ。しかもこんなに」おれ言うてん。おれまたベッドのあいつの隣座ってん。ちょっと息切れとったわ。アホみたいに煙草吸うとったから,すぐ息切れてん。あいつ全然息切れしてなかったわ。
「おでこ触って」あいつ急に言いよってん。
「なんで」
「触って。ええから触ってみて」
おれ触ってんけど,なんもなかってん。
「めちゃくちゃ熱出てない?」あいつ言いよってん。
「いや。熱あるんか?」
「うん──わたしいま熱出そてしてんねん。もっかい触って」
ほんでまた触ってんけど,やっぱりなんもなかってん。けど「いま出はじめたとこや思うわ」言うてん。あいつにアホみたいに劣等コンプレックス持ってほしなかってん。
そや,てあいつ肯きよってん。「わたしタンオンケー越すぐらい熱出せんねん」
「体温計な。だれそんなこと言うてん」
「アリス・ホームボーグにやりかた教えてもうてん。脚組んで息止めて,めちゃくちゃ,めちゃくちゃ熱いもん思いうかべんねん。ラディエーターとか。ほた,おでこ全体めちゃめちゃ熱なって,ひとの手火傷させられんねん」
びびったわ。おれ,危ないっいうふりして,あいつのでこから手引っこめてん。「それ言うてくれて助かったわ」おれ言うてん。
「いや,お兄ちゃんの手火傷させたろとは思てなかったわ。熱なったら止めたろ思──シー」ほしたら,急にばって起きあがってベッドのなかで座りよってん。
突然なんや思て,おれめちゃめちゃびびったわ。「なんや。なんか問題あんのか」おれ言うてん。
「うちの戸や!」あいつ息だけではっきり聞こえるように言いよってん。「帰ってきた!」
おれ跳びあがって,走って机の電気消しに行ってん。ほんで煙草靴で消してポケット入れてん。ほんで煙消そう思て空気めちゃめちゃ扇いでん──アホやわ,あそこで煙草吸うたらあかんかったわ。ほんで靴持ってクローゼット入って戸閉めてん。ううわあっ,心臓アホみたいにばくばくいうとったわ。
おかん入ってくる音聞こえてん。
「フィービー」おかん言いよってん。「隠してもあかんよ。灯り点いてんの見えてましたよ」
「おかえり!」フィービーの声聞こえてん。「寝られへんかってん。おもしろかった?」
「楽しかったわあ」おかん言いよってんけど,そんなん本気ちゃうねん。おかんどこ行っても,あんまくつろいでへんねん。「なんでこんな時間に起きてはるんですか。寒かった?」
「ぬくかった。ただ寝られへんかってん」
「フィービー,ここでいま煙草吸うてた? ほんまのこと教えてちょうだい」
「なにが」フィービー言いよってん。
「聞こえてたでしょ」
「一秒だけ火点けてみてん。一服だけ吸うてみてん。ほんで窓から捨ててん」
「なんでそんなことしはったんですか」
「寝られへんかってん」
「わたしはそんなん嫌やわ,フィービー。わたしはそんなん嫌やわ」おかん言いよってん。「毛布もう一枚持ってこよか」
「要らん,ありがと。おやすみ!」フィービー言いよってん。おかんのこと早よ部屋から出そてしてたんや思うわ。
「映画はどうやったん」おかん言いよってん。
「よかったわ。アリスのお母さん以外は。お母さん,映画やってるあいだずっと身乗りだしはってな,アリスにインフルエンザちゃうかて訊いてはってん。家までタクシーで帰ってきてん」
「おでこ触らせてくれる」
「わたしなんもうつってへんで。アリスもなんもひいてへんかってん。お母さん言うてはっただけやねん」
「そう。ほな早よ寝ましょ。晩ごはんはどうやったん」
「カスみたいやったわ」フィービー言いよってん。
「そんな言葉遣いしてるから,こないだお父さんに注意されたんでしょ。なにがカスみたいやったん。ラム・チョップおいしなかった? わたしレキシントン・アヴェニューまで行って──」
「ラム・チョップおいしかったけど,シャーリーンがなんか下ろすとき,いつもわたしに息かけんねん。ごはんとかにも全部息かけんねん。なんでも息かけんねん」
「そう。ほな寝ましょ。お母さんにキスして。お祈りはした?」
「トイレでした。おやすみ」
「おやすみなさい。早よ寝なさいね。頭割れそう」おかん言いよってん。おかん,しょっちゅう頭痛い言うとおんねん。ホンマ。
「アスピリン呑んだら」フィービー言いよってん。「ホールデン,水曜に帰ってくんねんなあ」
「わたしはそう聞いてます。中入って。下まですっぽり潜ってね」
おかん出ていってドア閉める音聞こえてん。おれ二分ぐらい待ってクローゼットから出たら,出たとこでフィービーとぶつかってん。めちゃくちゃ暗かったし,あいつベッド出てこっち来とおってん。「痛かった?」おれ言うてん。ひそひそ声で喋んなあかんかってん。おとんおかん帰ってきとったから。「ほなおれ行くわ」おれ言うてん。おれ暗いなかでベッドの端っこ見つけて,そこ座って靴履きだしてん。かなり焦ったわ。認めるわ。
「いま行かんほうがええんちゃう」フィービー,息だけで言いよってん。「お父さんら寝るまで待ったら」
「いや。いまや。いまがいっちゃんええわ」おれ言うてん。「もうすぐお母さん風呂入るし,お父さんニュースかなんか点けるわ。いまがいっちゃんええわ」おれ靴の紐なかなか結ばれへんかってん。アホみたいに焦っとってん。家でおとんおかんに捕まったら殺されるとか思てたわけちゃうけど,もし捕まったらめちゃくちゃ気まずいやん。「おい,どこや」おれフィービーに言うてん。暗いから,どこおるか見えへんかってん。
「ここ」あいつ,おれのすぐ隣立っとってん。せやのに見えへんかってん。
「おれカバン駅に置いたままやねん」おれ言うてん。「なあ。おカネ持ってる? おれマジ破産してもうてん」
「クリスマスの小遣いやったらあるで。プレゼント買うのん。まだなんも買うてへんねん」
「ああ」おれあいつのクリスマスの小遣い貰いたなかってん。
「なんぼか要る?」あいつ言いよってん。
「クリスマスの小遣い貰たらあかんわ」
「ちょっとやったら貸したんで」あいつ言いよってん。ほんであいつD.B.の机んとこ行って引きだし百万個ぐらい開けて手探りしてる音聞こえてん。真っ暗やってん。部屋んなかめちゃくちゃ暗かってん。「行ってまうんやったら,わたしの劇見られへんなあ」あいつ言いよってん。なんか口調おかしかったわ。
「いや見るわ。芝居見るまでは行けへんわ。おれが後悔したがってる思うか」おれ言うてん。「たぶん火曜の夜までアントリーニ先生とこ泊めてもうて,それから家帰ってくるわ。かけられそうやったら電話するわ」
「はい」フィービー言いよってん。おれにお金渡そうてしとってんけど,おれの手どこあるか分かれへんかってん。
「どこ」
あいつおれの手にお金載せよってん。
「おい,こんな要らんわ」おれ言うてん。「二ドルだけちょうだい,そんだけあったら足りるわ──ほら」おれ返そうてしてんけど,あいつ受けとりよれへんかってん。
「全部持っていきいや。あとで返してくれたらええわ。劇んときに」
「おまえこれなんぼあんねん?」
「八ドル八十五セント。六十五セント。ちょっと使てもてん」
ほしたらおれ急に泣きそうなってん。我慢でけへんかったわ。だれにも聞こえへんようにしてたけど,泣いてもてん。おれ泣いてたらフィービーどうしたらええか分からんようなって,おれんとこ来て泣きやませようてしてんけど,いっかい泣いてもうたら,アホみたいにすぐに止まれへんやん。おれそんときまだベッドの端座っとって,あいつおれの首に抱きついてきて,おれもあいつに抱きついてんけど,しばらく泣きやまれへんかってん。おれ息でけへんようなって死んでまうんちゃうか思たわ。ううわあっ,かわいそうにフィービーどうしてええんか分からんかった思うわ。アホみたいに窓開いとって,あいつ震えてんの分かったわ,あいつパジャマしか着てへんかったから。おれあいつベッドに戻らせようてしてんけど,あいつ戻りよれへんかってん。やっと泣きやんでんけど,長いこと,長いことかかったわ。ほんでおれコートのボタン留めてん。あいつに,おまえとは連絡取るわ言うてん。あいつ,ここでいっしょに寝ていったら言いよってんけど,おれ断わってん。急いだほうがええ,アントリーニ先生おれのこと待ってるから言うてん。ほんでおれコートのポケットからハンティング帽出して,あいつにあげてん。あいつ,そんなアホみたいな帽子好きやねん。あいつ断わりよってんけど,むりやり受けとらせてん。あいつその帽子被って寝た思うわ。ホンマそんな帽子好きやねん。ほんでまた,かけれそうやったら電話するわ言うて,家出てん。
入るときに比べたら出ていくんめちゃめちゃ簡単やったわ。そもそも,もしおれ捕まってももうあんま文句ないわ思とってん。ホンマ。捕まったら捕まったや思とってん。ある意味,捕まえてほしいぐらいやったわ。
下までエレヴェーター乗らんとずっと歩いて降りてん。裏の階段。ごみバケツ一千万個ぐらいあって,つまづいて首折りかけたけど,なんとか無事に外出てん。エレヴェーター係,会えへんかったわ。あいつたぶんいまでもおれディックステーンさんとこおる思とおるわ。
