ちわっす。
ごぶさたしてます。お元気ですか。お子さんが育つと,いろいろ発見があることでしょう。ご苦労も含めて,楽しそうですね。
さて,こちらはあいかわらずです。またひとつ,えらいもんに出会ったとあたふたしてるんですが,だれになにを伝えればいいのかわかりません。
これです。
— ほのか (@h1017_onoka_) October 1, 2019
見た瞬間に「かわいい」と「くるってる」とが伝わり,その感想をひとことでまとめると「やばい」になるだろう写真です。これが,おれが今月見つけた「かわいい」です。こんな話,だれも聞いてくれないので,ここは因果か介護だと思ってちょっと聞いてください。
これは,ご覧のとおり,成人女性が女児服を着ている写真です。いや,「女児服」という語を,おれはこのツイートのタグで初めて知りました。ついこないだまでなら,小学校低学年の女のコが着るようなプリキュアの絵がかいてあるピンク色の服,としか言いようがなかったでしょう。写真の服は,大人でも入る特別なサイズのものでなく,ほんとに 10 歳用くらいのサイズだと思います。だから,小さくてぴちぴちです。まっすぐ立つと,おなかが半分出るんじゃないでしょうか。
ご承知のとおり,おれは世の倒錯者の動向に疎いので,自発的に「女児服」を着る大人がいつからどのくらいいるのか知りません。なにかご存じでしょうか。考えてみれば,そういうひとは,いままでもいたんだろうと思います。幼稚園児か小学生のころ,発達段階でなんらかのトラブルがあって,その年齢を通過できないまま,その年齢の自分を心に抱えて,身体が大人になった人々。彼女たちが,自己の救済のために,大人になってから女児服を着るということは,おれの知らないところで,あったんだろうと思います。逆メルモちゃん。上の写真の,ほのかさんにも,多かれ少なかれそういう面があるんだろうとおれは思ってます。
けれど,おれがその写真を見て動揺したのは,心理的に込みいったそういう行為を,ほのかさんが「かわいい」に振りきろうとしていることでした。「かわいい/くるってる/やばい」と,みっつの選択肢から好きなものを自由にひとつ選んでいい場面で,上の写真では「かわいい」が選ばれています。それは,どういうことか。
もしかすると以前に言ったことがあるかもしれませんが,岡崎京子先生のマンガは「カエル」と「ウサギ」とのバランスのうえに成立しているというのが,おれの控えめな持論です。「カエル」は,トホホと嘆く,精神のオナラのような存在です。人間のダメな部分,醜い部分,他人に見せるとよろしくない部分に寄りそうサビオ(北海道弁)のような存在で,おおむねマンガの枠外から大人の登場人物を見守ります。蛇足ながら,サンリオの「けろけろけろっぴ」は,岡崎先生の「カエル」にヒントを得ているとおれは見ています。一方,愚かな大人にキレキレの正論を突きつける小学生の女のコは「ウサギ」を抱いています。ただし,彼女がそんなことを言えるのは恋をしたことがないからだと,しばしば示唆されます。性欲がなければ,人間はかなり賢明になれると,岡崎先生は考えているようです(それに加えて,「地位」や「カネ」も人間社会のやっかいな要素だとおれは考えますが,それはさておき)。
21 世紀になって,世には「カエル」が幅を利かせるようになったとおれは感じてます。T-cup 掲示板あたりから普及した初期のソーシャル・ネットワーク・システム(ひとづきあいをまとめるしくみ)は,文章主体でした。それをとおして,われわれは,まともな人間のなかに,まともな人間はいないと学びました。精力的で創造的で趣味がよくて達観していると思われていた人々が,他人が思ってもみなかった,理解しづらいことに囚われていると知りました。その惨状を救うべく,インスタグラム社が写真主体のシステムを開発しましたが,世の趨勢を変えるには手遅れでした。