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アントリーニ先生とこ,サットン・プレースのほうのめちゃくちゃ気取ったアパートメントにあってん。リヴィング・ルーム入んのに階段二段降りるようなってて,ほんでバーとかあんねん。おれ前にしょっちゅう先生とこ行っとってん。エルクトン・ヒルズやめたあと,アントリーニ先生おれのようす見にしょっちゅう家まで来てくれて,家で晩ごはん食べたりしとってん。そんとき先生まだ結婚してはれへんかってん。ほんで先生結婚したあと,おれロング・アイランドのフォレスト・ヒルズまで行って,ウェスト・サイド・テニス・クラブで先生と奥さんとしょっちゅうテニスしとってん。奥さんそこの会員やってん。腐るほどカネ持ってはんねん,たぶん。奥さん,先生より六十歳ぐらい年上やねんけど,仲良うやってはったわ。ふたりともめちゃくちゃ知的やから,とくにアントリーニ先生が。まあ先生,いっしょにおったら知的いうより頭の回転速いいう感じやねんけど,D.B.みたいに。奥さん,真面目やねん。喘息ひどいねん。ふたりともD.B.の短編小説全部読んでて──奥さんも読んでて──D.B.ハリウッド行くとき,先生D.B.に電話して行くな言いはってん。それでも兄貴行ってまいよったけど。D.B.みたいにもの書ける人間ハリウッドなんか行かんでええて先生言いはってん。まさにおれと意見同じやねん,ホンマ。
おれ先生とこまで歩いて行きたかってん,フィービーのクリスマスの小遣い使わんで済むんやったら使いたなかったから。けど外出たら,おれ調子おかしかってん。ちょっと目眩してん。せやからタクシー拾てん。乗りたなかってんけど,乗ってん。タクシー見つけるだけでもめちゃめちゃ時間かかったわ。
ドアのベル鳴らしたら,アントリーニ先生ドアまで出てきはってん──その前にエレヴェーター動かして言うて係のアホともめてんけど。先生,バスローブ着てスリッパ履いて,手にハイボール持ってはったわ。めちゃくちゃ上品なひとやねんけど,めちゃくちゃ酒飲みはんねん。「ホールデン,よう!」先生言いはってん。「こいつまた二十インチ背伸びよったわ。おひさしぶり」
「先生,おひさしぶりです。お元気ですか。奥さん,お変わりありませんか」
「ふたりともあいかわらずかっこええで。さあ,そのコートこっち貰お」先生,おれのコート吊るしてくれはってん。「昨日産まれた赤ちゃん抱いて来るんか思とったわ。帰るとこなし。睫毛に雪付けて」先生めちゃくちゃ頭の回転早いてときどき思うわ。先生,振りむいて大きい声で台所のほうに言いはってん。「リリアン! コーヒーどないなってますか」リリアンいうんが奥さんの名前な。
「みな出来てます」奥さんの声聞こえてん。「ホールデン来たん? こんばんは,ホールデン!」
「こんばんは,お邪魔します」
先生とこ行ったら,いっつも大きい声出さなあかんねん。ふたりが同じ部屋おることないねん。それ,なんかへんやったわ。
「まあ座りいや」アントリーニ先生言いはってん。ちょっと酔うてはった思うわ。部屋んなか,さっきパーティー終わったとこいう感じやってん。そこら中にグラス置いたあって,ピーナッツ入ってる皿あちこち残っててん。「散らかってて申しわけない」先生言いはってん。「さっきまで,奥さんのバッファローの友だち何人か来とってん。じつは奥さんの友だち,バッファローやってん」
おれ笑てたら,奥さん台所からおれになんか言いはってんけど,聞こえへんかってん。「いまなんて言いはりました」おれアントリーニ先生に訊いてん。
「そっち行くとき顔見んといて,やて。さっきまで寝とってん。煙草どない。もう煙草吸うてんのん」
「ありがとうございます」おれ言うてん。先生がこっち寄せてくれた箱から,煙草一本取ってん。「ときどき吸うてます。嗜む程度ですけど」
「そや思たわ」先生言いはってん。ほんでテーブルのでっかいライター持って,おれに火点けてくれはってん。「そうか。されば,きみとペンシーは,はや一体にあらず,か」先生言いはってん。先生いっつもそんな言いかたしはんねん。笑えるときもあったし,笑われへんこともあったわ。ちょっとやりすぎなとこあんねん。頭の回転早ないとか言うてるんちゃうねん──早いねん──けど「されば,きみとペンシーは,はや一体にあらず」みたいなこといっつも言われたら苛つくことあんで。D.B.もそんなんばっかり言うことあんねん。
「問題はなんやってん」アントリーニ先生言いはってん。「英語はどないやってん。もし英語落としたんやったら,ただちにこっから出てってもらうで,作文のエースくん」
「ええ,英語はちゃんと通りました。けど,ほとんど文学やったんです。今学期,全部で作文ふたつぐらいしか書いてません」おれ言うてん。「けど口頭表現は落としました。必修で口頭表現いうんあって。それ落としました」
「なんで」
「え,分かりません」おれあんまそんな話したなかってん。そんときなってもずっと目眩みたいなんしとったし,急にめちゃめちゃ頭痛なってきてん。ホンマ。けど先生聞きたそうにしてはったから,ちょっと話してん。「その授業,生徒が一人ずつ立って,なんかについて話するんです。分かります? 自発的に話するんです。ほんで,話がちょっとでも主題から逸れたら,聞いてるやつすぐ『逸脱!』言わなあきませんねん。頭おかしなりました。F付けられました」
「なんで」
「え,分かりません。そういう逸脱とか,ぼく苛つくんです。分かりませんけど。問題は,ぼく,ひとの話が逸脱すんの好きなんです。そのほうが聞きたなるんです」
「ひとがなんかの話をするとき,話がぴったり主題に沿うてんのがきみは嫌なんか」
「いや,そんなことありません! 話が主題に沿うてんのはええことや思います。けど,ぴったりしすぎは嫌なんです。分かりませんけど。ずっと主題に沿うた話ばっかりされんのが嫌なんや思います。口頭表現で成績優秀のやつらて,ずっと主題に沿うた話しよるんです──それは認めます。けど,リチャード・キンセラいうやつおって,そいつ主題に沿うた話あんまでけへんかったから,いっつもみんなに『逸脱!』言われとおったんです。かわいそうやったんです,そいつめちゃくちゃあがり症で──ホンマめちゃくちゃあがり症やったんです──話する順番来たらいっつも唇震えてて,教室の後ろのほう座ってたらなに言うてんのか聞こえへんぐらいやったんです。けど,唇震えんのちょっと止まったときのそいつの話,おれいっちゃん好きでした。けど,そいつもその授業,実質的に落ちよったんです。いっつも『逸脱!』言われとったから,Dプラス付けられよったんです。たとえば,そいつ,お父さんヴァーモントで買うた農場の話したことあったんです。そいつその話してるとき,みんなずうっと『逸脱!』言うとって,ヴィンソンいう先生,そんときF付けたんです。その農場でどんな動物飼うてるかとか,どんな作物育ててるかとか言えへんかったいうて。そんときそいつ,リチャード・キンセラ,そんな話しかけたんですけど──急にお母さんとこに伯父さんから手紙来た言いだして,伯父さん四十二歳で小児麻痺かかって,装具付けてるとこ見られんの嫌やからだれも病院に見舞い来させへんいう話しよったんです。たしかにその話,農場にあんま関係ありませんけど──それは認めます──けど,ええ話やったんです。ひとの叔父さんの話って,ええ話多いんですよ。とくに,お父さんの農場の話するはずやったのに,急に叔父さんの話したなったときは。ひとがええ話して必死なってんのに,そいつに『逸脱!』言いつづけんの汚い思うんですよ。分かりませんけど。説明すんの,むつかしいですけど」あんまり説明しよいう気もなかってんけど。なんでかて,急にめちゃくちゃ頭痛なってん。奥さん早よコーヒー持って来て思たわ。そういうん,おれめちゃくちゃ苛々すんねん──コーヒー出来てます言うたのにホンマは出来てへんのとか。
「あんな,ホールデン。ひとつ短い,あんま手ごわない,教師側からの質問やけどな。なんにでも時と所があると思わんか? お父さんの農場の話しだしたんやったら,それについてなんかを言うべきで,叔父さんの装具の話はそのあとでしたらええ思わんか? それか,もし叔父さんの装具の話がそんなに感情揺さぶるんやったら,そのひとはハナからそれを主題にしといたらよかったんちゃうか,農場の話なんかせんと」
おれあんまり考えたり返事する気なれへんかってん。頭痛かったし,カスみたいな気分やってん。胃も痛なってきてん,マジで。
「思います──分かりませんけど。そうすべきや思います。叔父さんの装具の話いっちゃんしたいんやったら,農場のことなんか言わんと,叔父さんを主題にしとくべきやった思います。けど,あんま興味ないこと話しだしてからやないと自分がホンマはなんの話したいんか分からんことって,けっこう多い思うんですよ。それ,しゃあないときかてある思うんです。せやから,ひとが聞きたなる話そいつがしてて,そいつが必死でその話してるんやったら,そのままにしといたったらええ思うんですよ。ぼく,ひとが必死なってんの好きなんです。感じええんですよ。先生,ヴィンソン先生のこと知らんから。その先生の授業受けてたら,頭おかしなることあるんです。先生自身も,クラス全員も,おかしなるんです。先生いっつも,主題をひとつにして,ほんで簡潔に,言いはるんです。けど,言われてもでけへんことかてありますやん。主題をひとつにして,簡潔に,てだれかに言われても,そんなんなかなかできませんやん。先生,ヴィンソン先生のこと知らんから。その先生めちゃくちゃ頭ええ思いますけど,あんま脳みそない思うんですよ」
「コーヒーお持ちしました,おふたりさん,えらいお待たせ」奥さん言いはってん。お盆にコーヒーとかお菓子とか載せて,入ってきはってん。「ホールデン,こっち向かんといてや。いま,わやくちゃなってるさかい」
「こんばんは」おれ言うてん。立ちあがろてしたら,先生おれの上着引っぱって座らされてん。奥さん,髪の毛いっぱいにあのアイロン・カーラーのやつ付けとって,口紅とか塗ってへんかってん。あんま美人て感じせえへんかったわ。えらい老けた感じしたわ。
「ここ置いときます。ふたりで取って」奥さん言いはってん。ほんで小さいテーブルの邪魔なグラス押してどけて,お盆置きはってん。「お母さんのおかげんはいかが」
「元気です,ありがとうございます。最近会うてませんけど,前に──」
「なあ,ホールデンがなんか要る言うたら,シーツ入ってる棚に全部揃てるから。てっぺんの棚に。ほな寝るわ。もうくたくたや」奥さん言いはってん。たしかに,くたくたそうやったわ。「その寝椅子,自分らでちゃんと寝られるようにできる?」
「こっちで全部やるわ。もう寝」先生言いはってん。先生,奥さんにキスして,奥さん,おれにおやすみ言うて寝室行きはってん。あのふたり,いっつも人前でキスしはんねん。
おれ,ちょっとコーヒー飲んで,お菓子半分ほど食うてんけど,石みたいに固かったわ。けど,アントリーニ先生,そっち手付けんと,またハイボール飲んではってん。ふだんから濃いのん飲んではる思うわ。気つけんと,アルコール依存症なるかもしれんわ。
「二週間ほど前,きみのお父さんと昼ごはんご一緒したんや」先生,急に言いはってん。「それ聞いた?」
「いえ,知りません」
「お父さん,きみのことえらい心配してはんねん,分かってるやろうけど,もちろん」
「分かってます。せや思います」おれ言うてん。
「お父さんが電話くれはってな,たぶん,お父さんとこに,きみの元校長先生から,長い,心をかきむしる手紙が届いたからや思うわ。きみがまったく努力してへんて書いたあったそうや。授業をさぼる。どの授業にも予習せんと来る。全般的に──」
「授業はさぼってません。さぼったらあかんことなってたんです。ときどき出席せえへんかった授業はちょっとありましたけど,さっき言うてた口頭表現とか。けど,ぼく授業はさぼってません」
おれ,言いあいする気なかってん。コーヒー飲んだら胃の具合ちょっとましなってんけど,ずっと頭痛しとってん。
先生,また煙草に火点けはってん。鬼みたいに煙草吸うてはったわ。ほんで言いはってん。「率直に言うと,ぼくはきみになにを言うたらええんかよう分からんねん」
「分かります。ぼく,話相手に向いてない思います。分かってます」
「きみはなんか恐ろしい,恐ろしい転落みたいなもんを目指して駆けてるんやないかて,ぼくは感じてんねん。けど正直言うて,それがどんな... 話聞いてるか?」
「はい」
先生,集中しようとしはったんや思うわ。
「三十歳ぐらいで,どっかのバー座って,客がまるで大学でフットボールの試合やってましたみたいな顔で入って来たら,そいつらのこといちいち嫌うようになる転落かもしれん。けどあいにくきみは教育を受けて,『絶対せやねん。ちゃうか。たぶんせやで』とか言うようなひとらのことを嫌うようにもなってるやろ。それか,きみはどっかの会社入って,近くのタイピストにクリップ投げつけるような人間になりはててるかもしれん。ぼくには分からんわ。なんの話してるか分かるか?」
「はい。分かってます」おれ言うてん。ホンマ分かっててん。「ひとのこと嫌ういうんは,ちゃう思います。フットボールの選手嫌うとか。ホンマちゃいます。おれ,嫌いなやつそんないてません。たしかに,そういうやつらのこと,しばらく嫌てることありますけど。ペンシーで知りおうたストラドレーターとか,もうひとりロバート・アクリーみたいに。ぼく,そいつらのことときどき嫌てましたけど──それは認めます──そんなん後引きません,ホンマに。しばらくそいつらに会えへんかったら,そいつら部屋来えへんかったら,それか食堂で昼も夜も見かけへんかったら,そいつらのこと思いだして会いたなるんです。ホンマ,ある種,会いたなるんですよ」
アントリーニ先生,しばらく黙ってはってん。立って,グラスにごっつい氷入れて,また座りはってん。なんか考えてはったんや思うわ。おれ,話の続き,いまやのうて,明日の朝にしてくれたらええのにてずっと思とってんけど,先生熱なっとってん。だいたいみんな,ひとが話したないときに,熱なんねん。
「分かった。ちょっとこれは聞いて... これ覚えといてほしいねんけど,いまは覚えてもらえるようにぼくが言葉選ばれへんかもしれん。明日かあさってに,手紙に書きなおしてきみに送るわ。ほしたら,ちゃんと意味分かるやろ思うねん。けど,とにかくちょっと聞いて」先生また気持ち集中させて言いはってん。「きみが向こてるとぼくが思てる転落は──特殊な転落やねん,恐ろしいやつや。落ちてる人間は,自分が底にぶつかったと感じることも,その音を聞くことも,許されてへんねん。ただ落ちて落ちていくだけや。人生のなんらかの時期に,そのひとの暮らしてる環境で手に入らんもんを探してた人間が,そういう目遭うねん。自分の環境では手に入らんと自分で思てたもん,言うてもええわ。せやから,探すのやめてしもてん。ホンマになんか始めるまえに諦めてしもてん。話,付いてきてるか」
「はい,聞いてます」
「ホンマに」
「はい」
先生,立って,グラスにまた酒注ぎはってん。ほんでまた座りはってん。長いこと黙ってはったわ。
「脅かすつもりはないねんけど」先生言いはってん。「ぼくはな,きみが,ほぼ値せん理由のために,ある意味で気高う死につつあるとはっきり見えてるんや」先生,そう言うて,おれにおもろい顔してきはったわ。「きみになんか書いたら,よう読んでくれるか。ほんで,取っといてくれるか」
「はい,分かりました」おれ言うてん。ほんで,そうしてん。そんとき貰た紙,いまでも持ってるわ。
先生,部屋の隅の机まで行って,立ったまま紙になんか書きはってん。ほんで戻って来て,その紙持ったまま座りはってん。「不思議なことに,これ書いたひとは,いわゆる詩人やないねん。これ書いたひとは,精神分析士で,ウィルヘルム・ステッケルいうねん。これがな──大丈夫か,付いてきてるか」
「はい,大丈夫です」
「そのひとが,こんなこと言うてはんねん。『未成熟な人間の特徴は,なんらかの理由をつけて気高く死にたがることであり,他方,成熟した人間の特徴は,なんらかの理由をつけて卑しく生きたがることである。』」
先生,身乗りだして,その紙おれにくれはってん。おれそれ貰て,すぐ読んで,ありがとうございます言うてポケット仕舞てん。そんだけ手間かけてくれはったん,ええひとや思うわ。ホンマ。けどおれ,あんま集中できる気分ちゃうかってん。ううわあっ,急にアホみたいに眠たなってん。
けど,先生ぜんぜん眠たなかった思うわ。酔うて機嫌良うなってはったから。「そのうち」先生言いはってん。「きみは自分がどっち向こて進みたいか分かるやろ思うわ。ほしたら,それが分かったとっから,やり直さなあかん。それやったら,いますぐ進みだしたらどや。一分でももったいない。きみにそんな余裕はない。あれへんで」
おれ,肯いてん。先生,おれのこと正面から見てはったから。けど,なに言うてはんのか,あんまよう分からんかってん。いや,分かっててんけど,そんときそんな気分ちゃうかってん。おれアホみたいに眠たかってん。
「ほんで,こんなこと言いたないねんけど」先生言いはってん。「自分がどっち行きたいかはっきり分かったら,まず始めにせなあかんのは,学校に適応することや思うで。そうせなしゃあないねん。きみにはまだ学ぶべきことがあんねん──そういう考えがきみに訴えるかどうかは別にして。知識を愛してみ。ヴィンス先生みたいなひとらの授業いっかいひと通り受けて,その先生らの口頭表現──」
「ヴィンソン先生です」おれ言うてん。先生,ヴィンソン言うつもりでヴィンス言いはってん。けどおれ,口挟まんほうがよかった思たわ。
「そうか──ヴィンソン先生。いったんヴィンソン先生みたいなひとらの授業全部受けたら,きみは,きみの心にめちゃくちゃ,めちゃくちゃしっくりくる種類の情報にだんだん,だんだん近づきだすねん──もしきみがそれを欲して,探して,待ってたらな。他人の人間的な行動によって,精神を乱されたり,脅威を感じたり,あるいは病気になりさえしたんは,きみが最初やない,いうことも分かるはずや。せやからきみは,ぜんぜん孤独やないねん。そういうことが分かってきたら,俄然おもしろなってくるし,突きうごかされるように知りたい思うようなるわ。これまで仰山,仰山のひとらが,世のなかはこんなんでええんかとか,ひとの魂はこんなんでええんかいうて,ちょうどいまのきみと同じように問題にぶつかってきてん。さいわい,そのうちの一部のひとらは,その記録を残してくれてんねん。そっから学ぶもん,ある思うで──もしきみが学びたい思うねやったら。ほんで,もしきみがほかのひとらに残せるもんを持ってるんやったら,いつかだれかがきみからなんかを学ぶことやろ。それは,美しい互酬性のつながりや。ほんで,それは教育ちゃうねん。それは歴史やねん。それは詩やねん」先生そこで話止めて,ハイボールぐう飲みはってん。ほんで,また喋りだしはってん。ううわあっ,ホンマどんだけ熱なってはったか。話止めてもらおうとかせんでよかった思たわ。「誤解してほしないねんけどな」先生言いはってん。「教育を受けて学識のあるひとだけが,価値あるもんを世界に残せる言うてんのとちゃうねん。せやないねん。けどな,教育を受けて学識のあるひとが,もともと頭良うて創作に向いてたら──残念ながら,そんなことはめったにないねんけど──たんに頭良うて創作に向いてるひとらより,かぎり無う高い価値のある記録をあとへ残しがちやねん。そういうひとらは,自分の考えをほかのひとらより明確に表現するし,それを徹底的に展開したいいう情熱持ってんのがふつうやねん。ほんで──いっちゃん大事なこっちゃ──そういうひとらは十中八九,学識のない思想家より謙虚やねん。話,付いてきてるか」