「かわいい」という概念は近ごろ,不気味なものと切りはなしがたくなっています。正確に言うと,女子が自分のために使う「かわいい」という語は,たいてい不気味な要素を含んでいます。そこには,「カエル」が関与しているとおれは見ています。もっとも,おれはすっかり老眼が進んで,なにかが,あるいは,だれかが「かわいい」かどうか判断するのに,外見に頼ることがほとんどなくなりました。なので,だれかが「人食い巨大ミミズがかわいい」と言えば,なるほどと思い,別のだれかがピンク色のスライムを顔面全体に垂らした自画像を描けば,「かわいいですね」と素直な感想を述べることができるようになりました。「かわいい」とは,その場合,それらに向かいあうときもたらされるゾクゾク感(thrill)のことを言っていて,見た目に関係がないからです。いま英語で thrill (スリル)と言いましたが,おれはここでフランス語の la petite mort (小さな死)という句を思いだします。それは,ジョルジュ・バターユが好んだ表現で,性的な絶頂を経て魂が抜けた状態を指します。不気味さと不可分の「かわいい」は,バターユが言うほどの「死」でないにしても,「小さな『小さな死』」 la petite 'petite mort' くらいに言っていいと,最近おれは思っています。
おれは,それでいいんです,女子の言う「かわいい」が,見た目に関係なく thrill の感覚や「小さな死」になっても。おれは,「かわいい」の傍観者(bystander)であって主体でないから。「かわいい」が外見に関係なくなっちゃ困るという人々がいることも承知してますが,それはそれ,女子の言う「かわいい」と別のところで折りあいがつくでしょう。そんなふうにのんびり構えていたところでおれが出会ったのが,上の女児服の写真でした。
ほのかさんの女児服の写真には,ミミズとかスライムとかいった,外見上不気味な要素がありません。しかし,ミミズやスライム以上に「やばい」と,おれは思いました。これは弁証法だな。ご承知のように,ヘーゲル哲学は,今日の数学のような形式論理をハナっから軽蔑しています。たとえば,「かわいい」という概念(正,テーゼ)がある。それが普及すると,そこから古い「かわいい」を否定するもの(反,アンチテーゼ)が生まれる。両者はしばらく対立するが,やがて両者をすっぽりと包みこむ,一段階上の「かわいい」(合,ジンテーゼ)が現れる。人類の歴史はその繰りかえしだとヘーゲルは考えます。『マクベス』の魔女たちは「きれいはきたない,きたないはきれい」と言いましたが,それらの立ち位置のひとつ上に別の「きれい」があると言うとわかりやすいでしょうか。
「かわいい」が,かわいくなくていいのか,という疑問は,おれのような傍観者には持ちようのないものです。大好きなプリキュアを,ミミズやスライムといっしょにするなと,おれには思いつきません。女児服写真は,「かわいい」の主体が,不気味な「かわいい」からかわいい「かわいい」を取りかえそうとする試みであると,おれは思いました。
大人なのに女児服着たら、誰でもこんな風に可愛くなれます? ̄チハすすめです?#大人なのに女児服着てる pic.twitter.com/f8lxYFjiIc
— #大人なのに女児服着てる (@otonajyojifuku) October 4, 2019
このツイート,「大人なのに女児服着たら、誰でもこんな風に可愛くなれます」と言ってます。そう言ってるのは,被写体の人物ではありませんが,本気で言ってるんだろうと,おれは思います。窮屈な女児服に絞めつけられて「ウサギ」の立場に身を置いてみることは,ある種の人々にとって,「小さな死」であるだろうからです。
ところで,これらの女児服写真には,別ヴァージョンがあります。こんなのです。
— ほのか (@h1017_onoka_) October 1, 2019
上の二組の写真に比べて,こちらのほうがわかりやすい。ブルゾンが肩を覆ってるだけで,こんな小さいの,よく両腕が通ったなと思います。この最後の二枚の写真は,
これは,上の二組の写真と別系統である気がしますが,触れておかないと,おれがパンツにこだわりを持っていると思われそうなので,とりあげました。
おれはいま,まわりの男性に,女性から話題をふられても,めったなことで自分が何フェチかなんて言うんじゃないぞと忠告しています。かなり真剣で深刻な場面でも,たぶん 10 年以上にわたって,K さんに,結局のところパンツ好きなんでしょと扱われたので。人間,学習するものです。おれも多少かしこくなりました。
というわけで,おれの考える最新型のかわいい-2019 はこんなの,というご報告でした。かわいいものに出会うたび,うろたえることしかできません。
ではまた。みなさまによろしくお伝えください。
また,なにか思いついたら連絡します。
2019 年 10 月 14 日