「はい,付いていってます」
先生また長いこと黙ってはってん。そんなんしたことあるかどうか知らんけど,ひとがなに言おうか考えてんのとかずっと待って座ってんのって,ある意味きついで。ホンマ。おれずっと欠伸がまんしとってん。話おもんなかったわけちゃうけど──それはちゃうかってん──けどおれ急にアホみたいに眠たなってん。
「学校教育がきみの役に立つことは,それ以外にもあんねん。学校教育で相応のとこまで進んだら,きみの思考能力の大きさがどれぐらいか分かるようなんねん。きみの思考能力がなにに向いてるかとか,それから,なにに向いてへんいうこともたぶん分かるわ。しばらくしたら,自分の思考能力がちょうどこんな大きさやから,それに合わせてこんな考えかたを身に纏たらええて分かるわ。そうするとひとつええんは,きみに合えへん考えかた,きみには身に付かん考えかたを試すのにかかる,異常に膨大な時間が節約できんねん。自分のホンマの大きさが分かるようなって,それに合わせて思考能力に服着せていくようなるわ」
そんとき急に,おれ欠伸してん。なんちゅう無作法なやっちゃ。けど,がまんでけへんかってん。
けど,アントリーニ先生,笑てはったわ。「さあ」先生言うて,立ちはってん。「そろそろ,きみの寝床いっしょに作ろか」
おれ付いていったら,先生,棚んとこ行って,いっちゃん上の段のシーツとか毛布とか下ろそうてしはってんけど,ハイボールのグラス持ってはったから,下ろされへんかってん。せやから先生,それ飲んで,グラス床置いてから,シーツとか下ろしはってん。おれ,寝椅子んとこまで,それ先生と持ってってん。ほんで先生とおれで,寝椅子寝れるようにしてってん。先生,あんまやる気なかったわ。シーツとか,あんまきつ引っぱりはれへんねん。けどおれ,そんなんどっちでもよかってん。めちゃくちゃ疲れとったから,立ってでも寝れた思うわ。
「女の子らみなどうしてんの」
「元気にしてます」おれ,カスみたいな返事しとったわ。けどおれ,話する気なれへんかってん。
「サリーは元気にしてる?」先生,サリー・ヘーズ知ってはってん。いっかいおれ紹介してん。
「元気です。おれあいつと今日,昼からデートしてました」ううわあっ,もう二十年前のことちゃうか思たわ。「もうおれら,共通の話題とかあんまありませんねん」
「めちゃくちゃかわいい子やないか。もうひとりの子はどないしてんの。前言うてたメーン州の子」
「ああ,ジェーン・ギャラガー。元気です。たぶん明日,電話する思います」
ほんで寝椅子の仕度できてん。「好きなように使て」アントリーニ先生言いはってん。「その長い脚どうするつもりか,ぼくにはさっぱり分からんけど」
「大丈夫です。短いベッド慣れてますから」おれ言うてん。「ありがとうございました,先生。先生と奥さんのおかげで,ぼく今夜,命拾いしました」
「トイレどこか分かってるよな。なんか要るもんあったら,大きい声で言うて。ぼくはしばらく台所おるわ──電気点けとったら眩しいか?」
「いえ,ぜんぜん。ありがとうございます」
「よし。ほな,おやすみ,ハンサムくん」
「おやすみなさい。ありがとうございました」
先生,台所行って,おれトイレ行って服脱いでん。歯ブラシ持ってなかったから,歯磨かれへんかってん。パジャマもなかってん。アントリーニ先生,貸してくれんの忘れとってん。せやからリヴィング・ルーム戻って,寝椅子んとこあった小さいランプ消して,パンツ一丁で寝転んでん。寝椅子かなり短かったけど,おれホンマまばたきひとつせんと立ったまま寝れそうやってん。寝転んで二秒ぐらい目覚ましとったわ。アントリーニ先生言うてくれはったこと思いだしながら。思考能力の大きさ分かるとかいうの。ホンマ頭ええひとやわ。けどおれ目開けてられへんようなって,寝てもてん。
ほしたら,あれ起こってん。あれ,話すんのも嫌やねんけど。
おれ急に目覚めてん。何時ごろやったか分からんけど,とにかく目覚めてん。ほしたら,なんかおれの頭触っとってん。だれかの手やってん。ううわあっ,ホンマ怖かったわ。ほしたらそれ,アントリーニ先生の手やってん。先生,寝椅子の横で床座って,真っ暗んなかでおれの頭愛撫しとってん。それか,触っとってん。ううわあっ,おれ千フィートぐらい跳びあがった思うわ。
「なにしてはるんですか」おれ言うてん。
「なにて! ただ座って,かわいい──」
「ちょっと,なにしてはるんですか?」おれ,また言うてん。なんて言うたらええか分からんかってん──めちゃくちゃ焦ったわ。
「小さい声で喋ろ。ぼくはただここで──」
「ぼくもう行かなあきませんわ」おれ言うてん──ううわあっ,どんだけ動揺しとったか。真っ暗んなかでズボン穿こ思てんけど,動揺してなかなか穿かれへんかってん。おれ学校とかで,どんな知りあいより仰山アホみたいな変態見てきたけど,あいつら,おれのおるところでだけ変態性発揮しよんねん。
「行くて,どこへ」アントリーニ先生言いはってん。先生めちゃくちゃいつもどおり,落ちついて喋ろてしてはったけど,ぜんぜん落ちついてはれへんかったわ。これはおれの言うこと信用して。
「駅にカバンとか置いたままにしたあるんです。たぶんそろそろ取りに行ったほうがええ思うんです。なんやかや入ってるから」
「それは朝なってからでかまへんやろ。ほら,もっかい寝。ぼくも寝るわ。なにが問題やねん」
「なんも問題ありません。カバンふたつあって,その片っぽに,お金とか細々したもんとか全部入れたあるんです。すぐ戻って来ます。タクシーでまっすぐ戻ってきます」おれ言うてん。ううわあっ,真っ暗んなか,どんだけこけそうなったか。「問題は,それぼくのお金ちゃうんです。母親のんなんです。ぼく──」
「アホなこと言わんと,ホールデン。もっかい寝。ぼくも寝るわ。お金は朝までそこ置いといたら安全──」
「いやホンマ,そろそろ行かなあきません。ホンマに」おれほとんど服着ててんけど,ネクタイだけ見つかれへんかってん。どこ置いたか思いだされへんかってん。しゃあないからネクタイなしで上着とか着たわ。アントリーニ先生,そんとき,おれからちょっと離れた大きい椅子座って,おれのことじっと見てはってん。暗かったし,先生のことあんま見えへんかってんけど,それでもおれのこと見てはんの分かったわ。そんときも酒飲んではってん。相棒のハイボールのグラス持ってはんの見えてん。
「きみはめちゃくちゃ,めちゃくちゃ変わった子やな」
「分かってます」おれ言うてん。もうネクタイ探すの止めてん。ネクタイなしで行くことにしてん。「さようなら,先生」おれ言うてん。「ありがとうございました,ホンマに」
おれ入口のドアんとこ行くのに,先生ずっと付いてきはってん。エレヴェーターのベル鳴らしても,ドアんとこいてはったわ。もっかい「めちゃくちゃ,めちゃくちゃ変わった子」言いはって,それ以外なんも言いはれへんかったけど。変わってるて,アホか。ほんでアホみたいなエレヴェーター来るまで,先生ドアんとこずっといてはってん。人生であんな長いことエレヴェーター待ったことなかったわ。ホンマに。
エレヴェーター待ってるあいだ,おれなに言うたらええんか分からんかってん。先生そこ立ってはるから,おれ言うてん。「これからええ本読むようにします。ホンマです」なんか言わなしゃあなかってん。めちゃくちゃ気まずかったわ。
「カバン取ったら,またすぐ戻ってこいよ。鍵開けとくから」
「ありがとうございます」おれ言うてん。「さよなら!」やっとエレヴェーター来てん。おれ乗って,下降りてん。ううわあっ,おれきちがいみたいに震えとったわ。汗も,びしょうかいとってん。あんな変態行為に遭遇したら,おれアホみたいに汗出てくんねん。そんなん,子どもんときから二十回ぐらい遭うてんねん。耐えられへんわ。
25
外出たら,ちょうど明るなりかけとってん。けっこう寒かったけど,めちゃくちゃ汗かいとったから,気持ちよかったわ。
おれ行くあてなかってん。またホテル泊まってフィービーの小遣い全部使いたなかったし。ほんで結局レキシントンまで歩いて,地下鉄でグランド・セントラル行ってん。そこ行ったらカバンあるし,待合室にベンチあるからあっこで寝れるやろ思てん。ほんでホンマに寝てん。ちょっとの間やったら,そんな悪なかったわ。あんまひとおれへんかったから,足上げてられたし。けど,良かった言いたいわけちゃうねん。そんな良うなかったわ。あんなん,やらんほうがええで。マジで。悲しなんで。
結局,九時ごろまでしか寝られへんかってん。待合室にひと百万人ぐらい入って来て,足下ろさなあかんかってん。足床着けてたら,おれあんま寝られへんねん。せやから,ちゃんと座ってん。まだ頭痛しとったわ。前よりひどなっとってん。ほんで,いま考えたら,そんとき人生でいちばん悲しなっとった思うわ。
アントリーニ先生のこと考えたなかってんけど,思いだしてもて,奥さん,おれ寝てへんとか気ついたとき,先生なんて言いはんねやろ思てん。けど,それあんまり心配ちゃうかったわ。先生めちゃくちゃ頭ええから,なんか上手いこと言いはるて分かってたから。おれが家帰ったとか。それあんま心配ちゃうかってん。気になったん,おれ目覚めたとき,なんで先生おれの頭ぽんぽんて撫でてんやろいうことやってん。先生おれにおかまみたいに迫ってきた思たん,たぶん誤解やったんちゃうかとか考えてん。先生たぶん寝てるやつの頭触んの好きなだけちゃうかとか。そんなん,はっきりしたこと分かる? 分からんで。おれカバン取ったら,先生に言うたとおり,先生の家戻ったほうがええんちゃうかとか思とってん。かりに先生おかまやとしても,先生めちゃくちゃええひとやん思てん。あんな夜遅う電話したのに嫌がらんと,来たかったらすぐ来い言うてくれたし。あんだけ手間かけて思考能力の大きさ分かるいう話してくれたし,前言うたジェームズ・キャッスル死んだとき先生以外だれも近寄りさえせえへんかったし。そんなこと考えとってん。考えたら考えるほど,悲しなったわ。おれたぶん先生の家戻るべきなんちゃうか思とってん。たぶん先生,おれの頭撫でとったん,たいした意味なかってん。けど,そう考えとったら,だんだん悲しなってきて,だんだん苦しなってきてん。せやし,こんどは目アホみたいに痛なってきてん。あんま寝てへんかったから,焼けるみたいに痛なってきてん。それだけやったらええねんけど,おれ風邪ひきかけとって,ハンカチ持ってなかってん。スーツケースんなか入っとったけど,金庫からスーツケース出して人前で開ける気せえへんかってん。
ベンチの隣に,だれか置いてった雑誌あったから,先生のこととかほか百万ぐらいのこと考えるんちょっとのあいだだけでも止められるんちゃうか思て,それ読みだしてん。けど,始めに読んだアホみたいな記事のせいで,余計気分悪なるとこやったわ。ホルモンのこと書いたあってん。ホルモンの調子良かったら,顔とか目とかどうなるとか書いたあってんけど,おれぜんぜんそうなってへんかってん。おれ,その記事で,ホルモン,カスみたいなってるやつそのものやってん。ほんでホルモンのこと心配なってん。ほんで別の記事に,癌なってるかどうかどうやって分かるか書いたあってん。口んなかすぐ治れへん痛みあったら,たぶんそれ癌なってる兆候やて書いたあってん。おれ,唇の内側に二週間も痛いとこあってん。せやからおれ癌なってんねや思てん。あんま楽しない雑誌やったわ。結局それ読むん止めて,散歩しに外出てん。おれ癌やから二か月もしたら死ぬやろ思いながら。ホンマに。そのほうがええ思たわ。たしかに,あんまええ気せんかったけど。
なんか雨降りそうやってんけど,そのまま歩いとってん。朝飯食うたほうがええ思てん。ぜんぜん腹減ってなかってんけど,ちょっとでもなんか食うといたほうがええ思てん。せめてなんかヴィタミン入ってるもん食うといたほうがええ思てん。東のほうにかなり安い食堂あるから,そっちのほう歩いてってん,あんまお金使いたなかったから。
歩いてたら,おっさんふたりトラックからこんなでっかいクリスマス・トゥリー降ろしとってん。ひとりのおっさん,もうひとりに「このアホみたいなやつ,立てて抱えて! 立てんかい,あほんだら!」言うとおってん。クリスマス・トゥリーのこと言うてんのに,えらい言いかたやったわ。けどおもろかってん,ひどい言いかたやったけど,ある意味。ほんで,おれ笑いかけてん。けど考えられるなかで,それ最悪の選択やったわ。笑おてしたら,吐きかけてん。ホンマに。吐く寸前のとこまでいったけど,収まったわ。なんでか分からん。不衛生なもんとか食うたわけちゃうし,おれふだん胃かなり丈夫やねん。とにかく,吐き気収まって,なんか食うたほうが気分良うなるやろ思てん。せやから,安そうな食堂入って,ドーナッツとコーヒー注文してん。けど,そのドーナッツ食えへんかってん。うまいこと呑みこめそうになかってん。なんか悲しいことあったら,もの呑みこむんめちゃくちゃきついねん。けどウェーター,めちゃくちゃええやつやったわ。ドーナッツ下げて,その分お金取れへんかってん。おれコーヒーだけ飲んでん。ほんで店出て,五番街のほう歩いていってん。
月曜で,もうじきクリスマスやったから,店全部開いとってん。せやから五番街歩くん,あんま悪なかったわ。ホンマ,クリスマスっぽかったわ。痩せたサンタ・クロース角立って鈴鳴らしてるし,救世軍の女の子らも,口紅とか塗ってへん子らが,鈴鳴らしとってん。前の日に朝飯食うてるとき会うた尼さんふたりおれへんかなてちょっと見ててんけど,見つからんかったわ。ニュー・ヨークで学校の先生する言うてはったから無理やろ思とってんけど,いちおう探してん。とにかく,急にめちゃくちゃクリスマスっぽなってん。子どもら百万人ぐらい,お母さんといっしょに賑やかなとこでバス乗ったり降りたり店入ったり出たりしとってん。フィービーおったらええのに思たわ。あいつ,もう玩具売場で目見開くような年齢ちゃうねんけど,ひとのことおちょくって,そのようす見んの好きやねん。二年前のクリスマスに,あいつ買いもん連れてってん。めちゃくちゃおもろかったわ。ブルーミングデール行ったんちゃうかな。靴売場行って,フィービー,雨降り用のめちゃくちゃ背高い靴買うふりしよってん。靴紐通す穴,百万個ぐらい開いてるやつ。かわいそうに,店員だんだん必死なりよってん。フィービー,二十足ぐらい試しに履いて,そのたびに店員靴紐ずっと上まで通さなあかんかってん。悪いやつやけど,フィービーめちゃめちゃおもろがっとったわ。おれら結局モカシン買うて,ツケにしてもうてん。店員めちゃくちゃええひとやったわ。おれらおちょくっとったん,店員分かってた思うわ。フィービーいっつも笑いよるから。
とにかくおれ,五番街どんどん歩いとってん。ネクタイとかせんと。ほしたら急に,めちゃくちゃ不気味なこと起こってん。交差点のとこまで来て歩道の縁石降りるたび,おれ交差点の向こうまで行かれへんのちゃうかて感じしてん。だんだん落ちて,落ちて,落ちてって,もうだれもおれの姿見えへんようなるんちゃうか思てん。ううわあっ,どんだけ怖かったか。想像でけへん思うわ。おれアホみたいに汗かきだしてん──シャツ一面とかパンツとか全身に。せやから,おれアリーに話してみてん。交差点着くたび,いま弟のアリーに話してるて信じこむことにしてん。「アリー,おれのこと消さんといて。アリー,おれのこと消さんといて。アリー,おれのこと消さんといて。お願いします,アリー」いうて。ほんで消えんと交差点渡ったら,アリーにありがとう言うてん。ほんで次の交差点着いたら,それの繰りかえし。歩くんは止めへんかってん。なんか止まるん怖かったんや思うわ──覚えてへんけど,マジで。六十何番街のあたりまで止まれへんかったん覚えてるわ,動物園とか通りこして。ほんでベンチ座ってん。息切れとったし,そんときもアホみたいに汗かいとってん。そこで一時間ぐらい座っとったんちゃうかな。ほんで結局おれ,どっか行ってまお思てん。もう家帰らんと,もう別の学校とかも行かんと。フィービーにだけは会うて,そのこと言うて,クリスマスの小遣い返したら,そのあとヒッチハイクして西部行こ思てん。ホランド・トンネル行って車乗せてもうて,ほんで次の車乗せてもうて,ほんでまた乗せてもうて,乗せてもうて,二,三日したらどっか西部の,めちゃくちゃ天気ええ,だれもおれのこと知らんとこ着くやろから,ほしたらそこで働こ思てん。どっかのガソリン・スタンドで,ひとの車にガソリン入れたりオイル入れたりする仕事見つかるやろ思てん。けど,なんの仕事でもよかってん。だれもおれのこと知らんと,おれもだれのことも知らんかったら。おれそこで,耳聞こえへんし喋られへんふりしよ思てん。アホみたいな意味ない会話せんでええように。だれかおれになんか言うことあんねやったら,いっかい紙に書いてそれ持ってこなあかんねん。しばらくしたら,みんなそんなん飽きてまうやん。ほしたら,おれ残り一生だれとも会話せんでええようなんねん。みんなおれのこと,耳聞こえへん喋られへんかわいそうなアホや思て,放っといてくれるやん。そいつらの間抜けな車にガソリンとかオイル入れて,それで給料貰て,そうやって稼いだカネでどっかに自分で小さい小屋建てて,残りの一生そこ住も思てん。森のすぐ近くがええわ。森んなかは嫌やな。いっつも日当たりええんがええやん。料理は全部自分ですんねん。ほんでしばらくして,結婚とかしたい思たら,やっぱり耳聞こえへん喋られへんかわいい子見つけて結婚すんねん。その子と小屋でいっしょに暮らすねん。その子も,おれになんか言いたいことあったら,アホみたいに紙書かなあかんねん,ほかのやつらみたいに。子どもできたら,隠して育てるわ。本いっぱい買うて,読み書きは自分らで教えんねん。
そんなん考えとったら,おもろなってきてん。ホンマ。耳聞こえへん喋られへんふりするってアホや思とったけど,そのこと考えとったらおもろかってん。けどおれホンマ西部行こ思てん。せやから,フィービーに別れの挨拶だけしときたかってん。ほんで急に,頭おかしなったみたいに走って通り渡って──もうちょっとでアホみたいに死ぬとこやったわ,マジで──文房具屋入って便箋と鉛筆買うてん。別れの挨拶してクリスマスの小遣い返したいからどこどこで会おてフィービーに手紙書いて,それ学校持ってって,校長室におるだれかに言うてフィービーに渡してもらお思てん。けどおれ便箋と鉛筆ポケット入れて,アホみたいに早足で学校のほう歩いていってもうてん──早よ行かな思て,文房具屋んなかで手紙書くん忘れとってん。フィービー昼ごはん食べに家帰るまえに,おれ手紙渡したかったから,急いどってん。あんま時間なかってん。
学校の場所分かってたわ。あたりまえやん,おれ子どものころ通とった学校やねんから。学校着いたら,おもろかったわ。学校んなか,どうなってるか覚えてるかな思たけど,覚えとったわ。なにもかも,おれが通とったころと同じやったわ。でっかい中庭,あいかわらずで,いっつもなんか薄暗いねん。籠みたいななかに電球入ってんねん,ボールぶつかっても割れんように。床のそこらじゅうに,ゲームとかに使う白い円描いたあるんも,変わってなかったわ。ネットないバスケットボールのリングも──バックボードとリングだけの。
だれもおれへんかったわ。たぶん休み時間ちゃうかったし,まだ昼休みなってなかったし。小さい男の子,黒人の子,便所行くん見ただけやったわ。木で作った通行証,ケツのポケット入れとおってん。おれらんときと,いっしょや。便所行ってええ許可とか貰てるいう標やねん。
おれそんときも汗かいとったけど,もうあんまひどなかってん。階段とこ行って,いっちゃん下の段座って,さっき買うた便箋と鉛筆出してん。階段の臭い,おれ通てたころといっしょやったわ。だれかさっき小便漏らしたみたいな。学校の階段て,いっつもそんな臭いすんねん。とにかく,そこ座って,こんな手紙書いてん:
フィービー様,
僕はもう水曜日まで待ってられないので,たぶん今日の昼過ぎにヒッチ・ハイクで西へ向かいます。もし来られるならば,12時15分に美術のほうのミュージアムの入口あたりで会いましょう,クリスマスの小遣いを返します。あんまり使っていません。
愛をこめて,
ホールデン
学校,美術館のホンマすぐ近くあって,昼飯食いに家帰るんやったら,どっちみちその前通らなあかんから,会えるやろ思てん。
ほんでおれ階段上って校長室行ってん。フィービーの教室まで持ってってくれるひとに手紙渡そ思て。だれも開けへんように十回ぐらい折ったわ。学校におるやつ,だれも信用でけへんやん。けど,兄弟やったら手紙渡してくれるんは分かっててん。
階段上ってるとき,急にまた吐きそうなってん。大丈夫やってんけど。一瞬へたりこんで,ほしたらましなってん。けど座りこんでるとき,びっくりするもん見えてん。だれか壁に「おめこ」て書いとおってん。おれアホみたいに焦ったわ。こんなんフィービーとかほかの小さい子見たらどうすんねん思たわ。どういう意味やろて考えるやろし,そのうちだれかスケベエな子がみんなに言いよんねん──どうせでたらめやねんけど──どんな意味やて。それ聞いてみんなどう思うねやろ,たぶん二,三日怖がるんちゃうか思てん。だれ書きよってん,殺したろか思たわ。どっかの変態夜中学校忍びこんで,小便とかして,壁にあれ書きよったんやろ思てん。そいつそんなんしてるとこ,おれ捕まえて,そいつの頭石の階段にごんごんぶつけて,ぐったり血まみれで殺すとこ想像してん。けどおれそんな根性ないいうんも分かってたわ。それは分かってたわ。せやから,余計悲しなってん。マジでおれ,壁でそれこすって消す根性もないとこやったわ。おれがこすって消してるとこ,だれか先生に捕まったら,おれ書いた思われるやん。けど,おれ結局こすってそれ消してん。ほんで校長室上がっていってん。
校長先生おれへんみたいやったけど,百歳ぐらいの女のひとタイプライターんとこ座っとってん。おれそのひとに,4B-1のフィービー・コールフィールドの兄です言うて,すいませんけどフィービーにこの手紙渡してください,お願いします言うてん。めちゃくちゃ大事な手紙なんです,母が具合悪なって昼ごはん作られへんようなったんで,フィービーぼくといっしょにドラッグストアで昼ごはん食べなあかんようなって,その待ちあわせの連絡です言うてん。そのひと,ええひとやったわ,おばあちゃん。おれの手紙受けとって,隣の事務室から別の女のひと呼んで,そのひとがフィービーに手紙持っていってくれてん。ほんでおれ,その百歳ぐらいのおばあちゃんとちょっと話してん。おばあちゃん感じよかったから,ぼくもこの学校通てました,うちの兄弟も,言うてん。いまはどこの学校通てはんのん言うから,ペンシーです言うたら,めちゃくちゃええ学校やないの言いはってん。おれがもしその気なっても,おばあちゃんの誤解解く力なかった思うわ。せやし,もしそのおばあちゃんペンシーええ学校や思てんねやったら,もうそう思わせといたったらええやん。百歳ぐらいのひとに新しいこと言うたかてあかんて。言うても聞けへんて。しばらくして,おれ校長室出ていってん。おもろかったわ。おばあちゃん,でかい声でおれに「幸運を!」言いはってん。ペンシー出ていくとき,スペンサー言うたみたいに。ホンマどっか出ていくとき「幸運を!」言われんの,どんだけ嫌か。悲しなんで。
別の階段降りてたら,また壁に「おめこ」て書いたあってん。また手でこすって消そ思てんけど,こんどナイフかなんかで彫ったあってん。消えそうになかったわ。どっちみち絶望的やねん。もし百万年かけたとしても,世界中の「おめこ」の落書き半分も消されへん思うわ。無理やねん。
校庭の時計見たら,まだ十一時四十分やったから,フィービーに会うまでしばらく時間潰さなあかんかってん。けどとにかく美術館のほう歩いてってん。ほか行くとこなかったから。電話ボックスあったら,西部行くヒッチハイクするまえにジェーン・ギャラガーに電話しとこか思てんけど,そんな気分なれへんかってん。あいつ休みでもう家帰ってるんかどうかも分からんかったから。せやから,まっすぐ美術館行って,うろうろしとってん。
美術館の入口のなかんとこでフィービー待っとったら,小さい子ふたり,おれのほう来て,ミイラどこおるか知ってるて訊いてきてん。おれに訊いてきたほうの子,ズボン開いとったわ。ズボン開いてんで言うたら,その子,おれと話してるその場でボタン閉めよってん──柱とかの陰行くとかしよれへんかってん。びびったわ。笑おか思たけど,また吐きそうなったら嫌やから,やめといてん。「なあ,ミイラどこおるん?」その子また訊いてきてん。「知らん?」
おれ,その子らちょっとおちょくったってん。「ミイラ? なんやそれ?」おれ,訊いてきた子に言うてん。
「知らん? ミイラやん──死んでるひとらやん。オナカとかに埋められてるやつ」
オナカ。びびったわ。お墓言うつもりやってん。
「きみらなんで学校行ってへんの?」おれ言うてん。
「今日,学校休みやねん」さっきから話してるほうの子言いよってん。そいつ絶対嘘ついとったわ,悪いやっちゃ。けどおれフィービー来るまですることなかったから,いっしょにミイラ探したってん。ううわあっ,おれミイラどこあるか昔ちゃんと知っててんけど,もう何年も美術館来てなかってん。
「きみらミイラ好きなん?」おれ言うてん。
「うん」
「きみのお友だちは喋れへんの?」おれ言うてん。
「友だちちゃうわ。弟や」
「弟,喋れへんの?」おれ,喋ってへんほうの子見てん。「ぜんぜん喋られへんの?」おれ,その子に訊いてん。
「喋れるわ」その子,言いよってん。「喋る気せえへんねん」
ほんでやっとミイラあるとこ分かって,なか入ってん。
「エジプト人,どうやって死体埋めたか知ってる?」おれ,その子に訊いてん。
「いいや」
「ほしたら覚えとかな。めちゃくちゃおもしろいねん。顔布で覆うねんけど,その布,秘密の薬品しみこませたあんねん。そうしといたら,死体,何千年墓埋めといても,顔腐ったりとかせえへんねん。そのやりかた知ってんのん,エジプト人だけやねん。現代科学でも解明でけへんねん」
ミイラんとこ行こ思たら,めちゃくちゃ狭い入口通っていかなあかんねん。ファラオの墓から持ってきた石積んだあるとこ。けっこう薄気味悪いとこで,あんだけイキっとおったふたり,あんま楽しなさそうやったわ。ふたりともおれにぴたあひっついて,ぜんぜん喋れへんほうの子,ずっとおれの袖掴んどってん。「もう行こ」その子,お兄ちゃんに言いよってん。「おれ,もう見たわ。なあ,行こ」その子,振りかえって逃げていきよってん。
「あいつどんだけびびりやねん」お兄ちゃん言いよってん。「ほなな!」その子も逃げていきよってん。
ほんで墓んなかおんの,おれだけなってもてん。ある意味,良かったわ。居心地ええし,ほっとしたわ。ほしたら急に,なに見えた思う? 壁にまた「おめこ」て書いたあってん。石のしたの,壁,ガラスなってるとこのすぐしたに,赤のクレヨンかなんかで書いたあってん。
これが困るとこやねん。居心地ええ,ほっとするとこなんか,絶対見つかれへんねん。そんなとこ,あれへんねん。ある思てるかもしれんけど,そこ着いたら,ひとが見てへんあいだにだれか忍びこんで,ひとの鼻のしたに「おめこ」て書いていきよんねん。いつか試してみたらええわ。もしおれ死んで墓埋められて,墓石とか飾ってもうて,「ホールデン・コールフィールド」て書いてもうて,何年に生まれて何年に死んだとか書いたあるそのしたに,「おめこ」て書かれんねん。いや,実際そうや思うわ。
ミイラんとっから出てきたら,便所行きたなってん。ちょっと下痢気味やってん,マジで。下痢はどうでもよかってんけど,別のこと起こってん。便所から出よ思たら,ドアの手前で,おれちょっと気絶してん。けどおれ,ついとったわ。床にまともにぶつかったらおれ死んどったかもしれんけど,脇腹から倒れてん。けど,おもろかったわ。気絶したら,そのあと気分ましなってん。ホンマに。腕から倒れたから,腕ちょっと痛かったけど,アホみたいな目眩とかもうせえへんようなってん。
そんとき十二時十分ぐらいやったから,入口戻ってドアんとこ立ってフィービー待ってん。もう会うん最後なんねやろな思とってん。家族のだれと会うんも。たぶんまた会うねんやろけど,何年も経ってからやわ。おれが三十五ぐらいなって,だれか病気なって死ぬまえにおれに会いたい言うて,ほんでおれ家帰んねん。おれが小屋離れて家帰る理由あるとしたら,それだけや思たわ。おれ家帰ったとこ想像してみてん。おかん,めちゃくちゃあたふたして泣きだして,このまま家おってくれ,小屋戻らんといてくれ言う思うけど,おれ出ていくねん。めちゃくちゃふつうに。おれ,おかんなだめて,リヴィング・ルームの反対のほう行って,シガレット・ケース取って煙草点けんねん,めちゃくちゃ冷静に。ほんで,そこおるみんなに,おれの小屋来たいんやったらいつでも来てくださいね言うねん。けど,絶対来てとか言えへんねん。フィービーやったら,夏とかクリスマス休みとかイースター休みんときに,来てもらうわ。D.B.も,もの書くんにええ,静かな場所探してるんやったら,しばらく来てもうてええわ。せやけど,おれの小屋で映画の脚本書くん禁止やねん。短編小説か長編小説しか書いたらあかんねん。おれの小屋おるときは,だれもパチもんのことしたらあかんて規則あんねん。パチもんのことしよてしたら,だれであっても出て行ってもらうねん。
手荷物預かり所の時計ぱっと見たら,十二時三十五分やってん。校長室のおばあちゃん,もうひとりの女のひとに,手紙フィービーに渡すな言うたんちゃうかて心配なってきてん。手紙燃やしてまえとか言うたんちゃうかて。ホンマめちゃくちゃ心配なったわ。おれ旅出るまえにホンマ,フィービーに会うときたかってん。クリスマスの小遣い持ったままやったから。
やっとフィービー来てん。ドアのガラスんとっからフィービー見えてん。フィービーやて分かったん,あいつ,おれのハンティング帽被っとおったからやねん──あんなん十マイル離れてても分かるわ。
おれドアの外出て,石の階段降りて,あいつ迎えに行ってん。分からんかったんは,あいつこんなでっかいスーツケース持ってきとおってん。五番街渡ってんのに,アホみたいにでっかいスーツケース引きずってきとおってん。あんなもん,引きずんのもたいへんやった思うわ。近く寄ってみたら,それ,おれが昔使てたスーツケースやってん。ウートン行ってたとき使てたやつ。なんでそんなもん持ってきとおんのか,分からんかったわ。「お待たせ」近づいてきて,あいつ言いよってん。スーツケースのせいで,完全に息切れとったわ。
「もう来えへんのちゃうか思とったわ」おれ言うてん。「それ,なに入ってんねん。おれ,なんも要らんで。このまま行くねん。駅に置いたあるカバンも持っていけへんわ。それ,なに持ってきてん?」
あいつ,スーツケース下ろしよってん。「わたしの服」あいつ言いよってん。「わたしもいっしょに行くわ。ええ? かめへんやろ?」
「なんやて?」おれ言うてん。それ聞いたとき,おれ倒れそうなったわ。マジで。目眩してきて,また気絶かなんかするんちゃうか思たわ。
「シャーリーンに見られんように裏のエレヴェーターで降りてきてん。重たないで。入ってんの,服二着,モカシン,下着,靴下とかそんなもんや。持ってみ。重たないで。いっかい持ってみ... なあ,いっしょに行ってええ? ホールデン? かめへんやろ? お願いします」
「あかん。うるさい」
おれ冷となって気絶するんちゃうか思たわ。あいつにうるさいとか言うつもりなかってん,けどまた気絶するんちゃうか思てん。
「なんであかんの? お願いや,ホールデン! 邪魔せえへんて──いっしょに行くだけやん,それだけやん! あかんねやったら服置いてくわ──わたし──」
「なんも持っていくな。おまえは行けへんねん。おれひとりで行くねん。せやから黙っとけ」
「お願いや,ホールデン。わたしも行かせて。わたし,めちゃめちゃ,めちゃめちゃ──」
「おまえは行けへんねん。うっさいねん! そのカバン貸せ」おれ言うてん。ほんで,あいつからスーツケース取ってん。おれ,あいつのこと殴る体勢なってたわ。おれあいつに平手打ちかまそか思たわ。ホンマ。
あいつ泣きだしよってん。
「おまえ,学校で劇とか出んのちゃあうんか,その芝居でベネディクト・アーノルドやる言うとったんちゃあうんか」おれ言うてん。めちゃくちゃ憎たらしい言いかたで言うてん。「それどうすんねん? 芝居出んでええんか,頼むでアホ」そう言うたら,あいつもっと泣きよってん。おれ嬉しかったわ。急におれ,目玉落ちるまでこいつ泣かしたろ思てん。マジで腹立てとったかもしれんわ。おれといっしょに来たら芝居出られへんのに,こいつなに言うとおんねんて腹立ったんや思うわ。
「ちょっと来て」おれ言うてん。ほんでまた美術館の階段上ってん。あいつ持ってきたでっかいスーツケース手荷物預かり所に預けて,学校終わって三時なったらまた取りにこれるようにしとこ思てん。そんなん学校持ってったらあかんて分かってたから。「なあ,ちょっと来て」おれ言うてん。
けどあいつ,階段上ってけえへんかってん。おれのほう来えへんかってん。けどおれ,とにかく階段上がって,手荷物預かり所にカバン持ってって預けて,また降りてきてん。あいつずっと歩道んとこ立っとおったわ。けど,おれ下りてきたら,あいつおれに背中向けよってん。そんなことしよんねん。その気なったら,ずっとひとに背中向けよんねん。「もうおれどっこも行けへんわ。もう止めや。せやから,泣くん止めて,黙って」おれ言うてん。おもろかったんは,おれそう言うたとき,あいつもう泣いてなかってん。けどとにかくそう言うてん。「なあ,来て。学校まで送って行くわ。なあ,来て。遅刻すんで」
あいつ返事とかする気なさそうやってん。あいつの手掴もうてしてんけど,掴ませよれへんかってん。ずっと顔そむけとおってん。
「昼ごはん食べた? 昼ごはんもう食べたん?」おれ訊いてん。
あいつ,ぜんぜん返事する気なさそうやってん。そのかわりに,おれの赤いハンティング帽──おれがあげたやつ──脱いで,おれの顔にぶつけてきよってん。ほんでまた背中向けよってん。びびりかけたけど,おれなんも言えへんかってん。帽子拾て,コートのポケット仕舞もてん。
「なあ,来てえや。学校までいっしょに行こ」おれ言うてん。
「わたしもう学校行けへん」
おれ,なんて言うたらええか分からんかってん。二分ぐらい黙って立っとってん。
「学校は行かなあかんわ。あの芝居出たいねんやろ。ベネディクト・アーノルドやりたいねんやろ」
「やりたない」
「やりたいわ。然りや。なあ来て,ほら。行こ」おれ言うてん。「そもそも,おれもうどっこも行けへんねん,言うたやん。おれ家帰るわ。おまえが学校戻ったらすぐ,おれ家帰る。まず駅行ってカバンとってそのまままっすぐ──」
「わたしもう学校行けへん言うてんねん。お兄ちゃん,なんでも好きなようにしいや,けどわたしもう学校行けへんねん」あいつ言いよってん。「うるさいねん」あいつがおれにうるさい言うたん初めてやったわ。嫌な感じやったわ。ホンマ,嫌な感じやったわ。ののしられるより嫌やったわ。あいつ,ずっとおれのこと見てなかったし,肩とかに手載せよてしても,させよれへんかってん。
「ほな散歩でも行こか」おれ言うてん。「動物園まで散歩せえへんか。昼から授業出んでええておれ言うて,散歩行ったら,こんなんやめにしてくれるか?」
あいつ返事する気なさそうやったから,おれもっかい言うてん。「昼から学校さぼってええ言うて,ちょっと散歩したら,こんなんやめにしてくれるか? 明日はちゃんと学校行ってくれるか?」
「さあ。どうしよ。分からんわ」あいつ言いよってん。ほんでアホみたいに走って通り渡りよってん,車来てるかどうか見んと。あいつときどき頭おかしなりよんねん。
けどおれ追いかけへんかってん。あいつ,おれに付いてくるやろ思とったから,動物園のほう歩いてってん。通りの公園側のほう。ほしたらあいつも,アホみたいに反対側の歩道同じほうに歩きだしよってん。あいつ,おれのほう見とおれへんかったけど,おれがどっち向こてるか,たぶん視界ぎりぎりのとこでずっと見とった思うわ。とにかく,おれらずっとそうやって動物園まで歩いてってん。二階建てバス通ったときだけは困ったわ。向こうの歩道見えへんようなって,あいつどこおるかぜんぜん分からんようなってん。けど動物園着いたときだけ,でっかい声で言うてん。「フィービー! 動物園入んぞ! 来いよ!」あいつ,おれのほう見いひんかったけど,おれの声聞こえてた思うわ。おれ,動物園行く階段降りるとき振りむいたら,あいつ通り渡って付いてきとったわ。
カスみたいな日やったから,動物園あんまひとおれへんかってんけど,アシカのプールのへんにちょっとひとおってん。通りすぎよ思たら,フィービー止まって,アシカ餌食うん見だしよってん──おっさんアシカに魚投げとおってん──せやから,おれ戻ってん。フィービーとまた話するええチャンスや思たわ。おれ,あいつのほう近づいてって,後ろ立って,肩に両手載せてんけど,あいつ膝曲げて,おれの手から逃げよってん──あいつ,その気なったら,めちゃくちゃ嫌なやつなりよんねん。アシカ餌貰てるあいだ,あいつずっとそこ立っとって,おれその後ろおってん。もう肩に手載せたりせえへんかったわ。もしそんなんしたら,あいつホンマに逃げるかもしれんかったから。子どもて,おもろいわ。そんなん気つけなあかんねん。
アシカの餌やり終わっても,あいつ,おれの隣歩こうてせえへんかってん。けど,あんま離れてなかったわ。ひとつの歩道の端あいつ歩いて,おれがその反対の端歩く感じやってん。あんまたいしたことなかったけど,その前みたいに一マイルぐらい離れて歩くんに比べたらましやったわ。小さい丘登ってしばらく熊見てんけど,あんま見るもんなかったわ。外出てんの一頭だけやってん,北極熊のほう。もう一頭の茶色いやつ,アホみたいに洞窟入って出てけえへんねん。尻尾んとこしか見えへんかってん。おれの隣に小さい子立っとって,その子両方の耳まですっぽりカウボーイ・ハット被っとってんけど,お父さんにずっと「あの熊出して,お父さん。あの熊外出して」言うとってん。おれフィービー見たら,あいつ笑おうともしてへんかったわ。子どもが怒ってるときて,そんなんやん。笑おうてしよれへんねん。
熊見たあと,動物園出て,公園んなかの小さい道渡って小さいトンネルくぐってん。そこいっつも,だれか小便したみたいな臭いしてんねん。それ,回転木馬行く道やってん。フィービーまだおれと話する気なさそうやったけど,なんかおれの隣歩くようなってたわ。たいした意味なしに,あいつのコートの背中んとこのベルト掴んでんけど,やっぱりあいつ逃げよってん。あいつ,「手を伸ばさないでください,よろしくお願いします」言いよってん。まだおれに怒っとおったわ。けど前ほど怒ってへんかったわ。とにかく,おれらどんどん回転木馬のほう歩いとって,いっつもかかってるにぎやかな音楽聞こえてきてん。そんとき「オー,マリー!」かかっとったわ。五十年ぐらい前の,おれが子どもやったときと同じ曲かかっとってん。それ,回転木馬のええとこやわ,いっつも同じ曲かかってんの。
「冬やから回転木馬やってへん思とったわ」フィービー言うてん。実質的にもの言うたん,ひさしぶりやったわ。おれに怒ってることなってんの忘れよったんや思うわ。
「たぶんもうじきクリスマスやからやろ」
おれ言うたら,あいつなんも言いよれへんかってん。たぶん,おれに怒ってることなってんの思いだしよってん。
「あれ乗りたい?」おれ言うてん。たぶん乗りたい言う思てん。あいつ小さい子どもやったとき,アリーとD.B.とおれ,あいつ連れてよう公園行ってん。そんときあいつ回転木馬アホみたいに好きやってん。あいつ引きはなすん,アホみたいにたいへんやってん。
「わたしもう大人やん」あいつ言いよってん。返事せえへん思とったら,しよってん。
「そんなことないわ。ほら,乗ってこいや。おれ待ってるから。乗ってこいや」おれ言うてん。ほんでちょうど回転木馬んとこ着いてん。乗ってる子,ちょっとだけで,ほとんどめちゃくちゃ小さい子で,親何人か外でベンチ座ったりして待っとってん。おれ切符売ってる窓まで上がって,フィービーに切符買うてん。ほんでそれ,あいつにあげてん。あいつ,おれの真横立っとったわ。「ほら」おれ言うてん。「ちょっと待って──おまえの小遣いの残りも渡すわ」おれ,あいつに借りた小遣いの残り返そうてしてん。
「持っといて。わたしの代わりに,持っといて」あいつ言うてん。ほんで,そのあとすぐ言いよってん。「お願いします」
おれ,ひとに「お願いします」言われたら悲しなんねん。それがフィービーでもだれでも。めちゃくちゃ悲しなんねん。けどおれ,その小遣いポケット戻してん。
「お兄ちゃんも乗れへんの?」あいつ訊いてきよってん。おもろそうな顔してこっち見とったわ。もうあんまおれに怒ってなさそうやったわ。
「おれはまた今度。おまえ乗ってんの見とくわ」おれ言うてん。「切符持った?」
「うん」
「ほな行ってこい──おれ,あっこのベンチおるわ。おまえのこと見てるわ」おれそっち行ってベンチ座って,あいつ回転木馬の台乗りよってん。あいつ一周しよってん。いっかいわざわざぐるっと周り歩きよってん。ほんで,でっかい,茶色の,見た目ぼろぼろの馬乗りよってん。ほんで回転木馬動きだして,あいつがぐるぐる,ぐるぐる回んの,おれ見とってん。乗ってる子,五,六人ぐらいしかおれへんかって,「煙が目にしみる」かかっとってん。めちゃくちゃ派手なおもろい演奏やったわ。乗ってる子らみんなずっと金の輪掴もうてしてて,フィービーもしとってん。フィービー,アホみたいに馬から落ちるんちゃうかておれ心配なってんけど,おれなんも言えへんかったし,なんもせえへんかってん。子どもが金の輪掴みたい思てんねやったら,そうさせたらなあかんねん。なんも言うたらあかんねん。馬から落ちるときは落ちるけど,なんも言うたらあかんねん。
回転木馬終わって,あいつ馬から降りて,おれんとこ来よってん。「こんどはお兄ちゃんも乗りいや」あいつ言いよってん。
「いや,おれ見てるだけにしとくわ。おまえのこと見てるだけにしとくわ」おれ言うてん。おれ,あいつの小遣いから,またお金渡してん。「ほら。また切符買うてこいよ」
あいつ,それ受けとりよってん。「わたしもうお兄ちゃんのこと腹立ってへんわ」あいつ言いよってん。
「分かってる。早よせな──また始まんで」
ほしたら急にあいつ,おれにキスしよってん。ほんで手伸ばして言いよってん。「雨や。雨降ってきた」
「分かってる」
ほんであいつ──おれアホみたいにびびりそうなったわ──おれのコートのポケット手突っこんで,おれの赤いハンティング帽出して,おれの頭被せよってん。
「もう要らんのん?」おれ言うてん。
「しばらく被らせといたるわ」
「よっしゃ。けど早よせな。乗んの間に合えへんで。好きな馬乗られへようなんで」
けどあいつ動けへんかってん。
「さっき言うたん本気? ホンマにどっこも行けへん? ホンマこのあと家帰るん?」あいつ訊いてきよってん。
「おお」おれ言うてん。本気で言うてん。嘘つけへんかってん。ホンマそのあと家帰ってん。「早よせな,ほら」おれ言うてん。「もう始まんで」
あいつ走って切符買うて,ぎりぎりアホみたいに間に合うてん。ほんでまたわざわざ一周して,さっきの馬選びよってん。ほんで乗りよってん。あいつおれに手振って,おれも振りかえしてん。
ううわあっ,アホみたいに雨降ってきてん。バケツで何杯も水かけられたみたいやったわ,ホンマ。親とかお母さんとかみんな,ずぶ濡れならんように回転木馬の屋根付いてるとこ行って立っててんけど,おれけっこう長いことそこのベンチおってん。けっこう濡れたわ,首とかズボンとかとくに。ある意味,ハンティング帽ホンマにおれ守ってくれてんけど,それでも濡れたわ。けど,濡れるぐらいどうでもよかってん。フィービーぐるぐる,ぐるぐる回ってんの見てたら,おれ急にめちゃめちゃアホみたいに幸せな気分なってきてん。もうちょっとでアホみたいに叫びそうなったわ,めちゃめちゃアホみたいに幸せな気分なってん,マジで。なんでか分からんわ。フィービー,めちゃめちゃアホみたいに感じよかってん,ぐるぐる,ぐるぐる回ってんの,青いコートとか着て。ホンマ,それ見てほしかったわ。
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おれ話するつもりなん,こんだけやねん。家帰ったあとどうしたとか,そのあと病気なったとか,ここ出たらこんど秋からどこの学校行くことなってるかとか,たぶん話しよ思たらできるけど,そんな気なれへんねん。ホンマ。そんなん,いまあんま興味ないねん。
仰山いろんなひと,とくにひとりここの精神分析士のひと,九月なったらこんどの学校で適応するかてずっとおれに訊いてくんねん。そんなんアホらしい質問やわ,おれの意見では。そんなん,やってみるまで,どうやって分かんねん。分からんやろ。おれは適応するつもりやけど,おれには分からんわ。ホンマ,アホらしい質問やわ。
D.B.ほかのひとらよりましやけど,それでもおれにいろいろ質問してくんねん。こないだ土曜に,いま脚本書いてる新作映画出るイギリス人の子連れて車で来てん。かなり気取った子やったけど,めちゃくちゃ美人やったわ。とにかく,その子あっちの翼あるトイレ行ってるあいだに,D.B.おれに,おれここまで話してきた体験どう思てるて訊いてきてん。なんて言うてええか分からんかったわ。マジで,おれ自分がどう思てんのか分からんねん。いろんなひとにこの話したん後悔してるわ。分かったんは,話したやつらと会われへんようなったん,ある意味淋しいいうことぐらいやな。たとえば,ストラドレーターとかアクリーでも。あのアホみたいなモーリスでも,話したら,淋しなったわ。おもろいわ。だれにもなんも言わんほうがええで。だれのことでも,話したら,そいつおらんで淋しなんで。